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研究機関誌「FOOD CULTURE No.19?20合併号」麺類ではじまるわが国の粉食史(五) 永禄年間に定まる現代麺類

寺方蕎麦 銀座長浦当主 伊藤 汎

麺类ではじまるわが国の粉食史(五)永禄年间に定まる现代麺类

引き伸ばし法から切断法へ

足利叁代将军义満の造り上げた相国寺大伽蓝は、応仁の乱(1467-77)で灰烬に帰した。『荫凉轩日録(おんりょうけんにちろく)』の空白の18年间がこれである。乱后の相国寺内の麺类の様相は一変する。索麺(そうめん)も冷麺(ひやむぎ)も、格式、伝统、形式化した点心、斎(とき)の膳から解放され独立した存在となる。
そして、索麺同様に引き伸ばし法で作られていた冷麺が、简便、合理的な切断法へと変化する。

『荫凉轩日録』(1489年〈长享3〉3月15日条)

「叁献、切冷麺、切叔破盏、叁献过各帰院。」

冷麺が斎膳でなく、酒席の肴として出されている。それも切冷麺と姿を変えているのである。切断法による●帯麺(※ てったいめん)が、禅林外でも作られている。
※ ●は左側に「糸」、右側に「至」

『荫凉轩日録』(1489年〈长享3〉5月17日条)

「五郎右卫门尉具慈泉喝食来。持明樽●帯麺来。」

五郎右卫门と喝食(かつしき)の慈泉が酒と●帯麺(てったいめん:●革<ひもかわ>うどん)を持ってきたという。そして、また切冷麺(きりひやむぎ)记述である。
※ ●は左側に「糸」、右側に「至」

『荫凉轩日録』(1489年〈长享3〉7月14日条)

「院主叁玄要引愚入书院。剪冷麺、羹一菓。一瓜等。盃二行。(中略)。当院众相集。冷麺各盏両叁返。愚依不喫麺之故不在座。(中略)。冷麺以前弁之。」

荫凉轩主が、鹿苑院主(ろくおんいんしゅ)に招かれた书院で、剪(きり:切)冷麺と酒が出される。この后、鹿苑院の僧たちが集まる宴席に招かれ、また冷麺と酒となる。これもまた切冷麺である。不快をもよおした荫凉轩主は、その冷麺に箸をもつけずに思わず席を立ち、「以前の冷麺はこんなものじゃなかった」と、嘆いた。以前の冷麺は切断されてはいなかった。索麺同様に引き伸ばして作られていた。荫凉轩主は、そう弁じたのである。
この「切冷麺」记述は、意味深长である。従来の冷麺は、切断されてはいなかった。引き伸ばして作る油不入索麺(そうめん)であることを的确に物语っているのである。この油不入索麺が切断されるようになる。この変化に気付くか否かである。これ以降、素(索)麺屋では、引き伸ばして作る冷麺があり、切断される冷麺もある。これら呼び名も地域により、场所によって异なる名称で现れてくるのである。冷麺の実态をしっかりと把握していなければ、説明不能に陥ってしまう。
さらに、この冷麺に问题がある。『荫凉轩日録』中に「温麺」という文字がたびたび现れる。先の7月14日条の切冷麺记述中にも、これがある。

温麺五菓。盃二返帰。」

1540年(天文9)1月7日条

「人日。(中略)。温麺、水线、茶子。」

1549年(天文18)1月29日条

「於集龙有酒。麩吸物。次温麺、豆腐羹、食笼。种々肴共之。」

など、多々ある。本来、温麺とは温かく调理して食す麺类の総称だが、こうした温麺记録から判断して、冷麺を温麺と対照的な冷たく水洗いした麺と解釈する研究书は、本山荻舟の『饮食事典』を始め多数存在する。これは明らかな间违いである。次の记述类を読み、考えてみれば纳得するであろう。

『鹿苑日録』(1536年〈天文5〉3月5日条)

「営温冷麺。水繊。山芋羹食笼。勧汤。」

1537年(天文6)9月30日条

「酌、一返了温冷麺。」

1543年(天文12)4月30日条

「汤渍、吸物、茶子。又温冷麺、吸物酒数辺。有歌矣」

『山科家礼记』の笔者、大沢久守も、これら记録以前に禅林でいうところの温冷麺を食している。

『山科家礼记』(1468年〈応仁2〉2月29日条)

「一、昼ぬるひやむき在之」

これらの「温冷麺」记述をみて、冷麺を「冷たく水洗いした麺」と调理法の名称と判断する解説者は、どのように説明されるであろうか。「温かく冷たくした麺」と、解説するであろうか。ここで一顿挫することは明らかである。
冷麺とは、了誉圣冏(りょうよしょうげい)が记述したように、独立した麺と理解していなければならない。冷麺とは、油不入索麺のことである。この认识を欠落していると、あらぬ麺类史论が展开されてしまう。これもまた江戸以降の解説者のおちいりやすい大きな误りの一つである。

麺类史の流れを见极める

麺类製法に変化が现れる15世纪末、世はまさに下克上の横溢する戦国の只中である。山城国では大规模な一揆が起こり、加贺の国では一向一揆によって守护の富樫政亲は败死し、百姓の统治する国が生まれている。8代将军足利义政は、东山银阁に引きこもり、為すすべもなく力なく傍観するのみである。
こうした混乱期に麺类界にも大きな変化が起きている。都会を离れた山科郷に、素麺屋が现れるのである。

『山科家礼记』(1463年〈寛正4〉7月6日条)

「一、さうめん屋よりさうめん出候、百文计候也」

山科家は素(索)麺业者を供御人(くごにん)として统括しているはずである。ところが、山科家を无视するように庶民の中から、素麺を製造贩売する素麺屋が现れている。山科家はこれを黙视している。ただ课役(税)としての素麺を受け取るのみである。
京の街では、山科郷よりも早く多数の素麺师が现れ、贩売独占権を持つ中御门家が、彼らの作る素麺の贩売管理をしているはずである。だが、これも统制力を失っている。朝廷権力の代行者である中御门家に属さぬ一庶民の自由意志による独立した素麺屋が、やはり存在しているのである。

『鹿苑日録』(1536年〈天文5〉12月21日条)

「自素麺屋麺节一盖来。為入麺赏翫。」

鹿苑院に素麺屋から箱に入れた「素麺の节」が送り届けられている。「节」とは、素麺を乾燥する际に、竹に掛かる曲がった部分、商品にならないものである。これを送られた鹿苑院では、ありがたく「入麺(にゅうめん)」にして赏玩している。かつての相国寺の権势からは考えられぬ凋落ぶりである。
もはや麺类の指导権は、禅林から庶民?大众の手に渡っている。麺屋は需要者の意向、要望に忠実に対応して、はじめて存在しうる商人である。麺类史という流れの、いわば本流に位置して流れ下る存在である。その麺屋が、时代の流れとともに変化をみせている。これを高所から眺めることによって、麺类史という流れが明瞭に见えてくる。

①素(索)麺屋が现れる。
②素麺屋が切麺(きりむぎ<切断法の饂飩>)を売る。
③切麺屋が现れる。
④饂飩(うどん)屋が现れ、蕎麦切も売る。

これが1463年(寛正4)から1622年(元和8)に至る麺类史の俯瞰図である。この160年间の流れを一望し得た者のみに、史料にある麺类记録は精彩を放ってくれる。

①素麺屋が现れる。
『山科家礼记』(1463年〈寛正4〉7月5日条)

「一、さうめん屋よりさうめん出候、百文计候也」

②素麺屋が切麺(きりむぎ)を作る。
『鹿苑日録』(1537年〈天文6〉7月7日条)

「自索麺屋切麺一盆来。」

③切麺屋が现れる。
『言経卿记(ときつねきょうき)』(1588年〈天正16〉6月8日条)

「一、キリムキヤヨリ小児洩泻云々」
山科言経(ときつね)はこの当时、大坂石山本愿寺の寺内町に住み、薬を売って生计を立てている。この大坂に切麺屋が存在している。

6年后、京に帰った言経は、1596年(庆长元)7月5日条で
「一、香ジュ散赋之众、(中略)、キリムキヤ云々」
と、言経が薬を配布する京都の顾客中に切麦屋がいる。そして、

④饂飩屋が现れる。
『松屋会记』(松屋久好)(1622年〈元和8〉12月4日条)

ヒノウトン(京都油小路下立売南、日野屋ノウトン)、又ソハキリ 肴色々 菓子モチクリ コホウ 郡山奥平金弥殿ヘ、右之众五人」

江戸幕府开设早々の元和年间、京都には饂飩屋が存在し、蕎麦切も売っている。さらに、この俯瞰図を一望すると、麺屋は引き伸ばし法から切断法へ、乾麺から生麺へと流れを変えていく様子が判る。需要があって供给がおこる。これが経済原则である。麺屋の流れを先导するのは、もはや谁でもない庶民であり大众である。これまで不鲜明であった个々人の记述変化が明瞭に见えてくる。

麺屋に先行する个々人记録

②では1537年(天文6)、素麺屋が切麺を始めている。
この记録の60年ほど前に、山科郷では、引き伸ばし法から切断法への変化がおこっている。この変化は、『山科家礼记』のウドン、きりむぎ、ひやむぎ记述を并べて一覧することからこれを読み取ることができるのである。

『山科家礼记』(1480年〈文明12〉2月13日条)

「一、今夕叁郎兵卫ウトンクレ候て赏翫也。」

同7月7日条

「一、略。ひるゆをたく、各ひやむき、さけ、今日叁郎兵卫しんるいのせちとて、あさいゝ、はんけいきりむき、さけくれ候也」

この文明12年のウドン?ひやむぎ?きりむぎ记録を最后に、『山科家礼记』から「きりむぎ」记述が消灭し、「ウドン」「ひやむぎ」记述のみとなる。
一庶民の叁郎兵卫さえ七夕の节会に、気軽にきりむぎを作っている。太くも细くも自由自在、谁でも短时间で、简単に生麺が作れる。太く切断した「きりむぎ」を従来どおり「うどん」と呼び、细く切断した「きりむぎ」を「ひやむぎ」と呼んだ。その结果、「きりむぎ」の名称は不要となる。きりむぎ记録は消灭するのである。
山科郷ばかりではない。包丁で切断する简便な「きりむぎ」製法、つまり切断法は、挽臼と対となり、自给自足の农民の食生活に不可欠な一要素として各地に浸透していくのである。素麺屋もこれに対応せざるを得ない。乾麺のみでなく、简便な切断法を取り入れ、生麺の需要に応じざるを得なくなる。
③では消费の旺盛な都市部ではこの麺屋の変化は、よりいっそう顕着であり速度も速い。
1588年(天正16)6月8日の『言経卿记』に、京坂の都市部に「キリムキ屋」が现れるが、これも个人记録から事前に読み取ることができる。
奈良?転害郷(てがいごう)の富商?松屋家は、涂师として东大寺若宫の神人でもある。この松屋家当主の久政?久好?久重の叁代が、1533年(天文2)から1650年(庆安3)にいたる期间、京坂地区の豪商たちとの茶会记を书きつづけている。『松屋会记』である。
この『松屋会记』では、「ヒヤムギ」「キリムギ」の併用记録が次の记述で终わっている。

1559年(永禄2)4月2日条

「中段スイセン、贝蛤、肴クリ后段ヒヤムキ、足打二、引ソヘコチ公饗奈良ノ饼饭殿(モチドノ)源五郎へ」

同4月25日条

「后段キリムキ、スイセン、マセテ」

この永禄2年4月の记述以降、「ヒヤムギ」记録は消灭し、「キリムギ」と「ウドン」记録のみとなる。
饂飩はすでに太く切断される生麺として定着している。乾麺の「ヒヤムギ」が、细く切断される「キリムギ」と入れ代るのである。その结果、「ヒヤムギ」の名は消える。
京坂地区では、山科郷とは反対に「ヒヤムギ」の名を捨てて「キリムギ」の名を残したのである。永禄2年といえば、翌3年(1560)5月19日に织田信长が今川义元を田楽狭间に奇袭し、これを打ち破っている。その1年前のことである。
永禄年间(1558-70)から元亀年间(1570-73)を経て天正に至るのだが、笔者はかねてより都市部におけるこの16年间を引き伸ばし法から切断法へ、乾麺から生麺へ、素麺屋から切麺屋へと入れ代る急変期と推察している。1987年5月20日刊の自着『つるつる物语』では、こうした情况を踏まえて、こう书き述べた。
「天正年间には、つるつると食べるそばが、そば切とよばれて庶民の间に広まっていた」
この推察は、5年后の定胜寺文书の次なる文书の発见で见事に立証されたのである。

『定胜寺文书?番匠作事日记』(1574年〈天正2〉3月16日条)

「作事之振舞同音信众。徳利一ツ、ソハフクロ一ツ、千淡内振舞ソハキリ 金永」

この推论の根拠は、前述の永禄年间のキリムギ屋の存在想定であった。京坂ではこれが多数存在し、うどんもそばも店头で打って食べさせる。この様子を见た人々が各地に持ち帰る。そのように推察、推论したのである。
その后の调査で、この推测も的中しているようである。次ページ図、桃山期の『筑城図屏风』(名古屋市立博物馆蔵)を见ていただきたい。キリムギ屋が客にうどんを食べさせているではないか。こうした麺屋が、キリムギ屋と呼ばれて、永禄年间には出现している。そのように考えて间违いのないところなのである。
したがって、④での饂飩屋が现れ、蕎麦切も贩売するという1622年(元和8)12月4日『松屋会记』の记述は、庶民がキリムギ屋の名称を、端的な呼び方のうどん屋と変えたに过ぎない。実质的には、キリムギ屋は生麺を売る傍らで、店头でうどんもそばも食べさせていたのである。
推定や想像だけを述べるわけにはいかない。これを里付ける事実がある。

『言経卿记』(1591年〈天正19〉8月22日条)

「一、下间大弐妻(中略)、キウトン一船送给了」

言経が下间大弐の妻からキウトン一舟を送られている。この「キウトン一船」とは何か、である。
キウトンの「キ」とは「生」、なまうどんである。今日、関东のそば屋では、打ったそばを入れる木箱を「船」と呼んでいる。言経は「ウドン一船」と记している。これは麺屋のみに通じる隠语的な呼び名である。「船」を使ううどん屋が天正年间には存在しているのである。永禄年间から天正にかけて、手打ちうどんもそば切もある。禅林でいう冷麺(ひやむぎ)も生麺の手打ちとなる。しかも、これをその场で茹ゆでて食べさせてもいる。これが都市部におけるキリムギ屋の営业形态である。乾麺を主力商品とする都市部の素麺屋は、この切麺屋に圧倒され、衰退の一途をたどることになるのである。
永禄、元亀を経て天正に至る期间、织田信长の畿内制圧の戦乱のさなかに、现代が引き継ぐ麺类製法のすべてが整えられたのである。

『筑城図屏风』桃山时代、城の普请に沸き立つ城下町の様子。絵の中央右には、仮设の屋台で朱涂りの椀类を前に置き、职人が麺を捏ねているその脇で、客人らしい人物が食している様子が见て取れる(名古屋市博物馆所蔵)

京之甚兵卫が持ち込む稲庭うどん

1602年(庆长7)5月8日、徳川家康は、佐竹义宣を常陆54万5800石から出羽秋田20万5000石に転封している。その10年后、佐竹藩家老の梅津政景の日记である。

『梅津政景日记』(1612年〈庆长17〉4月14日条)

「味噌町、けいせい町、炭焼沢町、下川原町やけ屋所知らせ候、(中略)同切麦や二间、同饼や一间、同汤や一间御座候、云々」

梅津政景が火事による被害届を受け取っている。このなかに切麦屋が2轩ある。50万石から20万石への秋田领での财政困穷は必至である。佐竹义宣は银山、金山発掘事业に活路を求めた。各地から集めた人夫たちに食わせる米が不足している。これを切麦屋の导入で切り抜けた。そのように考えるのである。火事场という范囲内に2轩の切麦屋がある。ここばかりでなく、他にもまだ切麦屋は多数存在していたはずである。佐竹义宣は、この切麦屋から税金をも徴収しているのである。

『印内银山春诸役运上银请取覚帐』(1613年〈庆长18〉条)

「梅津主马様

麺类役
正月より六月晦日まて、高壱贯百五拾目也、京之甚兵卫」

家老の梅津政景は、この6月までに分納された麺类役(税金)の報告書を受けとっている。その納税責任者名は京之甚兵衛とある。佐竹義宣は移封にさいし、京都から麺屋の甚兵衛を連れていった。京坂地区でうどん屋と呼びかえられる前である。彼に京坂地区の多数の切麦屋、素麺屋を呼び寄せ移植させ、その管理を任せたのである。佐竹氏は、新羅三郎義光の流をくむ鎌倉時代からの伝統ある武家である。秋田久保田城における元日の祝膳にそれが現れている。

『梅津政景日记』(1621年〈元和7〉1月1日条)

「御城ニテ御祝之事、昆布、梅干と山椒叁方ニテ御膳ニすわり、御茶被召上、其后饼之御膳七ツ、御饭御力饭、御めんを被召上、云々」

江戸在府の元日の祝膳にも「めん」が出されている。

1622年(元和8)1月1日条

「一、朝、御祝饼、御饭、めんす、御力饭过て御召出有、云々」

麺を「めんす」と书いている。元日の祝膳に必ず麺が添えられている、この风习は平安朝からの公家の风习である。これを佐竹氏は受け継いでいる。歴史のある岛津氏も元日蕎麦、武田氏も元日蕎麦としてこの风习を残している。政景は麺类に精通している。米の取れぬ领内に集まる银山発掘人夫の食事を、この切麦屋の作るうどんで贿うことに着目していた。そう考えてもよいであろう。京坂地区では素麺屋の作るうどんと、切麺屋の作るうどんの混在期である。麺屋の「京之甚兵卫」が连れてきた中に、引き伸ばし法を得意とする素麺屋もいたことであろうし、京之甚兵卫自身が引き伸ばし法によるうどん製法を行っていたかもしれない。かれらが今日の稲庭うどんを残した人々なのである。

复雑化する油不入素麺

「キリムギヤ」の麺类は、すべて切断される麺である。生麺で売ったり、店头で食べさせもする。复雑さを见せるのが引き伸ばし屋の素麺屋である。山科言経(ときつね)が大坂西成(现在の北区)の中岛に移住していた时期の日记に、「キサウメン」が出てくる。

『言経卿记』(1589年〈天正17〉9月9日条)

「西御坊之内ヤトリ木生索麺一盆持来了」

1590年〈天正18〉5月7日条

「小大夫ヨリ双瓶、キサウメン送了」

そして1591年(天正19)、言経は6年ぶりに京都に帰る。京都での记述にも、この生索麺がでてくる。

1593年(文禄2)7月20日条

「中务ヨリキサウメン五把送给了」

1605年(庆长10)8月29日条

「昨夕、北向ヨリキサウメン、柿被遣之」

1591年、言経のいうキウドンはナマウドンであった。しかし、この「キサウメン」とは何か、である。
これら记述をよく见ると「生索麺一盆」とあり、「キサウメン五把」とある。盆に乗った「生索麺」は「ナマ」麺である。五把と记述される「キソウメン」は乾麺である。ナマでも乾でも食用できる索麺といえば、油不入索麺しかない。山科言経(ときつね)は、この「キ」を「纯粋」「混じりけのない」素麺という意味で使った。いや、言経がいうのではない、京坂地区の素麺屋が油入りと油不入の両素麺を区别するために、油不入麺に「キ」をつけて呼んでいたのである。さらに素麺が切断されている。

『言経卿记』(1606年〈庆长11〉5月12日条)

「一、长桥殿ヨリサウメンキリ?双瓶被给了」

油混入索麺を切断して乾燥せずに生で食用することはない。素麺屋のいう「キサウメン」は、禅林でいう冷麺(ひやむぎ)、油不入索麺のことなのである。

『隔蓂记(かくめいき)』(凤林承章)(1661年〈寛文元〉7月30日条)

「入暮、彦西堂来讯、油不入之素麺相伴、点浓茶也。」

この记述には惊いた。かつて自着『つるつる物语』では、索麺に二种类があり、その二麺をわかりやすく説明するために、便宜上、油混入索麺、油不入索麺と区别した。凤林承章は、冷麺が油不入素麺であることをずばりと记述したのである。
これがまさしく引き伸ばし法による禅林で言うところの「冷麺」、素麺师のいう「フトサウメン」、言経の记述する「キサウメン」なのである。
キリムギ屋に圧倒されながらも素麺屋は油不入素麺を作り続けている。そればかりではない。

『隔蓂记』(1646年〈正保3〉2月22日条)

「斎了、(中略)、共入浴之后、干温飩共喫之者也。」

と、温飩を乾麺にもしている。素麺屋が油不入索麺を作り、干温飩も作り、営业努力をしているのだが、时代の趋势は切断法による生麺に流れている。都市部のキリムギ屋は、生麺を売るよりも店内でこれを食べさせることが主力となっていく。庶民の人気はうどんである。キリムギ屋からうどん屋と呼びかえられるのも必然的な结果なのである。

云呑?うんどん(温飩)あらわる

永禄、天正年间に曲がりなりにも製麺法が定まろうとしているその矢先に、突然「うんどん」なるものが现れる。江戸期から现代にいたるまで、これほど麺类解説者を悩ましつづけている食物はない。これまでこの「うんどん」を説明しきった研究者はおられない。
今回は、この「うんどん」とは何かを正确明瞭に解説してみたい。

『鹿苑日録(ろくおんにちろく)』(1543年〈天文12〉10月27日条)

温飩於行者寮喫之。」

行者寮で「温飩(うんどん)」を食したと相国寺鹿苑院主?景徐周麟(けいじょしゅうりん)は、その日记『日用叁昧』に书いている。これが「温飩」の初见记録である。
景徐周麟は、この年の9月25日に「饂飩(うどん)」と正字を书きながら10月5日には「乌飩(うどん)」と书き误っている。10月27日のこの「温飩」も误字とみて见逃していた。ところが、『鹿苑日録?有节瑞保日次记』の1591年(天正19)8月27日条に

「非时后会。ウントン 酒数行」

と、ある。
この记述を见てあわてた。これが问题の「温飩(うんどん)」と気付いたからである。
『鹿苑日録』の「温飩」记述は、天文の初见记録以降、天正、文禄とつづく。しかし、その実态がわからない。庆长年间(1596-1615)に入ると、さらにこの温飩记述はおびただしくなる。
秀吉死后、家康の外交顾问をつとめる相国寺住持?鹿苑院主の西笑承兑(さいしょうしょうたい)が、この「温飩(うんどん)」の正体を明かしてくれるのである。

『鹿苑日録』(1597年〈庆长2〉3月27日条)

「午时饂飩

と、まず饂飩(うどん)を食している。この2日后の3月29日
「津八兵卫亦来。先温飩、小渍。」
と、温飩(うんどん)を食している。西笑承兑の误字でないことは明瞭である。その西笑承兑が温飩を食べる様子を记述している。

『鹿苑日録』(1601年〈庆长6〉3月20日条)

「荫凉轩会席巳刻。先温飩。妙味不浅。人々或ハ六ヶ或ハ七ヶ受用。温飩之口吸物根若。酒五返。菓子円柿栢。茶别仪。各々吸之。云々」

荫凉轩で会席があり、まず温飩(うんどん)が出される。西笑承兑は、妙味浅からずと感心し、皆「六ヶ」あるいは「七ヶ」を椀に受けて赏味している。これが「温飩」の正体である。饂飩(うどん)ではない。「ワンタン」なのである。
麺类を导入した南宋时代、华北で餛飩(こんとん)とよばれるものが、华南に入るとワンタンとよびかえられ、その文字を「云呑」と书いた。ルビがなければ、読者はこれをなんと読むか。多分「ウンドン」であろう。「温飩」である。禅僧らしい机知に富んだ创作文字なのである。
ところが困ったことに、この「温飩(うんどん)」が、「饂飩(うどん)」になってしまうのである。そもそも「饂飩」の文字も禅僧の创作文字である。庶民に书ける文字ではない。これがどう伝わったのか「饂飩」を「温飩」と书き、「うんどん」と庶民は読んだのである。これが、まさにいうところの误伝なのである。
江戸期の浮世絵に、「うんどん」と行灯に书き、商売する姿を描いたものが多々ある。こうしたことから、この误伝は江戸以降と考えがちであるがそれは违う。江戸开府以前の文禄庆长年间にすでにこの误伝はおこっている。

1603年(庆长8)に长崎で発刊された『日葡辞书(にっぽじしょ)』に、

Vdon ウドン
Vndon ウンドン

と「ウドン」と「ウンドン」がともにこの辞书にある。江戸开府以前にウンドンの呼び名は通用しており、幕末に至るもこの呼び名と文字は使われているのである。この呼び名の间违いを指摘したのが元禄期の故実家?伊势贞丈である。

『条々闻书贞丈抄』1766年(明和3年)

「餛飩を一本に温飩とあり、こんとんの一名うんどんと云也。(中略)。今时小麦の粉をねりうすくのして细く切り、汤煮したるを、うんどんと云は、となへあやまりなり。それはきりむぎといひし物也。麺类なり。」

この「一本」とは、元和年间(1615-23)に発刊された『书言字考节用集』を指している。ここには、「餛飩 温飩ウンドン和俗所用」とある。
これを论拠にして、「うんどん」というものは「餛飩(こんとん)」(ワンタン)である。庶民大众が「きりむぎ」を「うんどん」というのは间违いであると説明しているのである。
この贞丈の解説文を间违いとする现代の研究者がままおられる。しかし伊势贞丈の解説には何らの误りもない。正しいのである。惜しむらくは「きりむぎ」としたことである。この时代、太く切断するうどんも、细く切断する冷麦(ひやむぎ)も、ともにきりむぎではあるが、太い、细いの违いがある。この解説文の最后を「それはうどんといひし物也。麺类也」と、缔めくくれば完璧であったろう。
これまで、非难され続けた伊势贞丈が、これを聴けば、肩をたたいて喜んでくれるのは间违いのないところである。

约束のページを使い切ってしまい、馒头、蕎麦切を书き残してしまったが、さらなる调査と検証を重ねていく。今回の『麺类ではじまるわが国の粉食史』はここで缔めくくることにした。

※资料引用文中の太文字は引用者の指示によるもので、参考文献の原文にはない