研究機関誌「FOOD CULTURE No.19?20合併号」野菜の利用と江戸时代の食生活(叁)江戸庶民の暮らしと食生活の知恵
野菜の利用と江戸时代の食生活(叁)江戸庶民の暮らしと食生活の知恵
はじめに
明治2年(1869)の调査によれば江戸の都市空间は、武家地は约70パーセント、寺社地约15パーセント、町地约15パーセントであった。江戸中期には100万人以上の都市となった江戸の人口は、约50万人が武家方人口、町方人口が50万人と、ほぼ半々であったといわれているため、町地の人口密度は极めて高かったことになる(『日本の近世』九巻、中央公论社)。
今回は、その町地のなかでも狭い借家に居住しながら暮らしていた人々の食生活について野菜を中心とした视点から眺めてみることにしたい。
1.长屋くらし 住まいと仕事
东京都公文书馆がその史料から编集した『江戸住宅事情』(东京都)には、江戸各町の家の配置図が描かれている。その中に文化4年(1807)の史料があり、日本桥に近い神田叁河町叁井家が所蔵していた土地のひとつに约30戸分の区割りが描かれている。表に面した4、5戸は、おそらく表长屋といわれる商人の住む店舗と住まいを兼ねた二阶建ての长屋と思われるが、そのほかは里长屋と呼ばれるきわめて狭い住居で、そのうち24戸は4坪以下の住宅である。3坪(约9.9尘2)を「九尺二间(くしゃくにけん)」と称し、狭い住宅を表す言い方でもあった。それは、间口9尺(约2.7尘)、奥行き12尺(约3.6尘)で、六畳一间の広さが住宅の基本となっている。その中に小さな流しとへっつい(かまど)がついているため、実际には部屋として使えるのはずっと狭いといえるが、中にはもっと広く二部屋あるものや二阶建てもあった。この共同住宅には、共同施设として、井戸が一か所、雪隠(せっちん:トイレ)四か所、ごみため一か所がある。
同様に日本桥に近い松田町では戸籍の一部が残されている。これによれば、6割が3、4坪の住宅に住み、戸数150戸に対し、人口578人とあるから、1戸约3.9人となる。実际には、3?5人世帯がもっとも多いが、独り者も2戸、8人世帯も1戸ある。后者はおそらく二阶长屋に住んでいたのではないかと思われるが、かなり厳しい住宅事情であったことは确かであろう。また、この町の借家に住んでいた人々の职业は、职人や小商人が多く、3、4坪の住宅に住む人々は、畳?木具?曲げ物、仕立て、硝子、板木擂りなど多彩な职人が多く、小商売としては青物、菓子、小间物などの振売り商人が多く、女性も唐辛子売りなどに携わっていたことが知られる。
2.振売りの仕事と店赁
长屋に住む人々の多くが携わっていたという振売りには、実に细かな仕事があった。『守贞谩稿』という喜田川守贞が残してくれた幕末の记録は、江戸と関西の生活の违いを比较しながらきわめて详细に観察した记録で、庶民の暮らしを知る数少ない贵重な史料として知られている。この中にみえる食に関わる振売りを挙げてみると、乾物売り、鲜鱼売り、鰻蒲焼売り、鸟贝?ふか刺身売り、白鱼売り、むきみ売り、しじみ売り、ゆで卵売り、鮨売り、いなご蒲焼き売り、塩辛売りなどの动物性食品とそれを调理?加工したものを売る振り売りもあるが、植物性食品やそれを中心とした加工品?调理品もバラエティーに富んでいる。蔬菜売りには、いろいろな野菜を売る八百屋と瓜や茄子など一种を売る前菜(せんざい)売り、松茸売り、生唐辛子売りなどもあった。また加工?调理品では、豆腐売り、纳豆売り、渍物売り、甘酒売り、乾物売り、乾海苔売り、蒸し芋売り、扬昆布売り、麹売り、唐辛子粉売り、ゆで豆売り、尝め物売り、心太(ところてん)売りなどがあった。调味料には、塩売り、醤油売り、ほかに菓子売り、白玉売り、岩おこし売り、飴売りなどや、冷や水売り、水売り(水屋)がある。冷や水売りは、夏に冷たい涌き水を汲み、白砂糖と白玉団子を椀に盛り、一椀4文で売っていたいわば嗜好品である。これに対して水売りは、生活に必要な饮み水を売る商売であった。
江戸幕府は、人口の増加によって必要とされる生活用水の确保のために、上水道の整备に着手した。とくに埋め立て地の多い地域では塩分があり、井戸は役立たないところが多く、神田上水、玉川上水などの上水道が整备された。それは、多摩川や涌き水などの流れを地下に埋设した木製や石製の配水管(樋)で各地に配水し、樽をいくつか重ねた形の上水井戸に流し、人々はこれを井戸のように汲み上げて利用していた。しかし、上水が断水した场合や上水道のないところでは、饮み水を购入する必要があった。上水は、自然の流れを利用して流していたために、余分な水はそのまま下流の川に放流されたので、これを汲みとって商売にしていたという。
ところで、振売りは、胜手に行うことはできず许可されたものに振り売り札が発行された。江戸の町触からみると、万治2年(1659)には、振り売り札は江戸北部の调査だけで5900人に発行され、その约52パーセントが50歳以上、约21パーセントが15歳以下、身障者が2パーセントと、子どもや老人、身体障害者をあわせると7割以上であった。これは、彼らが弱者として保护された结果といえる。一般には新规の商売が禁止されたが、彼らには、あめおこし売り、豆腐こんにゃく売りなどの商売には、札を优先的に発行し、鰹节売り、鮭の塩引き売りなど、札なしで商売が许可されたものもあった。
振売りの稼ぎが一日働いてどのくらいだったのか、あまり明确な史料がないが、『守贞谩稿』にある大工は、3?5匁、手伝人足などが280文とあり、売り上げの程度にもよるが、江戸后期には、200?300文程度は得ていたと思われる。
これに対して、住宅の家赁(店赁)はどの程度であったのか、再び『江戸住宅事情』からみてみよう。広さにより异なることはもちろんであるが、场所により异なり、日本桥京桥界隈は比较的高く、里长屋の九尺二间で、一か月9匁?15匁であるが、周辺の地域では、1匁2?5分というところもあったようだ。当时、江戸と京坂では通货の単位が异なり、时代による変动もあったが、ここではおおよそ银一匁を约100文として换算してみると店赁は、一か月900?1500文となり、振売りなどの収入3?5日分程度で家赁を支払えたことになる。しかし、毎日働けるわけではなく、また衣服代、食费、交际费などにかかる支出もあるために、ゆとりがあるとはいえなかったであろう。
幕末の随笔、栗原信充着『柳庵雑笔』(1848)によれば、夫妇と小児一人の大工の家庭で収入は一日5匁4分、年间294日働き约银1贯590匁(1590匁)程度を得ている。また、支出は、米代が约22パーセント(354匁)、塩?醤油?油?薪?炭代などが44パーセント(700匁)、店赁は7.6パーセント(120匁)、その他となり、収入の约95パーセントを支出している。调味料などの700匁には、おそらく必需品であった渍物、おかずにする野菜?鱼介类も含まれていたと思われるので、食物费の比率はかなり高かったといえよう。
3.日々の食事の形と量
长屋住まいの人々は、日々何をどのくらい食べていたのであろうか。上流阶层の、それも特别の行事や仪礼食は记録が残りやすいが、庶民の食事になるほど记録は残りにくい。そこで、随笔や当时の戯作、文化文政年间に盛んになったとされる落语などの描写から主として江戸时代后期の食生活を追ってみたい。
まず、『守贞谩稿』から食事のパターンをみると、幕末期、すでに江戸と京?大坂では食习惯が异なっていたことがわかる。いずれも主食は、うるちの白米中心で薪を使う饭は一日に一回しか炊かないが、江戸では朝に炊きたてのご饭とみそ汁、あれば简単なおかず、昼は冷やご饭に煮物などを添え、夕食は、出来るだけ火を使わず茶渍けと渍物という食事パターンである。
これに対し、京?大坂は、昼食に炊きたてのご饭にみそ汁と煮物や焼物などのおかずを食べ、夕食は、江戸と同様、茶渍けと渍物である。しかし、翌朝になると冷や饭はさらに固くなる。そのため、京?大坂のとくに冬の朝食は、粥に炊くとある。现在も関西地域に朝粥の食习惯が残っているのは、このような炊饭の习惯があったためであろう。
それでは、主食であった米はどのくらい食べていたのであろう。量を正确に把握することは难しいが、先に述べた『柳庵雑笔』から推察してみることにしたい。
先の例の大工の家庭についてみると、夫妇と小児で年间の饭米が3石5斗4升とあるから、2.3?2.5人と考えて换算してみると、大人一人1日3.9?4.2合(约560?600グラム)となる。また、同书の商家の例でみると、やや多く4.4合(约630グラム)程度と换算されるが、いずれにしても现代に比べてきわめて多くの米を摂取しており、必要なエネルギーの8割近くを主食の米に依存していたといえよう。このように米または米に麦や雑穀を混合した「饭」に依存した食べ方は、近代以降、第二次大戦后の高度経済成长期まで长く続いた。ちなみに1960年の国民栄养调査でも约7割を主食から摂取していた。
话をもとに戻し、落语から米の量などをみてみたい。落语「甲府ィ」は、スリにあった男が豆腐屋に助けられて豆腐屋を繁盛させる话であるが、空腹な男に食事を振る舞う场面に、「いやあ今朝炊いたご饭で、どのくらいあったんだ。???2升5合???もし、お前さん、そのおはちにあったご饭をのこらずお上がりかい」という主人の言叶がある。使用人を含めて豆腐屋には5、6人の家族であったようなので、2升5合は、一人1日4?5合食べていることになり、一日1回炊いている様子を示しており、この例からも当时の食事量が推察できる。
4.渍物は必需品
次に、有名な落语「长屋の花见」をみてみよう。大家さんに长屋の人たちが花见に诱われ喜んで出かけたのだが、重箱の中身は代用品である。
「あの、蒲鉾と玉子焼のほうは、これは本物????」
「冗谈いっちゃいけねえ???」
「うえッ大根のこうこに、たくあんが出てきやがった」
「たくあんは黄色いところで玉子焼だな。大根のほうは、こりゃ月形で切ってあるところで蒲鉾てえとこだな」
と、いずれも大根の渍物が玉子(卵)やかまぼこの代用品となっている。
さらに、亲に勘当されて川に身投げしようとした道楽者の若旦那を立ち直らせた唐茄子屋(かぼちゃ売り)の落语「唐茄子屋」をみてみよう。
「3日も4日も食わずにあるいていたんだから、早くめしを食わしてやんな」
「いえ、ご饭(ぜん)はあるんだけれどもねえ、おかずがなんにもないから???」
「たくあんかなんかあったろう。」
これらの噺から、たくあんなど大根の渍物は、いつでも贮えていた必需品であった様子がうかがえる。渍物は、长屋くらしに限らず、大名の食事でも欠かせないものであったし、婚礼や正月などの仪礼や行事食に供される本膳料理においても必需品であった。そのために、どこでも渍物は家庭で渍けるか、渍物売りから购入しておく必要があった。渍物に适した大根を栽培していた练马村では、江戸に大量の大根を供给していたが、単に生の大根だけでなく、たくあん用に干した大根の贩売も行っていた。さらに、これに塩と糠とつけ樽にする酒の空き樽などをセットで贩売し、狭い家のためには、年间の必要量を计りあらかじめ注文をとり、练马村で渍け、季节ごとに配达もしていた。すでに现在のような、注文贩売がおこなわれていたということであろう。
漬物の値段を「シーボルトが記録した江戸の食材」(熊倉功夫?宮坂正英『vesta 27』)からみてみると、塩漬け類の梅が5合で72文、大根1本16文、なす10本50文とある。生の大根は種類によりいろいろであるが、練馬大根10本200文、とくに名前がない大根10本72文とある。漬物は生の二倍くらいの価格ではあるが、収入からみても買えない価格ではなく、むしろ安価であったといえよう。
これに対して鱼类は比较的安価なあじでも10本300文、さば1枚300文である。ただ、いわしは10本120文と安価であったし、贝类も比较的安く、はまぐり1升100文、あさり1升32文、しじみ1升16文であった。これらからみると、野菜?いもなどに时々安価な鱼介类を加えた食生活が営まれたといえよう。
5.安価なお総菜
おかずや汁の実には何が一般的であったのだろうか。式亭叁马着『浮世风吕』(1809)は、銭汤に集う人々の日常の様々なおしゃべりを主に描いた滑稽本で、庶民のたくましい生き生きとした暮らしぶりをみることが出来る。
次の例は、长屋に住む大坂から江戸に移り住んで二か月程度の独り者が、隣に键を预けて仕事に出かける日常の中、时には一山いくらと売っている安売りの果物を买っていくと、お総菜の差し入れがある部分の话である。
「折りふしは、あたりのある桃なら5ツか、ズットはづめば、西瓜の安売38文でもやらんならん。」
「???向かいの嚊(かか)や隣の児なぞ相手にして、あほう口叩けば??茄子田楽出来たの、或いは蛤焚いたのといふて、平皿一ぱいずつもありつくはい???」
と、茄子の田楽や蛤の煮物などが、日常のおかずのひとつであったことがうかがえる。さらに、その独り者は次のように话している。
「わしは一体豆腐が大すきじゃ。けどナ、小半挺买うたらしかたがない。余って犬に遣られずナ、そうじゃとて皆食た所が、役立たん事ちゃ。それ故焼豆腐一つ买うて、腹を癒しているじゃ。???早う嚊(かか)呼びたい。」
と、豆腐を4分の1丁买っても余ると言い、そのため焼き豆腐で我慢するといっているところから江戸の豆腐がかなり大きかったことがうかがえる。『守贞谩稿』でも江戸の豆腐の大きさは、京坂の豆腐より大きく、4分の1丁売りもあったとしている。天保14年(1843)の江戸の町触によると、大豆の値上げにより豆腐箱を小さくし、豆腐も小さく切る等の不正が横行したようで、豆腐屋より番所に、豆腐箱の大きさ、等分の方法、适正価格を定める要望书が提出された。その结果、豆腐の大きさは、従来の通り大豆4升で作った豆腐を9等分したものを1丁と定めている。その1丁は、縦7寸(约21センチ)、横6寸(约18センチ)、厚さ2寸(约6センチ)とかなりの大きさになる。また、焼き豆腐は、大豆を4升8合として作るやや固い豆腐1丁を12等分にしたものであり、油扬げは同様の豆腐1丁を18等分したものである。豆腐1丁は52文、焼き豆腐、油扬げとも5文と、以前より値上げしている。豆腐4分の1丁の価格は13文であるから、それほど高価とはいえない。
そのことは次のような落语の噺からも読みとれる。前述した「甲府ィ」で、豆腐屋でまじめに働く男に感动した长屋のおかみさんが毎日豆腐などを购入し、亭主が文句をいうくだりである。
「ヤイ、いいかげんにしろい。なんだかしらねえが近ごろは豆腐ばかり食わせるじゃアねえか。朝が味噌汁で昼が雁もどきで晩がやっこだ。こうのべつ豆腐じゃアかなわねえ。たまにゃアかわったものを食わせろい」
「お前さんの働きなら、お豆腐で十分だよ。お菜で苦情をいう颜じゃアないだろう」
ということからみても、豆腐が庶民的な加工食品であったといえよう。豆腐はたくあんなど渍物と同様、大名など武士阶级においても重要な食材であったことはいうまでもない。また、同様に豆の加工品である纳豆も庶民的な江戸の総菜になった。以前は冬の食べ物であったようだが、『浮世风吕』の中では
「わしらは冬でなければ食ねへもんだと心得ているに、近顷は8月のはじめから纳豆汁だ。???お江戸に产まれた有り难い事には年中自由が足る」
と言っていることからもうかがえるように、江戸时代には、野菜类の品种改良が盛んにおこなわれ、とくに大根などは春大根、夏大根、秋大根など大量生产されたことにより、安価に手に入れることが出来るようになったといえよう。
长屋の人々の多くは、振売りを业としながら、自らも振売りから食材を购入し、とくに季节の野菜类を煮物にして総菜の中心にしながら、正月などには雑煮、数の子、座禅豆なども用意しながら変化も求めていた様子が『浮世风吕』からうかがえる。先ほどの独り者が振売りの野菜売り(前栽(せんざい)売り)をつかまえて、大坂人らしく値切るのであるが、その中に出てくる野菜类は、生姜、白瓜、唐茄子(かぼちゃ)、十六大角豆(じゅうろくささげ)、冬瓜、丸渍瓜、茗荷、青唐辛子、茄子などがある。唐茄子が35文という値に、高すぎるという独り者に、前栽売りは、これでも安いのだからまけてもせいぜい28文だというが、独り者はねばりにねばって、ついに13文にしてしまう。これに、茄子もほしいと、さらにやりとりが続く。前栽売りは、茄子10个が35文で掛け値なしだと言い、遣(つけ)茄子(煮物の茄子)によいという。ところが上方の独り者は「渍茄子」と勘违いする等のやりとりのあと、「この茄子はおめへ、驹込だ、ほんの事よ。山茄子だから种はなし??」と、当时茄子の名产地であった驹込のものだと説明し、山の手の茄子だから种はなく煮物に最适といえば、独り者も、本所产の茄子は、煮て食べると山茄子よりよいなどといいながら、半额にさせた末に2个だけ购入しようとする。しかし、前栽売りは、2个だけでは売れないからほしければ八百屋で买ってくれと反発する。前栽売りは、八百屋と异なり、扱う野菜の种类は少ないが、ある程度のまとめ売りをしていることがうかがえる。このようなやりとりは常にあったと思われるので、振売り商売はかなり厳しかったと想像できる。ちなみにこの话の颠末も売り手が负けて茄子2个を半値よりさらに安くして渡している。
まとめ
长屋くらしとその生业、人々の食生活を野菜类の视点から眺めてきた。ご饭?汁?菜?渍物という日常食のパターンのなかで白米を中心に茄子、大根などの煮物を中心とし、时々いわし、塩鮭など鱼类を加えた食生活を営んでいたといえよう。
先の『浮世风吕』には、ひじきの白あえ、银杏切り大根と焼き豆腐の汁物、田作りと芋、人参、牛蒡、大根などの煮物も登场しているが、田作りを入れた煮物は臭うので、赘沢だけれど赤贝に似たさるぼうの贝を入れるととてもおいしいと相手にも勧めている话、鱈と昆布を醤油で煮つけ、胡椒をかけて食べる鱈昆布を作るために、风吕屋からの帰りに、胡椒を买わなければならないからつきあってという女同士の话などから、よりおいしい食べ方や当时流行の食べ物への関心をもち、そのための情报を得ることに热心であった様子をうかがうことができる。
さらに、风吕におとなしく入った子どもに、ごほうびとして馅饼か薄皮馒头か焼き芋かと寻ねたところ、当时流行の焼き芋を「はちいあん(八里半)がいいよ」と所望するはなしを绍介している。栗(九里)に近い味という意味で、焼き芋を「八里半」と称していたことを子どももいち早く闻いて知っていただけでなく、栗よりおいしいとして、毎日のように焼き芋を食べているなど流行に敏感で甘味を取り入れて楽しんでいる様子が见える。それは大福饼、あべかわ饼、唐茄子に黄粉をかけたあべかわ、白玉団子と砂糖を入れた冷や水、焼き団子、馒头などの话题からもうかがえ、ゆとりのない暮らしの中でも食生活に楽しみを见つけ出すたくましさと积极性を感じ取ることが出来る。
今回は纸幅の関係もあり、屋台店などでの外食については触れることが出来なかったが、独り者が多い江戸には现在のファーストフードにあたるそば?うどん屋、すし屋、天ぷら屋、茶饭屋などがあり、四文から十六文と安価であった。また、菜屋と呼ばれた、お総菜屋で焼き豆腐、こんにゃく、莲根、ごぼうなどの煮しめも利用され现代の中食に近いものもみられたことを补足しておきたい。
- 1『古典落语体系』全八巻(江国滋?大西信行?永井启夫?矢野诚一?叁田纯一编、叁一书房、1969年)
- 2『江戸住宅事情』(片仓比佐子着?东京都公文书馆编、东京都、1990年)
- 3『江戸町触集成』1?19巻(近世史料研究会编、塙书房、1994?2003年)
- 4『近世风俗志』全5册(喜田川守贞着?宇佐美英机校订、岩波书店、1996?2002年)?『落语にみる江戸の食文化』(旅の文化研究所编、河出书房新社、2000年)
- 5『日本食物史』(江原绚子?石川尚子?东四柳祥子着、吉川弘文馆、2009年)

1943年 島根県に生まれる
お茶の水女子大学家政学部食物学科卒业。博士(教育学)、东京家政学院大学教授を経て、现在、同大学名誉教授?客员教授。(社)日本家政学会食文化研究部会部会长。
著書は、『高等女学校における食物教育の形成と展開』(単著 雄山閣1998年)があり日本風俗史学会江馬賞受賞。
共着は『食生活と文化』(弘学出版1988年)、『近代料理书の世界』(ドメス出版2008年)、『日本食物史』(吉川弘文馆2009年)など。编着は、『食と教育』(ドメス出版2001年)、『近现代の食文化』(弘学出版2002年)、『日本の食文化』(アイ?ケイコーポレーション2009年)など。















