糖心原创vlog

研究機関誌「FOOD CULTURE No.2」しょうゆの話 醤油の歴史②

执笔:饭野亮一

醤油の歴史②

平安期における醤

前回においても、平安期における醤の利用状况やその実态について触れたが、今回は更に踏み込んで、平安期における醤がどのようなものであったかについて『延喜式』を中心に见てみることにした。
『延喜式』は、延喜5年(905)醍醐天皇の命により编纂が始まり、延长5年(927)に完成した法典で、各官司が当时の法令に従ってその任务を遂行するために必要な细则を集大成したものである。これは、平安时代の食生活史研究上最も重要な史料である。

主醤の廃止と醤院の设置

『养老令』によると大膳职には主醤(ひしほのつかさ)2人が置かれ、その管理下で各种の醤やくき、未醤などが造られていた。やがてその体制に変动が起こった。
平城天皇の大同年间(806?810)は、中央の政府机関の统廃合と、それに伴う官吏の定员変更が盛んに行われた时代であった。大膳职関係では、大同3年(808)正月20日の詔で、
「筥陶司併二大膳职一。????主醤主菓饼及刑部解部レ宜従二省廃一」(『类聚叁代格』)と、同じ宫内省にあった「筥陶司(はこすえものし)」(饮食の器具を掌る)が大膳职に併合され、大膳职に置かれていた「主醤」と「主菓饼(くだもののつかさ)」という2つの役职が廃止された。つまり、醤などの调味料製造监督官(主醤)2人と主菓饼2人がリストラされてしまった(注1)。
しかし、これでは业务に支障があったとみえ、早くもこの年の7月26日に、「筥陶司が大膳职に併合された上、主醤?主菓饼が廃止されたが业务はそのままなので、繁忙で人数が不足している。大膳职に少进一名、少属一名の増员を乞う」(『类聚叁代格』)といった趣旨の太政官奏上がなされた。
これに対し、早速8月に「加二????大膳职少进少属各一员一」(『类聚国史』)と奏上通りの増员が认められた。さらに、翌大同4年には「加二????大膳职四员一」(『日本后纪』)と、4人の増员が行われた。その后、承和2年(835)6月にも「大膳职々掌。准二之诸职一。加二置二员一。」(『続日本后纪』)と、2名の増员が行われている。
このように大膳职の职员が补充されていく中で、醤などの调味料を造る工场が作られるようになった。それが醤院である。
『延喜式』「大膳式上」(以下『延喜式』を略して「大膳式上」のように表记)には「醤院高部神一座」とあるので、すでに、大膳职には醤院があってそこには高部(たかべ)神一柱が祭られていることがわかる。『延喜式』の约50年后に成った源高明の『西宫记』は「醤院」と、醤院は大膳职の别院としてその西にあることを伝えている。
醤院の建物がいつ顷建てられたか确かなことはわからないが、『叁代実録』元庆6年(882)9月25日条に「大膳职醤院火」と、醤院が火灾に遭ったことが记されている。「主醤」が廃止されたのが808年、増员が一段落するのが835年、焼失が882年なので、醤院は9世纪の半ば顷に创设されたのではなかろうか。

その后、
「権左中弁藤原朝臣為辅伝宣。左大臣宣。大膳亮宫道时忠。宜叁如旧為二供御所并醤院勾当一者。安和二年六月廿五日左大史吉志公胤奉」(『类聚符宣抄』)

と、安和2年(969)に、大膳亮(だいぜんのすけ:大膳职の次官)を醤院勾当(しょういんこうとう:専任の役人)に任命する宣旨が出されたりしている。
この醤院は「大治二年二月十四日。宫内省、主水司、醤院等焼亡」(『百练抄』)とあって、大治2年(1127)にも焼亡しているが、平安期を通じて、醤院における醤づくりが継続されていたことは间违いない。

醤院における醤づくり

「大膳式下」の「年料」のところには种々の食品の年间生产量が载っているが、その内、醤に関しては、「醤一百五十石(注2)瓮一百口(注3)。添醤六十五石 瓮五十口」とあって、醤院は、年间に醤150石、添醤65石を生产していた。そして、この醤の主原料となる醤大豆については(注4)、「凡诸国交易所进。醤大豆并小豆等类。レ到量収。讫即申省。诸司赴集依實検納。」(「大膳式下」)と「租税で購入して諸国から貢上される醤大豆や小豆類が大膳職に到着したらその量を確かめて収納し、その旨を宮内省に報告せよ。その后、関係諸司は集合して所定量を検納せよ。その貢納量は民部式を見よ」としており、全国から集められていた。

「民部式(みんぶしき)」をみると、近江の国以下12カ国が「交易雑物」として醤大豆を贡上することになっている。その量を集计すると、毎年分が327石、「隔叁年进」分が85石となる。この「隔叁年进」を3年に一度と解釈して1年分を割り出すと、28.3石となる(注5)。従って、合计约355石の醤大豆が毎年贡纳されることになる。
そして、この醤大豆は、大膳职用に350石(醤150石用に300石(注6)、未醤50石用に50石(注7))が使用され、内膳司用に2石5斗が使用される(注8)。使用量の合计は352石5斗となり、これは全国からの纳入量にほぼ一致する。
诸国から贡纳された醤大豆は、天日乾燥された后、加工用に回されたようである。「扫部(かもん)式」の「诸司年料」に「长席八枚。」とあって、年料として长席(ながむしろ)6枚が「醤?未醤大豆を曝す所」用に用意されているからである。
この醤大豆を主原料にし、米麹?モチ米?小麦?酒?塩(雑给料はモチ米を除く。原料に水を加えていると思えるが不明)を加えて原料の约29パーセントの醤が造られた。

『厨事类记』(鎌仓末顷)中の「御台盘居様絵図」にみられる调味料セット(四种)の図。

醤と滓醤

『延喜式』には、醤のほか、滓醤(さいしょう)の名が频繁に现われる。しかし、『延喜式』によって醤の製法はわかるが、滓醤に関しては不明である。そこで、両者の関係を「大膳式」「内膳式」を中心に见てみると、次のことがわかる。

  • 1.醤と滓醤が併记されている场合は、必ず醤?滓醤の顺になっている。また、醤は身分の上位者の方に、滓醤は下位者の方に支给されている。
  • 2.醤の用途は多様で、生菜料、薄饼料、好物料、海菜料、渍菜料、汁物料、羹料、索饼料などへの利用が示唆されているが(注9)、滓醤は渍物料としての利用例しか见られない。
  • 3.滓醤は渍物用として多く使われ、醤渍瓜、醤茄子など醤の名の付く渍物全てに使用されているが、醤は供御(くご)用2例に滓醤との併用がみられるだけである。醤渍には滓醤が不可欠だが、醤は特定の场合のみ添加されている。
  • 4.「醤鰒(ひしほあわび)料。东鰒六十斤。塩六斗四升八合一勺八撮。滓醤二石四升四合二勺。」(「大膳式下」)とあって、アワビなどの鱼介类の醤渍を造るのにも滓醤が使われている。
  • 5.滓醤の内膳司における使用量は非常に少なく、その用途は主に渍物用である。

醤は、前回绍介した「造雑物法(ぞうぞうもつほう)」(种々の食品を造る法)の「供御醤料」に従って造られた液体调味料で、その用途の多様性?身分の上位者への支给?渍物におけるプラスアルファ的な使われ方などからして、贵重品として利用された。年间生产量の150石は现在量に换算すると约10.8キロリットルで、1日分にすると约30リットルにすぎない量である(注10)。
そして、醤の绞り滓(醤滓)は再利用され、それを使って「添醤」が造られた(注11)。
「滓醤」はその名からして「滓の混ざった醤」と考え、「滓醤」から液体の「醤」が造られ、その绞り滓を使って后世の2番タマリのような「添醤」が造られた、と解するとすっきりするのであるが、どうもそう简単にはいかないようである。
その理由の第一は、全国から集められた醤大豆の大部分(300石)が「醤」用に充てられ、「供御醤料」の製法に基づいて原料大豆の半量(150石)の醤が造られており、滓醤から醤が造られる过程を想定しにくいからである。
第二は、『延喜式』ではかなりの量の「滓醤」が使われていて、「醤」とは别の用途(主に渍物用)に充てられていることが多いからである。
そこで、试みに醤と滓醤の年间使用料や支给量を表にまとめてみた。
表中の数字は年间に使用される量(単位は合)で、「大膳职関係」は大膳职で使用したり支给する量を、「内膳司関係」は内膳司において使用する量を、「その他」は「大膳式」には示されていないが、明らかに大膳职より支给されている量を表している。このトータル量は概略的な数字である。推定で计上したものや临时のもの(斎宫初斎院関係)、支给人数が不明なものを含むからである。ただ、この他にも临时の支给があることや、人数が不明のため1名分だけを计上したり、支给や使用が明白であってもその量がつかめないため计上出来なかったものものがあることを総合すると、実际にはもっと多くの醤や滓醤が使用されていたように思われる(注12)。

滓醤とは

この表から、醤と滓醤を合わせた年间使用量は、醤の年间生产量の150石を超えるのではないかと思え、滓醤は醤とは别に造られていた可能性がある。また、滓醤は渍物には例外なく使用され、醤と同时に支给される例も多く见られ、别の用途を持っていたこともわかる。そして、滓醤は添醤とも别物と思える(注13)。
滓醤とは、「滓を取り除いていない醤」の意のモロミ调味料で、市场で购入されることもあったかもしれないが、醤院でも造られていた。こう捉えてみて疑问に思うのは、ではなぜこれほど多く消费される滓醤の生产量や製法が『延喜式』に示されていないのかという问题である。「供御醤料」に示されているのは滓醤の製法と考え、その一部を利用して醤が造られる过程を想定してみる必要があるのかもしれない。しかし、ここでは、その生产量の半分を供御用に充てる贵重品としての「醤」については、政府は生产量や製法を定めて、その必要量の确保や品质の保持を図ったが、醤に比べて、製法にそれほど厳密さを要せず、大量生产や市场での购入が可能であった「滓醤」については特にその规定を设けなかったのではないか、と考えておく。
いずれにせよ、醤院では液体状の醤とモロミ状の滓醤が造られていたに违いない。
そして、これらの醤类を実际に使用する场合には、被给者の身分や用途などに応じて种类を定めて支给を行っていく関係上、「醤」「滓醤」などの分类名が必要だった。
しかし、滓醤の名は『延喜式』以外にはほとんど见られないので、一般的にはそのような分类は行われず、醤の名で代表され、醤とはモロミ状の製品と认识されていたのではなかろうか。
『和名抄』には「醤は豆醢也(とうかい)」とある。醢は塩辛のことなので、「豆醢」はモロミ状の大豆製品を表わしている。さらに、もう一例を挙げると、『散木奇歌集(さんぼくきかしゅう)』に次の歌が纳められている。

「ならにしりたる僧の论议しけるか いとしもせすと闻えけれは 承源法师 
论议をは みそひしをにそ したりけり のちにきゝて つけゝる たうさうなりと 人はいへとも」

『散木奇歌集』は、源俊頼(1055?1129)の晩年の自选歌集で、当时の俗语等を知るための贵重な资料といわれている。奈良の知り合いの僧が论议(経论の要义を问答)したが、大した成果は挙げられなかったと闻いて、承源法师が「论议をみそひしを(味噌?醤)にしてしまったことよ」と咏んでいる。ここでの「みそひしをにする」は「味噌と醤をごちゃまぜにしてだいなしにする」の意味に取れる。醤と味噌とがよく似ていることを前提にした喩えである。

液体状の醤の衰退

液体状の醤は、律令政府の衰退とともにあまり造られなくなっていくようである。その理由はよく解らないが、古代における醤と16世纪に出现する醤油とでは原料の麦の使用料が非常に异なっている。『延喜式』における醤は大豆に対して5パーセントの麦(小麦)しか使われていないが、后世の醤油は大豆と同量の麦が使われている。これは现在にもつながる原料の配合割合である。古代の液体の醤は原料からすればタマリのようなものと思えるが、味の点はどうだったのだろうか。
律令政府が衰退していくにつれて全国的に生产されていた乳製品の「苏」が姿を消していくことはよく知られているが、これと同じようなことが液体状の醤にも生じたと思われる(注14)。
以下の资料で平安末から鎌仓期にかけて液体状の醤がどうなっていくかを见てみる。

  • 「七日御干饭并七种御菜事。(略)御菜。■(あおな)。荳(まめ)。萩。薺(なずな)。芹。■■(はこべら)。紫苑(のし)。萱艸(かんぞう)。味噌。塩。糟(かす)。」(『执政所抄』)
  • 「次供御四种。」」(『长寛二年朔旦冬至记』)
  • 「四种ハ。味曽。塩。酢。酒。近代ハ酒ヲ略シテ蓼ヲ用。タデナキトキハワサビ。ハジカミ等也。味曽蓼ハ必酢ニ可レ解也。」(『门室有职抄』)
  • 「御膳ニ四种ト云フ事アリ。味会、塩、酢、酒ノ四ナリ」(『尘袋』)
  • 「四种 塩、酢、酒、醤。今案常以塩酢之四种是略也(」『二中歴』)
  • 「四种器 酢。酒。塩。醤。或止レ醤用二色利一。里书 色利煎汁。イロリトハ大豆ヲ煎タル汁也云云。或鰹ヲ煎タル汁也云々」(『厨事类记』)
  • 「醤 アヘモノ ヒシホ シヤウ」(『平他字类抄』)

①は、平安末期顷の摂家の年中行事を述べたものであるが、正月7日の七种菜の羹(あつもの)に味噌?塩?糟の调味料が使われている。当时の记録には羹や汁がよく出てくるが、それがどのように味付けされているかは不明である。その点でこれは贵重な资料といえるが、醤が使われていないことが注目される。醤が液体调味料として発展を遂げていけば、汁物の味付けに利用されてもよさそうなものであるが、その例が见られない。
②は、长寛2年(1164)に、朝廷で朔旦冬至の仪式が行われた际の记録の一部である。「四种」といわれる调味料セット(塩、酢、酒、醤)中の醤は液体状と思えるが、醤に代って「色利」が并べられている。
③の『门室有职抄』は、鎌仓初期の僧家を中心にした有职故実书である。「至极饗応」(最高の饗応)の时なので、「四种」が并べられているが、醤に代って味噌が使用されている。
④は鎌仓中期の辞书であるが、やはり「四种」の醤と味会と入れ代っている。
⑤は、「四种」とは塩、酢、酒、醤のことであるが、通常は省略して塩と酢で「四种」としている、とある。同书の「五十日饼図」には「四种」が并べられている例が见えるが、この场合は醤の代りに「色利」が使われている。
⑥は、「四种」の醤の代りに、大豆や鰹の色利(煎汁?煮出し汁)が使われることがあることを伝えている。
⑦は、鎌仓末期の作とみられる平仄(ひょうそく)辞书であるが、醤はあえ物としている。このように、液体调味料としての醤は姿を消して行き、醤はいわゆる「なめ味噌」への道をたどっていくようだ。

  1. 1主菓饼の役割は『养老职员令』大膳职条に「主菓饼二人。掌。菓子。造二雑饼等一事」とある。
  2. 2150石の内訳は、天皇用(供御料)が75石、天皇用以外の一般用(雑给料)が75石である。
  3. 3「瓮一百口」とあり、300石の醤が生产されているようにも受け取れるが、后述の醤大豆の贡纳量との関係からも150石の生产量とみなした。
  4. 4『延喜式』の「供御醤料」の原料名中にはただ「大豆」とあるが、奈良时代の醤の原料には「醤大豆」が使われていることから(関根真隆『奈良朝食生活の研究』)、これは醤大豆を指しているものと解せる。
  5. 5「隔叁年进」は「叁年を隔てて进(たてまつ)れ」で、3年の间隔を置いて、つまり4年に一度と受け取れるが、それでは350石を下回り后述の年料に不足するので3年に一度と解釈した。
  6. 6原料大豆の半分量の醤が得られる。别受3石(「造雑物法」)
  7. 7「未醤料。醤大豆一石。米五升四合。蘗料小麦五升四合。酒八升。塩四斗。得一石。(「造雑物法」)」とあり、醤大豆と同量の未醤が得られる。
  8. 8「内膳式」に「造醤鮒鮨鮒各十石」用として「醤大豆二石五斗」とある。
  9. 9『延喜式』中、実际の使用例は、渍菜料、索饼料以外には见られない。
  10. 10当时の1石は现在の约4斗に相当する。(沢田吾一『奈良朝民政経済の数的研究』)
  11. 11滓醤は添醤のほか工人などの食料としても支给されている。
  12. 121名分で计算したものは表中の「无品亲王」から「女御」までの月料で、计上できなかったものは①雑菜正月最胜王経斎会料の醤茄子?荏料、②正月四节料以下の节料(以上大膳式)、③诸物品制作时の工人间食料(扫部式)、④府蒭(ふのまぐさの)睦田営苅食料(りくでんえいがいじきりょう)(近卫府式)である。
  13. 13滓醤の支给例がみられず、使われ方がつかめない。「大膳职」中2ヶ所に支给例の见られる「麁醤」が、麁醤(あらびしほ:粗製の醤)という名前やその用途が醤とほぼ同じ事から「添醤」ではと思えるが、それにしても支给例が少なく、両者の関係を断ずるわけにはいかない。
  14. 14「主税式上」には、诸国の国分寺におかれた僧尼に対する「年中供养」や「安居(あんご)の际の供养」の食品名が挙げられているが、その中に「醤」がある。これらの供养物はその国の「正税」や「国分寺物」を用いて贿われることになっているので、现地调达されたと思える。

饭野亮
1938年东京生まれ。早稲田大学英文学専攻课程、明治大学史学地理学科卒业。食物史家。服部栄养専门学校讲师(食物史担当)。食生活史恳话会世话人、食生活史研究会世话人、日本风俗史学会会员。「米は日本人の主食であったか」「苏の実験的考察」「『多闻院日记』にみる醤油と唐味噌」など研究発表多数。