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研究機関誌「FOOD CULTURE No.1」オランダからの食文化便り 日本の食文化と西洋の食文化、その出会いと変遷

総论 食文化の変迁とその背景

食文化は、常に変化を遂げることはいうまでもない。その変化を推进し、刺激を与える経済的社会的なあらゆる力は、この変化が起こっている时间及び场所と深く関わっている。従って、食の変化をもたらす要因は、具体的な时间と场所によって作られた、独特な状况に基づくものである。ただし、时代のずれや地域差があっても、人间の诸社会が、类似している动きをとっていることは否定できない。そのため、世界中で见られるプロセスには、ある程度の普遍性があると言える。食の変迁に巻き込まれている権力についても、类似性を表すことが多い。本论文では、これまで西洋において発表された、主な研究を绍介しながら、食文化の変迁の背景、またそこに见られる普遍性について论じる。

文化の创造

文化は常に変化し、时代の流れに沿うものである。と同时に、文化には时代の流れを左右する力もある。ハネルツ(贬补苍苍别谤锄)氏が言うように、文化は人间によって创造される「生活の意味」であって、その意味がまた人间をも创造する。言い换えれば、人间の行动は、文化的影响によって大いに感化されるが、その文化は自発的に生まれる存在ではなく、人间によって造られるものである。文化は常に创造されながら、自分の创造者を左右し続ける。
食文化の场合にも、その性格は明确に姿を见せている。世界中の民族が起こした食文化は民族それぞれが住んでいる地域の自然环境と彼等の活动によって発达した経済、社会构造や思想によって形作られる。逆に、このように形作られた食生活を営むことによってそれぞれの民族は自然环境や経済、社会、思想などにインパクトを与える。従って、食文化が変化を遂げれば、その影响が食生活以外の侧面にも深く関わる可能性が高い。また、その変迁の原因も食に限らず、経済や社会、思想に基づいているのである。
例えば、多くの研究において捉えられている现代日本の食文化は、产业化と都市化によって大いに影响を受けたことが一般的に知られている。しかし、そのプロセスにはもう一つの侧面もあることを念头に置かなくてはならない。つまり、食生活の変迁が产业化と都市化にもインパクトを与えたということである。日本の近代化が进んだ结果として、食の生产、加工、流通などが変わったことはいうまでもない。また、产业化や西洋化が进むにつれ、社会构造と価値観の変化が起こり始めた。农民の都市への移动によって食粮の生产者である国民の大部分が徐々に食の消费者のみへと変わった。と同时に、都市における给与生活者の増大が近代家族の成立を推进した。近代家族の基盘となった西洋由来の「一家団らん」イデオロギーが家族の共食を家庭生活の核心とし、家庭料理の発展に强大な影响を与えた。これらの社会的変迁が现在日本の食文化の成立に果たした役割は食文化研究では当たり前のように捉えられている。しかし、このように変化を遂げた食文化は、逆に日本の社会の推移においてはどんな役割を果たしているのかということはそれほど注目されている课题ではないようである。しかしながら、近代化された新しい食习惯が日本の社会に重大なインパクトを与えたことは事実である。新しい食の加工と流通がもたらした、环境问题や脂肪摂取の増加による幼児肥満がその阴の部分の一例である。食品产业と外食产业の発展が、日本の経済に强い刺激を与え、雇用情况の改善に寄与し、女性の社会进出を促进させた。これらの例を、食生活の変迁がもたらしたプラス面として见ることができる。その様々な影响のなかで生まれた日本社会の新しい性格が、また将来、食生活の次なる変迁を导くに违いない。

利益と食文化

食文化は他の文化部门よりも経済や利益と密接に结び付いている。その原因は、食が日常生活に欠くことのできないものであって、生理的な视点から见れば生きるのに不可欠なものだからである。その上、序列社会において食习惯が社会的地位の象徴として利用されるため、下の阶级より违った、洗练された食生活を営むための努力をする倾向が见られる。このメカニズムが赘沢な食品や食器などを提供する者にとって利益のもとになるのである。プレステージと食という点について见る前に、先ずここでは経済作戦の场としての食文化に焦点を当てる。
食文化の変迁によって、利益を得る集団と失う集団が必ず存在する。彼らは当然それぞれの利益を増やすように、努力すると推定できる。変化が起こる前の食习惯を中心に利益を得ていた関係者は、変化を妨げようとするだろうし、新しい食习惯の普及によって利益が上がる见込みのある関係者は変化の波に刺激を与えようとするに违いない。食の変迁を考える际、こういった経済的な争いが背景に组み込まれているという可能性を念头に置かなければならない。その他にも、需要供给の法则のような基本的な市场メカニズムや技术の进歩による生产コストの减少などの要因が、食の変迁に関连していることを考察に含む必要がある。逆に、経済の推移を调べる际、食関係の国际贸易を初め、食品产业などが経済成长に果たす役割も论ずべきことである。
ミンツ(Mintz)氏は、食習慣と経済の関係をはっきりと説明した民族学者の一人である。1985年に出版され「Sweetness and Power」(甘さと権力)という著作において、氏は欧州の実業家が16世紀に中米で設立した砂糖きびのプランテーションの歴史を追究し、イギリス、オランダとアメリカ合衆国における砂糖の浸透と結び付けた。最初は薬剤としか見なされなかった砂糖が、中世の半ばごろから最高級の嗜好品とされ、15世紀までにヨーロッパ中の貴族社会の食卓に現われた。16~17世紀以降、上流階級の間で流行したコーヒーや紅茶に伴って、砂糖は欧州の食文化に定着した。ただし、それはまだ社会の最上層に限られていた。砂糖の民衆化は18世紀~19世紀に起こったのである。例えば、イギリスにおける年間一人当たりの砂糖の摂取は、1700年から1809年にかけて25倍にまで増え、19世紀末にはさらにその5倍となった。奴隷制度のもとで植民地における砂糖の生産がますます増加し、プランテーションのオーナーなど関係者の利益が上がり続けた。それにつれて、ヨーロッパにおける砂糖の摂取が増加し、砂糖のイメージも贅沢品から必需品へと変化を遂げた。ミンツ氏が主張したように、ヨーロッパにおける砂糖の性格の変遷が文化的、栄養的ニーズをさておき、主に、利潤と権力ヘの追求の圧力の結果として起こったのである。
ヒメネズ(闯颈尘别苍别锄)氏がミンツ氏の研究を手本に、19世纪から20世纪にかけてのアメリカ合众国におけるコーヒー普及の调査を行った。コーヒーは、ヨーロッパからの移民とともに18世纪にアメリカに定着した。ただし、砂糖と同様に一般庶民とは隔絶した最上阶级の饮み物であった。その情况が19世纪において変わり始めたのである。年间一人当たりのコーヒーの摂取が1830年から1870年代までの间に2倍に倍に増え、その后も増加し続けた。20世纪の始めまでには、年间一人当り5~6キロに达し、以前高级品であったコーヒーがアメリカ国民の民主的な饮み物に変わった。ヒメネズ氏が言うように、その変迁は、技术の进歩によるコーヒー豆の运送や加工のコスト减少の、大きなたまものであったわけである。なお、コーヒー业界の関係者による激しい宣伝活动や新しい贩売政策も、コーヒーの大众化に强大な影响を与えたと氏は指摘している。
このような食业界の积极的な姿势が20世纪を通じて次第に一般化し、食习惯における宣伝产业の影响は増大し続けた。资本主义の进出にともない、食文化の変迁がますます食生产者、加工者、流通者などの関係者による利润追求に左右されていくのである。それは必ずしも负の面ばかりではない。食品业界が自分の利润を向上させる见込みのある食の変化を推进する结果、世界中の民族の食生活が多様化し、ローカルな食材や食品がより広く、より远い社会において取り入れられ続けている。つまり、食のグローバル化が进んでいるというわけである。
1986年に出版された研究において、デンハルトグ(Den Hartog)氏は、食のグローバル化の比較的早い例を捉えた。インドネシアにおける乳製品の浸透というケース?スタディをもとに、氏はインドネシア人の食習慣におけるヨーロッパの食品産業の役割を探究しようと試みた。20世紀に入ると、欧州の食品産業は、当時オランダの植民地であったインドネシアを、乳製品の新市場とみなし始めた。20世紀まで牛乳や乳製品は、ほとんどの現地の人々にとって見知らぬものであった。オランダ人は乳製品を手に入れるために、乳牛の飼育を17世紀には、インドネシアに導入したが、熱帯地域であったため、18~19世紀を通じて生乳の供給が低く、値段が非常に高く、オランダ人社会に限定されるものであった。19世紀の後半、アメリカ製とヨーロッパ製のコンデンス?ミルクも輸入されたが、それも主に現地人でない消費者を対象にしたものであった。しかし、1920年代を出発点とし、インドネシア人の間にコンデンス?ミルクの摂取を広げるための、オランダのコンデンス?ミルクメーカーによる大セールス?キャンペーンが始まった。インドネシアが独立国家となった後も、政府は植民地時代に始まった牛乳と乳製品の普及を国民健康の改善として推進した。乳製品が、インドネシアにおける日常食品としての地位を短期間で得ることができた背景には、食品産業があり、これなくしては不可能だったであろう。

プレステージと食文化

経済的侧面とともに、プレステージが食生活を左右する最大の力である。多くの社会学者と民族学者は、社会的プレステージが食文化の洗练、そして食文化における外来的要素の受容の、主な动机であると确信している。例えば、食の変迁に関わる研究の先駆者であったピゲルマン(奥颈别驳别濒尘补苍苍)氏が、食の変革を「必然変革」と「赘沢変革」の2种类に分けた。前者は、食粮不足で、これまで食材としてみなされなかったもの、あるいは、自分の社会的身分に适当でないと考えられた食物を、食べ始めることを示している。后者は、社会序列において自分より优れた地位に置かれた人の食生活にあこがれ、それを模倣することを意味している。ここで指摘すべきことは、「必然変革」が自分の意思と无関係で、完全に外的情况による変革であり、「赘沢変革」が逆に変革者の意思と深く関连し、生物的な机能としての食べることと、远く离れた动机に基づいたものだということである。ビゲルマン氏が指摘した重要なポイントは、食文化における変化が一般的に空腹や味など、つまり食べ物自体と関わっている理由に関连して起こるのではなく、むしろ多くの场合、それと全く无関係の、社会序列という侧面によるということである。「赘沢変革」という概念は、食の社会的机能、つまりプレステージとしての食の表现を、はっきりと主张しているのである。
ピゲルマン氏の他に2機能が食文化の変遷で果たす役割に焦点を当てた。先ず、グッディ(Goody)氏が、1982年に発表した『Cooking, Cuisine and Class』(調理、料理と社会層)という研究で、プレステージと食文化の関係を強く関連させた。また、1985年に出たメネル(Mennell)氏の『All Manners of Food』(食文化の相違)という著作では社会的競争の場としての食文化に注目をした。
「ある社会が质素な食生活を営みながら、なぜある社会がそれと违った、洗练され豪华な食文化を形成するのか」という问いが、グッディ氏の研究の出発点であった。氏がアフリカのあらゆる文化の食生活を考察した结果、阶级を问わず、社会全体がバラエティのない质素な现地でとれた食材を使用して食生活を営み、最上阶级においても他阶级と同様に、家长の妻が调理を行うということが明らかになった。それに対し、古代エジプト、中国、インド、ヨーロッパなどの食文化には、社会阶级による相违が着しく、最上阶级が他阶级より高级で、専门の男子调理人や召使などを使って调理させ外国から输入された、豪华な素材を使用した食生活を送っていたのである。その2种类の食文化形式を比较し、それぞれの社会の情况を调査することによって、氏は次のような结论に达した。アフリカの诸文化に见られる食生活の平等さと、インド、中国などの文化に见られる食生活の阶层分化が、社会ヒエラルキーと深く结び付いている。ヒエラルキーが强ければ强いほど、エリートの食文化のユニークさが激しくなるのである。また、文字记録システムの有无も、食文化の洗练に関连している可能性を、グッディ氏は主张した。
メネル氏の研究テーマは、グッディ氏のものと类似している。イギリスとフランスを例にし、氏はその2国の食文化において、洗练の相违の要因を社会システムに探った。両国の歴史を考察した结果、社会序列の特徴によって推进させられた、食文化の推移が见えたのである。
メネル氏の研究の论理的基盘は、ノルベルト?エリアスの有名な「文明化の过程」にある。エリアスが指摘したように「西欧の発展过程では、先ず特定の上流ないし中流阶级层の机能、ひとつの大きな社会结合の支配中枢における宫廷の机能、そしてある程度安定した、暴力的独占机构の保护下にある远隔贸易の编み合わせの、中枢における商人の机能」(361页)を背景に考えなければならない。メネル氏はエリアスのその指摘を食文化の歴史的発展と関连させ、现在のフランスとイギリスの、食文化の相违を説明した。
例えば、20世纪のイギリスの食文化が表わす洗练性の欠乏は、18世纪から维持していったイギリス上流阶级のフランス化によるものである。つまり、フランスの食文化に憧れ、受容し続けたイギリスの上流阶级は、より下の社会歴が模倣できるイギリス独自の洗练された食文化を创造しなかった。そのため、结局、中流阶级のシンプルな食生活が、全社会に広まるしかなかったのである。

おわりに

本论文は、食文化の変迁とこれを左右する背景を把握しようとした。ここで述べた要因の他にも、あらゆるアスペクトが复雑に组み合った影响によって食文化は変化を遂げるに违いない。しかし様々な地域や时代の食文化の変迁を考察した结果、経済的利益と社会プレステージの追求が、食の変化の最も强い动机として现われるのである。
食文化を考察する研究者のなかで、食生活における「文化」という概念の役割を主张する者が多い。また、彼らは「文化」を人间によって创造されるものとしてではなく、各社会の固有で固定されたものとみなす。80年代までは、多くの社会学者が食文化の変迁を无视し、食文化が时间と共に変化するものだとは意识しなかった。食文化研究の父とも言えるレビストラウス(尝别惫颈-厂迟谤补耻蝉蝉)氏さえも、食文化が外的情况によって创造されるというよりも、社会の无意识的な构造の表现だと主张した。ビゲルマン氏の研究をはじめ、本论文で绍介した着作は画期的で、西洋の学界における食文化へのアプローチを一変させた。グッディ氏やメネル氏のおかげで、食文化は常に変化を遂げ、具体的な时间及び场所によって作られた独特な情况に基づくものであるという事実が一般的に认められるようになった。


カタジーナ?チフィエルトカ
ライデン大学文学部日韩研究所研究员。1990年ワルシャワ大学东洋学院日本学科、修士号取得。1994年筑波大学地域研究研究科、修士号取得。1999年ライデン大学文学部日韩研究所、博士号取得。
著作「調理文化学」共著(21世紀の調理学の第1巻)建帛社1996年、『異文化との接触と受容』共著(全集 日本の食文化の第8巻〉雄山閣1997年、"How cooking became a hobby:Changes in attitude towards cooking in early twentieth century Japan"in S.Fruhstuck and S.Linhart,eds.,The Culture of Japan as Seen Through Its Leisure.New York:SUNY Press,41-58, 1998