研究機関誌「FOOD CULTURE No.29」山口と九州の甘いしょうゆの形成要因&尘颈苍耻蝉;再仕込みしょうゆの広がり、混合しょうゆ&尘颈苍耻蝉;
山口と九州の甘いしょうゆの形成要因&尘颈苍耻蝉;再仕込みしょうゆの広がり、混合しょうゆ&尘颈苍耻蝉;
山口で诞生―再仕込みしょうゆ(甘露しょうゆ)の広がり
1.はじめに―甘露しょうゆの诞生
九州の刺身しょうゆは、色が浓く、とろりと粘性があるのが特徴だ。様々な地域で调査していると「これは再仕込みですよ」との声を闻く。
再仕込みしょうゆの全国での生产量は、前号で绍介したたまりしょうゆ2%よりさらに少なく1%程度だが、たまりしょうゆのように中部地域に限られるのではなく全国各地で製造されている。
発祥の地とされるのは山口県柳井市で、甘露しょうゆとも呼ばれ昔から人々に亲しまれている。まずは再仕込みしょうゆの歴史を纽解きながら、全国に製造が広まった背景や九州とのつながりを探りたい。
再仕込みしょうゆは、麹を仕込む际、塩水でなく生扬げしょうゆを用いる。1年半から约2年间かけて熟成させるため色は浓くなるが、仕込みを2度繰り返すことになるので旨み成分が高くなる。手间も时间もかかるため高级品である。これを藩主吉川公に献上としたところ「甘露、甘露(おいしい)」とお褒めの言叶を赐ったことに由来し、「甘露しょうゆ」とよばれるようになった。
2.海运?港町発展と柳井津商人の活跃
山口県で诞生したこのしょうゆが全国へ広がった理由の1つに瀬戸内屈指の港町の発展と柳井津商人の活跃がある。
柳井津は、岩国藩の西端に位置し中世から港町として知られ、近世に入って瀬戸内海交易を通じてさらに繁栄、岩国藩の台所と称された。
主要产物の柳井木绵のほか、菜种油、和ろうそく、塩、しょうゆ、その他农产物などの集积地として発展し、现在も街并みには问屋豪商家の白壁が残る。市中には海から问屋へと通じる河川が流れ、河岸から直接荷下しができた。
『高田氏甘露醤油记録』(明治28年)によれば甘露しょうゆは、江戸时代创业の高田家(登茂屋)4代目高田伝兵卫によって、天明年间(1781-1789)の顷、创案されたという。安政元年(1854)に幕府が课税を命じており、柳井しょうゆ生产量の増加と繁盛がうかがえる。
原料の大豆は近隣の村々の他、肥后(熊本県)、豊后(大分県)、壹州(长崎県壱岐市)から、小麦は领内の岩国产が多いが、领外である豊后、岛原(长崎県)などからも调达している。领外からの调达比率は大豆が70.8%、小麦が34.8%である。九州には木绵织物や平生周辺の塩田でつくられる塩を船で移出し、その復路に大豆?小麦を积み柳井に移入したと考えられる。
山口県は瀬戸内海に面しており、最古の入浜式の塩田が多数あり、そこでつくられた塩は海运を通じ大阪、兵库、九州へ运ばれた。
柳井でしょうゆ生产が始まって约50年后の安永年间(1772-1781)には、柳井しょうゆは隣接する本藩领の大岛郡、熊毛郡に贩路を确保し、安芸(広岛県)、伊予(爱媛県)など瀬戸内の浦々に贩路を拡大していった。こうした影响からか现在では爱媛県や小豆岛などでも再仕込みが製造されている。
さらに柳井津商人は、柳井港からの交易(回船)で、明治41年(1908)には全国各地、ハワイ?韩国?旧満州?台湾方面まで贩路を拡げた。昭和初期には神戸?大阪?京都からの注文が多く、神戸?京都には货车で、大阪には船で出荷していた。
3.鉄道の敷设、交通网拡充―全国へ
明治30年(1897)、広島―徳山間に鉄道が開通したが、貨物輸送の大部分は海運に頼る状況が昭和初期まで続いた。その後、交通網が次第に拡充され、駅や主要道路の要所を中心に商業活動が活発化し始めると、柳井しょうゆ最大の顧客地であった大島郡にも広島?阪神商人による直接取引が出現した。海運に頼っていた柳井の卸売業は大きな打撃を受け、10軒あったしょうゆ醸造業者も現在は2軒までに減少している。しかしこの間、1900年に出版された“鉄道唱歌”「柳井津の 港にひびく産物は 甘露醤油…」などのフレーズからもわかるように、再仕込みしょうゆのおいしさへの認知は広がり、醸造業者は山口県を中心に中国地方、九州ほか、今日では全国各地に散見される。
仕込み水に塩水でなく生扬げしょうゆを用いる技术は、歴史的にみると番しょうゆ※1を用いていたところもあり、柳井から同心円状に広がったのでなく偶発的に各々の地域で诞生した可能性もあるが、再仕込みしょうゆが全国で周知され、製造?贩売されているのは水上交通网を駆使した柳井津商人の活跃があったからこそであろう。
※1 諸味を圧搾して一番しょうゆをとった後の粕に食塩水を加えもう一度圧搾し浸出させたもので、しょうゆとしても使われる。番水ともいう。
4.九州北部のつながり
山口県の下関市は、「廻船よらざるはなし」といい、西廻り(日本海)航路、西海(九州)航路、瀬戸内海航路といった主要航路が交差する商品流通の拠点として発达した。昭和33年には関门国道トンネルが开通し、図に示したように九州との行き来が容易になり、人の移动と物流が拡大した。特に山口県と九州北部はバスや鉄道を使って通勤?通学も可能となり、週末には买い物やレジャーなど気軽に人の移动が行われている。下関市史から物の流れを金融(银行)でみると、下関市は福冈県の北九州と福冈市、长崎県の长崎と佐世保市、広岛県との関係性が强く、山阴、四国、南九州地方とは関係性が弱いという。
柳井市内にあるしょうゆメーカーへのヒヤリング调査によると、现在、浓口しょうゆを6割、再仕込み(甘露しょうゆ)を4割程度の比率で製造しているとのことだった。贩売先は山口県内が7?8割、県外が2?3割で、広岛、大阪、冈山、兵库、东京、福冈、大分の各県へ出荷しているという。
九州へは北部までで、南部地域はさらに甘い味を好むため贩売が难しいそうだ。一方、しょうゆ情报センターの统计资料によると、山口県へは多くの九州产のしょうゆが移入しており、地域间で相互の影响が见てとれる。(后出「平成28年度山口?九州圏内しょうゆの相互移入比率」の図参照)
佐贺県のしょうゆメーカーでのヒヤリング调査では、佐贺のしょうゆは九州南部のしょうゆほどは甘くないが、関西よりは甘いという。唐津市は海に面し海鲜物が豊富なため、刺身しょうゆは甘くないと使ってもらえない。刺身しょうゆは再仕込みしょうゆを使用したものが主流で、野菜などの煮物は淡口しょうゆか浓口しょうゆを使用するが、煮鱼は色がしっかりと中までつくのが好まれるため、刺身しょうゆを加えるという。
山口県の甘露しょうゆメーカーの店主によれば、甘露しょうゆのおいしさは、长时间熟成することで、塩角がとれ、まろやかさにあるという。塩分は15%ぐらいだが、実际に味を确认すると塩気を强く感じない。料理では「あらだき」に向いていて色は浓くなるが、しょっぱくならない。甘露しょうゆは価格が高いこともあり、地元の人は基本的には浓口しょうゆを使い、调理人が使っていることが多いようだ。しかし、ヒヤリング调査(30歳代女性、下関在住、柳井出身)では「鱼は甘露しょうゆだと一段とおいしく感じる。帰省した际には甘露しょうゆを购入する。料理も甘口しょうゆが合う」との声があった。现在、甘露しょうゆは、バターケーキやふりかけなどの材料として従来の使い方とは异なる様々な形で人々に爱されている。
甘い混合しょうゆ
1.戦前のしょうゆは甘くない―混合しょうゆの影响
今回、调査で访问した山口?九州のメーカーに自社のしょうゆを表现してもらうと、うまさと甘み、まろやか、うま?あまくちとの表现が多く挙がった。后述(江原先生「しょうゆの地域性と形成要因の调査から见えること」参照)にもあるように、当该地域においては混合しょうゆ※2の生产比率が高い。本醸造しょうゆの生产量が多いメーカーでも、これは関东など県外向けで、地元の人向けは混合しょうゆを出荷しているという。
※2 しょうゆの製造方式には、本醸造(約9割)、混合醸造(1%未満)、混合(約1割)の3種類がある。九州の甘いしょうゆは、一部混合醸造もあったが大部分が混合方式である。混合しょうゆとは、本醸造しょうゆまたは混合醸造しょうゆにアミノ酸液または酵素分解調味液、発酵分解調味液を混合したもの。
混合しょうゆは戦时中の物资不足期に普及する(舘先生「?つゆ&谤诲辩耻辞;や&濒诲辩耻辞;だししょうゆ&谤诲辩耻辞;をしょうゆ代わりに使う东北地方」参照)。原料难で生产がままならないこの时期、しょうゆの供给量を确保し、うま味を补う目的でアミノ酸液が使われるようになった。このアミノ酸液は独特の臭いを伴い、しょうゆの品质にも影响を与えたが、これを抑える手法として糖蜜などが添加された。その后、戦后の飢饿状况の反动で人々は甘さを求め、甘草、ブトウ糖など甘味原料を添加したことで、さらに甘くなったと考えられる。
ヒヤリングでは、福冈県のあるしょうゆメーカーは戦时统制経済下の昭和17年、陆军粮秣厂と海军军需部监督工场の指定により原料を确保し、品质保持をしながら本醸造しょうゆを军に出荷したが、戦后、同社のしょうゆは「辛い(しょっぱい)」といわれ売れなかった。その后、他社の製造する甘い混合しょうゆに味を近づけたら売れたという。
『北九州五都市に於ける味噌、醤油の问题』(昭和19年)によると、北九州の人口増加で味噌?しょうゆが不足し、野田?小豆岛から移入したとある。また、『日本の食生活全集』(农文协出版)都道府県の食事の闻き书、『鹿児岛の料理』(今村知子1999)の昭和初期顷の自家製しょうゆの製造法をみても他の地域と大差なく、今回のヒヤリング调査でも戦前は现在のように甘くなかったという。
すなわち、现在の九州の甘いしょうゆが生まれた要因には、混合しょうゆの诞生が大きく影响しているといえる。
2.甘味嗜好性の素地と地域差
甘いしょうゆが好まれた背景には、フードカルチャー狈辞.26(2016)でも绍介した「甘い=うまい」という文化に加え、戦后の甘味に対する飢饿の反动や、他社との差别化などがあると今回実施した文献?ヒヤリング调査を通して伺えた。また、その甘さの质は地域によって违いがあることも明らかとなった。ここからは甘味が强い地域を中心にその特性を概観する。
砂糖は江戸时代にオランダとの交易で长崎に持ち込まれ、长崎―佐贺―小仓と続く长崎街道によって运ばれ、船または陆路で山口県を経由して京阪や江戸に送られた。8代将军徳川吉宗により国内での製糖奨励策がとられると、全国各地に製糖业が広まり、1751(宝暦元)年には山口県でも製糖业が开始された。この地域の特徴は白砂糖を製造する技术を拥したことだった。こうした歴史が影响するのか、この地域は九州ほどではないが、広岛県や関西より甘口嗜好が强いとの声があった。
长崎街道はシュガーロードともいわれ、街道沿いには中国の黄檗(おうばく)寺院が多く、この街道沿いには砂糖を使った料理や菓子が発达した。明治から昭和30年代にかけては炭鉱业が栄え、现金収入のある者※3がうまい(甘い)ものを求めたとされる。街道のひとつで幕府直辖地(天领)である长崎県の大村市は、现在でも他の地域に比べ甘く粘性があるしょうゆが好まれる。同じ天领でみると日田市(大分県)のしょうゆも県内では特に甘い。天领は経済的に豊かで砂糖の入手が可能だったことが影响したものと考える。
※3 これまで自給自足、家庭で味噌やしょうゆを作っていたが、現金があることで消費型生活へと移行し、甘い混合しょうゆの普及促進にもつながった。
宫崎県日向滩の海端では戦前までサトウキビが多く栽培されおり、しょうゆ蔵も延冈市から日南市にかけて日向滩に沿うように立地している。鹿児岛県に近い日南市のしょうゆは特に甘く、県内の他の地域と差がある。日南市は江戸时代からカツオ渔が盛んで鰹节も特产物として製造されていたという。こうした歴史をもつ同市の大堂津港は今も一本钓りカツオ渔やマグロ延縄渔业の基地で、この大堂津でつくられるしょうゆは、船食として积まれ、甘味があるものが好まれるという。宫城など东北出身の船员がお土产として持ち帰るそうだ。
サトウキビは、17世紀には琉球や奄美地方を中心に栽培されており薩摩藩ではキビから黒糖を作り禄としていた。江戸期の『薩摩風土記』には、“そはは至てよし。さるに入れ出す、したあじあまし、江戸者はくいにくし” “塩梅は甘けれども、村方にては稍(やや)塩辛く、汁には実が多く入る”とある。当時、砂糖は外貨を稼ぐ重要な商品で、村で用いるのは難しいが、街では甘い味つけがされていたことがわかる。今日は減少しているが、この地域には、茶に砂糖を入れる、茶請けに黒糖や甘い漬物など甘いものを出すなどのもてなしの文化が残る。
鹿児岛県には萨摩の大提灯という言叶があるが、大提灯をもった人に先导されて行动する萨摩県人の気质を表したものだという。この県は协业组合内の结束力が强く、闯础厂法が施行される前から独自に定めた规格で品质管理をしていた。昭和31年、あるメーカーが子どもたちに鱼をおいしく食べてもらうため、甘いしょうゆを开発して贩売したところ人気を得た。他県からのしょうゆが大量に移入されていたこともあり、差别化の面からも甘いしょうゆが県下のしょうゆメーカーに一斉に広がったという。
これまで述べたように山口と九州では、甘味を受容?嗜好する素地があり、现在でも都道府県别の砂糖消费量は九州の各県が上位を占めている。混合しょうゆに加える甘味料のサッカリンは、他の地域での使用は少ないが、强い甘味力に代わるものが他にないと九州全域で使用するメーカーが多い。しかし、使用する量に地域间の强弱があり、九州の北部地域では厚生労働省の使用基準上限の半分程度であるのに対し、鹿児岛県では上限いっぱいを添加している。
料理が甘くないことを婉曲に「长崎が远い」というが、鹿児岛では「琉球が远い」ともいう。オランダから输入された砂糖が出回った长崎?佐贺?福冈の北部九州と、琉球?奄美の黒糖を用いていた鹿児岛?宫崎の南部では惯れ亲しんだ甘さの种类が异なる。これがしょうゆの甘さに违いが生じた要因の一つかもしれない。
3.好まれる淡い色―しょうゆの使い分け
山口と九州地域では、しょうゆの色が浓いと味がしょっぱく感じられるため、浓口、淡口ともに他の地域に比べ色が淡いほうが好まれる。鹿児岛のしょうゆメーカーへのヒヤリング调査(4社)では、いずれも地元の人には浓口より淡口のほうがよく売れるという。淡口しょうゆは、うどんや素麺、ラーメンのつゆ、野菜の煮物などに用いられているが、混合しょうゆのため旨味が强く、白だしのような感覚で使われているそうだ。また、宫崎?鹿児岛県では渍物に、対马や天草地方では刺身も淡口で食べるところもあるという。
一方、山口?九州地域では一般家庭において浓口、淡口、刺身しょうゆを3本セットで保有しているところが多い。山口県でのヒヤリングでは、白身鱼の刺身にはポン酢としょうゆ、フグにはダイダイ、赤身鱼は浓口、青鱼は甘口しょうゆや再仕込みしょうゆ、鱼の煮付には浓口しょうゆと、细かく使い分けがされていた。
また、山口?九州地域は、フグやヒラメなど白身鱼を食べることが多い。白身鱼はヒスチジンが多く、赤身鱼に比べアミノ酸含有量が少ない。さらに活け缔めした状态でプリプリとした食感を楽しむため、数日寝かせアミノ酸が増した状态で食す赤身鱼とは异なる。同様に、鶏のたたきや鶏刺しも、新鲜なものを用いるため筋肉中の础罢笔がイノシン酸に変换しておらず旨味が少ない。そのため、旨みや甘味がしっかりとした混合しょうゆが好まれるのであろう。
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県内地域差の特徴と山口?九州圏内の移出入 |
4.おわりに
今日の山口や九州の甘いしょうゆは、文化风土、戦争による物资の欠乏、混合しょうゆの製造技术の普及、そして自家製から大量生产?大量消费型生活へ移行するなかで形成、普及されたものである。
本醸造しょうゆにアミノ酸液を混合して製造した混合しょうゆには、アミノ酸液特有の旨味とコクがある。风味を左右し地域の味を决定づけていた自製アミノ酸液は、近年では自社の味になるよう业者に依頼するところが増えている。混合しょうゆにはアミノ酸液独特の香りがあり、他の地域では好まれないこともある。しかし、熊本県でのヒヤリング调査において、この香りこそしょうゆのおいしさのひとつだという。甘い混合しょうゆそのものは関东などの本醸造が主流の地域では受容されにくいが、赠答品や混合しょうゆをベースに加工した调味料は评判がよいという。
伝统的な调味料であるしょうゆは、时代を経て技术の进展、商流や人的交流により少しずつ変化しながら、各地の味が形成されていった。そして、また新たな広がりもみせている。
最后に、调査に协力いただいたしょうゆメーカーの方々、ヒヤリング协力者の皆様、各地域の図书馆员の皆様に心より感谢いたします。
2)「近世、柳井の醤油醸造業の展開」山口県地方史研究 第83号 藤重豊(平成12年)
3)『柳井市市势要覧』(昭和60年)
4)『「下関を中心とした産業と経済」特別調査』下関産業文化研究所 目崎憲司(昭和35年)
5)『山口県の统计百年』(昭和43年)
6)『下関市史?藩制―市制施行』(平成21年)
7)『日本製糖史』糖业协会(昭和37年)
8)「醤油風土記 九州」日本醸造協会誌 第69巻第9号(昭和49年)
9)『福冈県醤油组合七十年史』(昭和54年)
10)『唐津市史』(昭和37年)
11)「佐賀県における食生活に関する考察」佐賀懸女子師範學校 白井敏輔(昭和10年)
12)『醤 50年のあゆみ』チョーコー醤油(平成3年)
13)『岛原の歴史―自治正编』入江湑(昭和51年)
14)『熊本県史 近代編第一』寺本公作編集(昭和36年)
15)『臼杵市史 中 歴史の展開2現況』(平成3年)
16)『九州の精神的风土』高松光彦(昭和55年)
17)『大堂津 醸造のまちをひも解く』日南市産業活性協議会(平成26年)
18)『鹿児岛県醤油醸造共同组合50年史』(昭和63年)

大分県出身。博士(学術)、調理師、デジタルアーキビスト、学習院女子大学 国際文化交流学部 日本文化学科 准教授 学校給食を通した和食の保護?継承における献立調査研究。1990年代より北タイをフィールドに経済化?情報化の影響によるライフスタイル、食文化の変容実態の継続的研究。
















