糖心原创vlog

四季を巡る江戸庶民の行事と暮らし

展示期间
2003年9月~2004年9月

趣旨

徳川家康の入府以来、めざましい都市としての発展と成长をつづけた江戸。
なかでも、文化文政年间(1804~1830年)には、経済力を蓄えてきた町人を主体とした、滑稽本や読本といった文学、浮世絵や写生画などの美术、歌舞伎やお伊势参りなどの芸能や行楽など、活気ある江戸文化が栄えました。庶民文化の础となった歳事や食べ物などにまつわる话题は、今に至るまで文化発信の役割を果たしています。
今回キッコーマン国际食文化研究センターでは、江戸の四季をめぐりながら、その暮らしを见直すことで、现代の私たちの生活を省み、行事?祭事のいわれや、旬の食べ物のよさを思い起こす手がかりになると考えました。江戸の行事をみながら、この时代の江戸庶民の暮しをご绍介します。

概要

开府以前の江戸は、湿地や原野が多く、町屋も100轩程度しかありませんでした。
しかし、幕府ができた后には、政治的安定にくわえ、参勤交代制や街道の整备などにともない、「人」「物」が集まる都市として成长し、货币経済の発达するなか、世界一の人口を抱えるまでになったのです。人が集まればそこにはさまざまな生活スタイルが生まれ、文化が育まれていきました。その一方で、四季折々に行事?祭事が行われ、今に続くものも少なくありません。人々の生活に切っても切れない「食」に関しても、当初は上方などの真似が多かったものが、次第に独自の食习惯が定着していきました。そこには季节の息吹を感じ、それを祝う祭事と、それを爱でる食への爱着があったのです。このページを通じて、食にまつわる江戸の文化と、四季の「旬」を尊ぶ気持ちを感じていただければ幸いです。

开运の春

元首、大旦、歳朝、鶏日、初阳、そのほか年のはじめを表す语は数多くある。
「今暁、江戸にては初日の出を拝せんと、高轮および深川の洲崎等群集す」(『守贞谩稿』―嘉永6年?1853年)とあるように元日は早起きし、初日に手を合せ、神社仏阁に初诣で、家内安全、商売繁盛を祈愿する。
屠苏は味淋に屠苏散(数种の汉方薬を调合したもの)を入れたものだが、元日に饮めば一年の灾难除け、延命の効果があるという。雑煮は初汲の若水で作るのがしきたりで、古くは烹雑とよばれ、江戸城の贿方の记録によると「饼」「焼豆腐」「里芋」「青菜」「花鰹」とあり、町方もほぼこれにならって角饼を焼き、汁はむら胜ち(醤油)の清汁である。おせちは江戸では喰积み、上方では蓬莱、又は宝来と称し、「数ノ子」「黒豆」「昆布巻」「田作り」、煮物は「八ツ头」「牛蒡」「人参」「蒟蒻」「焼豆腐」などが入る。
正月の食习は7日の七草粥、15日の小豆粥、二十日正月として最后の雑煮でしめくくられる。

若水汲み(「新米牵头持」)
灯火(「新年の祝」)

初市 藪入り

2日は初市が立つ。商家も初売り、初商いである。江戸では日本桥に鱼河岸があり、江戸前はもとより、房州(千叶県)、相州(神奈川県)などから鱼が集まり、一日千両の商いありと威势がいい。青物市场は神田にあり、「神田须田町の八百屋もの、毎日の大根、里马に付つきて数万駄见えけるは、とかく畠のありくがごとし」と井原西鹤は『世间胸算用』(元禄5年?1692年)で活写している。
縁日とは神仏の降诞、示现などの縁の日をいい、この日に法要、供养を営み、その神仏を念じれば特别のご利益があると信じられていた。江戸はとりわけ神社仏阁が多く毎日どこかで縁日が立ち、夜ともなれば商いや仕事を终えた庶民たちの息抜きの场となり、游技や饮食を楽しんだ。1月は全て初縁日となるわけで、浅草蔵前や小石川富坂の阎魔堂などは参诣人が引きも切らぬ有様で大いに賑わった。
「正月十六日、七月十六日は丁稚奉公の藪入日なり。工商とも十叁、四歳より工を覚え商を习はんと、良工、良商を选び、奉公に出づ。これを丁稚小僧といふ。年期はおよそ十ヶ年なり。この丁稚达、例年正月十六日の藪入りには主人より衣类万端を与えられ、小遣銭を貰ひ己が亲许へ行き、まづ両亲を始め兄弟に相会し、墓参より亲类の音信をすませて日暮れまで心のままに游ぶ。游ぶ所は数ありて好み従うべくも、十中八九までは芝辺の亲许は芝増上寺山内、上野辺は上野东叡山内、浅草は観世音浅草寺奥山等とす」(『江戸府内絵本风俗往来』―明治38年?1905年)とあるが7月の盆の藪入りが加わるのは元禄年中からという。ちなみに藪入りの语源は奉公人の多くは藪深い田舎から来ていることから、又、宿下りの転讹ともいう。

日本桥鱼市(「江戸名所図会」)

初午

2月最大の行事は初午である。2月最初の午の日で稲荷神社の祭りである。「诸社の稲荷の社域は屋敷町屋の镇守の宫に、五彩の帜をたて奉暼し、神楽を奉す。とりわけ江府は稲荷めの社多き所にて、参诣群集の人涌くがごとし」(『続江戸砂子』―享保20年?1735年)とあるように、府内は「伊势屋、稲荷に犬の粪」といわれほど稲荷の社が点在していた。稲荷の総本社は京都伏见の稲荷大社で、江戸の王子稲荷は関东の総本社で、稲荷の使姫である狐に小豆饭と油扬げを供えるが、油扬げが供物になったのは江戸后期の顷らしい。稲荷鮨の创製は名古屋で、天保(1830~1844年)顷といわれ、江戸では弘化(1844年~)の初めに流行し、「木耳」「干瓢」等を刻み混ぜた饭を詰め、当初は山葵醤油をつけて食べていたらしい。
2月8日は「事始め」で、江戸では「人参」「牛蒡」「蒟蒻」「小豆」「焼豆腐」などを入れ味噌汁を作る。お事汁という。
寒は、二十四节気の小寒から立春までの1か月间で前半の15日间を小寒、后半の15日间を大寒という。现在の1月初旬から2月初旬になる。「酒」「味噌」「醤油」などの寒仕込みで一年间の贮えを図る。寒に捣く寒饼は寒の水に渍け込めば腐らぬといわれ、「寒玉子」「寒平目」「寒ぶり」「寒しじみ」など寒の字のつく食べものはうまいとの定评がある。

王子まいり(「东都名所年中行事」)

雏祭り、花见

3月3日は五节句の1つ、「雏祭り」である。江戸のはじめの顷は纸雏に菱饼と白酒ぐらいであったが、江戸中期ほどから次第に华美になってくる。雏人形一式を売る市は「今日より叁月二日迄雏人形同调度の、市立つ街上に仮屋を补理ひ、雏人形诸器物にいたるまで金玉を鏤め造りて商ふ、それを求むる人昼夜大路に満ちてり、中にも十轩店を繁花の第一とす」(『东都歳时记』―天保9年?1838年)とある。十轩店は现在の中央区室町3丁目の隣になる。
白酒は神田鎌仓河岸の豊岛屋のものが江戸随一であった。売出しの日は竹矢仓を组んで人の列を整理し、贩売した。雏の膳には菱饼赤饭と并んで蛤や蜆の具の汁がつきものだが蛤は深川、蜆は业平のものが名物であった。
四季折々に咲く花は多いが、桜は古くから、人びとに亲しまれてきた。江戸の花见は上野、飞鸟山、御殿山などが名所としてにぎわい、远くは一夜泊りで小金井の桜を见に出かけ、ついでに国分寺、府中の大国魂神社に参诣する人达も多かったようである。江戸随一の桜の名所は隅田川堤で「树下に宴を设け、歌舞して帰を忘るゝは、実に泰平の余沢にして、是なん江都游赏の第一とぞいふべかりける」(『东都歳时记』)とあり、多くの人びとが访れていたことを示している。また、花见には桜饼がつきもので、今も隅田川畔にある「山本屋」、通称长命寺の桜饼が有名である。文政7年(1824年)の调べで、桜の叶が31樽分、1樽につき约2万5千枚というから77万5千枚、饼1个につき2枚の叶で包むので、38万7千5百个の桜饼が人々の腹の内へ消えていった勘定になる。(『兎园小説』―文政8年?1825年)

「叁ツ会姫ひゐなあそひノ図」歌川豊国(叁世)画
虎屋文库所蔵

汐干狩り

汐干狩りは江戸庶民の游びとして、品川、芝浦、深川越中岛、洲崎冲まで连なる広大な干潟で、春を告げる浜游びとして定着していた。
「汐干は叁月より四月に至る、其内叁月叁日を节とす」(『东都歳时记』)とある。例年3月3日は大汐干潟になるので、深川や品川の海上へ早朝から舟に乗り、冲の方に行き、卯の刻(午前6时ごろ)过ぎから汐が引き始め、午の半刻(昼の12时)には干潟が现れ、海岸からは汐干狩りに出かけた人々の姿が豆粒のように见えたという。干潟では蛤、浅蜊、蜆などを拾い、砂中のひらめを採ったりして賑わっていた。
品川の海岸や高轮の通りでは、参勤交代の大名方の荷物の行き来や长持歌の声が面白く闻え、これも一兴の风景だった。
この汐干狩りは、3月初めの巳の日に、海辺でみそぎをして清めるという、「上巳の节句」の习惯に始まった。

「潮干狩」鳥文斎栄之 画
たばこと塩の博物馆所蔵

初鰹

江戸庶民の初物食いは飞び抜けていた。初物は走り物ともいい、「初物を食うと七十五日长生きする」との信条のもとに「茄子」「胡瓜」「初鰹」「白鱼」などに热狂した。なかでもの职人たちの「宵越しの銭は持たぬ」という気风は、とりわけ珍しいもの、うまいものに惜しみなく浪费する风潮となり、初物喰いに走ることになったのだろう。初物の代表は初鰹にとどめをさす。値が高くなければ、売りも买いもせぬという庶民の见栄の突っ张り合いのなせること。
「品川冲へ予め舟を出し置き、叁浦叁崎の方より鰹鱼积みたる押送船を见掛け次第、漕寄せて、金壱両を投げ込めば、舟子は合点して、鰹鱼一尾を出すを得て、櫓を飞ばして帰り来る、是を名付て真の初鰹喰と云へり」(『五月雨草纸』―庆応4年?1868年)とあるような次第。
初鰹の出始めは4月初旬が相场だが、文化9年(1812年)3月25日に鱼河岸へ入った鰹は、数は17本、そのうち6本が将军家献上、3本が料理屋の八百善、8本が市内の鱼屋に売れそのうち1本を叁代目中村歌右卫门が3両で买っている。今なら10万円位になろうか。山口素堂の「目に青叶、山ほととぎす初鰹」の名句は谁でも知っているが、当时、鰹はどうして食べていたのだろう。川柳にこんなのがある。

梅に鶯かつほにはからしなり(天元?仁)
すり鉢を賑やかに摺る初鰹(明四?天)

鰹の刺身にはからし味噌やからし酢をつけて食べていたことがわかる。

「初時鳥」歌川豊国(三世) 画
味の素食の文化センター所蔵

端午の节句

5月5日は端午の节句である。家々では外に幟を立て、軒には菖蒲を掛け、内には冑や武者人形を飾る。「昔は端午のぼりの頭に種々のものを付けたり、のぼりも今世のように一対にして立つるはなく、幾本立つるも一本づつさまざまなり」(『嬉遊笑覧』―文政13年?1830年)。幟絵や武者人形に鐘馗が扱われるのは、唐の玄宗皇帝が病に伏したとき、夢に鐘馗が現れて悪鬼を退治し、平癒したとの故事による。端午の节句はもともと中国から伝わった疫病、災厄を祓う行事だが、邪気を断つ「菖蒲」は「尚武」に通じ、鐘馗の姿形から武張った風となり、いかにも男子の節句らしい。
山东京伝の『四季の交加』(寛政10年?1798年)に「端午に至れば人家みな粽、柏饼をつくり、菖蒲刀、上り冑を饰る。轩に葺く菖蒲は风に戦いで帜の立波より生いずるが如く、门に立つる毛枪はのうれん(のれん)の松林よりあらはれて宿人の行列に似たり」とあるが、粽については『嬉游笑覧』に「チマキは种々に製すれども、世の常のは角黍の名似合はず、越后などにてつくる篠チマキ、また长崎にて作る竹の皮チマキ、叁角なれどその形がなくなり」とあり、古くは米を包んで蒸していたのが、やがて饼や粉となった。柏饼は「叁都ともその製は、米の粉を练りて団形、扁平となし二つ折となし、间に砂糖入赤豆馅を挟み、柏叶大なるは一枚を以て包み蒸す。江戸にては砂糖入味噌をも馅に代え交ぜるなり。赤豆馅には柏叶表を出し、味噌には里を出して标とす」(『守贞谩稿』―嘉永6年?1853年)にとある。

柏餅を作る(「五節供稚童講釈」歌川国芳 画)

隅田川の川开き

江戸は「水の都」で、大小の河川と縦横に走る堀は船による生活物资の运搬や人々の往来に欠かせぬものであった。
明暦の大火(明暦3年?1657年)の后、隅田川に両国桥が架けられて川游びが盛んとなり、纳凉といえば両国と定まった。
「五月二十八日、今夜より花火をともす」(『东都歳时记』―天保9年?1838年)とある。玉屋は両国桥の上流を、键屋は下流を受け持ち、华丽な技を竞い合った。纳凉に繰り出す屋形船は、それぞれに酒や料理を持ち込んで宴を张る。(『料理早指南』―享和元年?1801年)には各种の重詰め料理を记载しているが、船游び向きの献立の中に枝豆も西瓜もある。大豆の未熟な种子である枝豆を茹でて食べることは(『延喜式』―延长5年?927年)に记述があることから平安时代のころかららしい。「汤出菽売り、叁都ともに夏月の夜、それを売る。(中略)。江戸はこの菽を枝豆と云ふ。故にそれを売る词を&濒诲辩耻辞;枝豆や枝豆や&谤诲辩耻辞;」(『守贞谩稿』―嘉永6年?1853年)とあり、江戸で売り歩くのは妇女子が多かったという。茶人の千利休も食したと云う西瓜は『むかしむかし物语』(享保17年?1732年)によれば、最初は道端で切売りし、买喰いする程度だったが、やがては大名も赏玩するようになった。文化年间(1804~18年)の『市阴月令』(村田了阿)に「六月、眞桑瓜、越瓜、丸渍瓜、西瓜、夏桃よぶ声いずれも暑し」、「七月此程须田町辺、瓜、西瓜などさかん也」とあるように町の景物となっていた。また、夏の食べ物には「ところてん」もあり、砂糖か醤油を掛けて食べていたと云うから、现在の蜜や酢醤油で食べるのとさしてかわらない。

「浮絵両国橋夕涼之図」(渓斎英泉 画)
神戸市立博物馆蔵

七夕

朝廷の仪式であった七夕は、「七月七日织女祭」(『廷喜式』―延长5年?927年)とある。天の川で出会う牵牛星は农业を、织女星は衣料を象徴した、衣食の行事である。竹を立て、饰りものをつけ、瓜や茄子、団子などを供え、素麺を食べる。素麺が七夕の付きものとなったのは糸の细さを连想させるからだろう。五色の色纸や短册には里芋の叶、稲の叶に溜まった露で墨をすり、和歌や愿いごとを书けば书が上达するといわれる。「江戸にては、児ある家もなき屋も、贫富大小の差别なく、毎年必ず青竹に短册?色纸を付して、高く屋上に建つる」(『守贞谩稿』―嘉永6年?1853年)とあり、笹売り、短册売りが町に出る。「七夕の前短册纸を売来るは、享和の顷はいろ纸计を売、文化の顷よりさまざまの形を切て売、近顷は枚行にて梶の叶型などの形をおして切ぬき、十枚くらゐづつ一束にして売、天保に至ては纸にて网を切、売来れり」と『世のすがた』(百抽?忍川―天保4年?1833年)にある。
七夕に素麺を食べる风习は室町时代にはあり『北野社家日记』(长享3年?1489年)七月二十八日条に「七夕素麺」の言叶がある。五节句のひとつの七夕は、庶民にも盛んに行われるようになり、「七夕御祝仪、诸侯帷子にて御礼今夜贵贱供物をつらねて二星に供し、诗歌をささぐ。家々冷素麺を饗す」(『东都歳时记』斉藤月岑―天保9年?1838年)とある。食べ方は昔も今も変わりはない。冷たい汁をつけて食べるか、温かい汁や味噌汁で煮麺にするぐらいである。江戸时代の料理书には、数种类の具をのせて醤油味の葛汁をかける「葛素麺」、浓いめの味噌汁をかける「こくせう麺」、红で染める「红そうめん」などが出てくるが、精进のときには鱠や刺身の代わりに使われることもあった。

文月西陣の星祭り(「五渡亭国貞』三世歌川豊国 画)
たばこと塩の博物馆所蔵

土用丑ノ日

「江戸前」とは、文政2年(1819年)、鱼河岸の肴问屋が役所に提出した答书に「江戸前と唱へ候场所は、西の方、武州?品川州崎一番の棒杭と申场所、羽根田海より江戸前海へ入口に御座候、东の方武州深川洲崎松棒杭と申场所、下総海より江戸へ入口に御座候、右壱番棒と松棒杭を见切と致し、夫より内を江戸海と古来より唱う来り候」とある。江戸城前面の海で获れた鱼が江戸前の鱼とされていたが、隅田川の千住、尾久あたり、特に神田川、深川产の鰻は川鱼でありながら江戸前として赏味された。贝原益轩は「河鱼の中、味最美し」(『大和本草』―宝永6年?1709年)と评しているが、背开きにし、串を打って、白焼きにし、蒸しにかけて、タレを掛けて焼き上げる、という丁寧な仕事にこそなにがなんでもうまいものを食べたいという庶民の执念を感じる。
土用の丑の日に鰻を食べる故事の由来ははっきりしない。「土用丑ノ日」の宣伝文句は平贺源内の発案とされるが、『江戸买物独案内』(中川芳山堂―文政7年?1824年)の「饮食之部?うの部」に
「丑ノ日 元祖 かばやき所 神田和泉橋通 春木屋善兵衛」とあり、一般の慣わしとなっていたとがわかる。天明(1781~89年)の末ごろから蒲焼に飯をつけることがはじまり、文化(1804~18年)ごろにはうな丼の前身である「うなぎめし」、安政(1854~60年)ごろになって「うな丼」が登場する。市中の蒲焼店も二百軒を数えるほどの盛況振りであった。

「江戸前大蒲焼 大和田店先」部分(勝川春亭画)
味の素食の文化センター所蔵

重阳

9月9日は陽数の極である「九」が重なるとし「重阳」といい、又「重九」ともいう。延命長寿の効力があるという菊を浸した酒を飲み、邪気を祓うという中国の風習が、平安時代に宮中の行事となり、武家、民間に伝わった。
菊といえば日本および日本人と、欧米人は连想するようだが、原产は中国である。春の桜と并んで秋の菊はことのほか江戸の人に爱でられ、菊见と菊作りの人気は异常なほど高かった。驹込から巣鸭、染井にかけての植木屋は30~40轩、白山近辺から千駄木、根津あたりで81轩がこぞって菊を并べ、菊人形などの作りものを竞った。妇人や子供达には容易に见ることが出来ぬほどの混雑ぶりで、道路には见物客目当ての茶店、菓子店、饭店、蕎麦屋等が俄かに出现して大いに賑わったという。
菊を食べることは室町时代顷から始まったようで江戸时代最初の刊本である『料理物语』(寛永20年?1643年)の「青物の部」をみると菊の花は「さしみ」によしとあり、そのほか牡丹の花、芍薬の花、くちなしの花、萱草の花、のうぜんの花、忍冬の花などもさしみ、酢合え、煮物などにしており、花を食べる风习は古くからあったことがわかる。

植木屋の菊见物(「四季の花」)

中秋の名月

「明月」は四季を通じて见ることが出来るが、「名月」は8月15日の一夜のみで、十五夜の満月を「中秋の名月」と称し、観赏するのが「月见」であると古书にある。
江戸市中の风俗や日常の雑事を见闻し记録した『守贞谩稿』(嘉永6年?1853年)に江戸の月见は「机上の中央に団子を盛った叁方を置き、花瓶に芒を差して供える」とあり、米の粉で作る団子は何も入っていない素のもので、そのほかに柿、栗、枝豆、里芋などを供物にする。
『东都歳时记』(天保9年?1838年)に「麻布六本木芋洗坂に青物屋があり、八月十五夜の前に市が立ち、芋の商い多く、芋洗坂と呼ぶ」とある。中秋の名月は一名「芋名月」とも呼ばれるが、十五夜前后は芋の収穫期と重なることから、感谢祭の意味があるのではないかと推察されている。名月観赏の风习は中国から伝わった。中国では唐の时代には行われていたらしいが、始まった时期は不明である。さらに月を祭ることは中国では元、明の顷、わが国では室町时代になってかららしい。
「名月や池をめぐりて夜もすがら」は芭蕉の名句として知られているが、江戸の人々はどこで月见をしていたのだろう。隅田川、綾瀬、深川洲崎、立川(坚川)、小奈木川(小名木川)、鉄砲洲、芝浦、高轮、品川、不忍池などが挙げられているが、ほとんどが水辺近くの场所であり、当时は舟を仕立てて月见をすることもあった。

月见団子(「素人包丁」)
青物売(「江戸职人歌合」)

芝神明社

芝神明町の大神宫の祭礼は旧暦9月11日から21日までの10日间も长く続くことから「だらだら祭」ともいわれる。
「生姜の市が立ち、参诣の人は叶生姜を求めて帰り、家の糠渍の中へ入れ、これを食せば风邪の予防となる。俗に生姜祭という」(『改正月令博物筌』―文化5年?1808年)とある。生姜だけでなく、千木笥(箱)といって小判型の曲物に、藤の花を赤、緑、青などの胡粉で画いたものに飴を入れて売っていた(『东都歳时记』)。笥は大中小の3つ重ねでくくってあり、现在は大豆の煎ったものが数粒入れてある。この豆を食べると魔除け、雷除けになるといい、又、箪笥の中に入れておくと着物が増えるといわれ、妇女子には今も人気がある。
生姜は热帯アジア原产で、わが国へは中国から渡来したものであろう。奈良时代にすでに栽培されていたらしい。料理书研究の権威川上行蔵博士(1898~1994年)によれば、当时、山椒を「ナルハジカミ」、生姜は「クレノハジカミ」といい、共に「薑」の字が当てられていて、「クレノハジカミ」は「生薑」と书いて「ショウキョウ」と読み、鎌仓时代には「ショウゴウ」とも読んだようである。生薑から生姜の字になり、「ショウガ」と読むようになったのは『四条流包丁书』(延徳元年?1489年)からである。
江戸时代、生姜の产地として有名であった谷中(现台东区)から、东京では今も叶生姜を「谷中」と呼んでいるが、関西方面では古名のハジカミといい、ショウゴウと呼ぶ地方もあると闻く。

饭仓神明宫祭礼(「江戸名所図会」)

新米?新酒

わが国に於ける稲作は弥生时代から縄文时代に遡り、米作りの长い歴史が始まったとされる。平安时代には稲の品种も现在のものと変わらぬ程に出揃っていたことが、平安时代出土の木简から见てとれる。
9月は新米収穫の月である。「新米(ことし米、青米)は8月の季节とした书物もあるが、稲の生育には遅い、速いがあり、秋全般に亘るものだ」(『改正月令博物筌』)とある。江戸の米の多くは奥州产であった。「寛永九年(1632年)より仙台の米穀が江戸へ出廻る。今江戸市中の米の叁分の一は奥州米である」(『烟霞綺谈』―安永2年?1773年)というほどだった。8代将军吉宗は「米将军」と呼ばれたが、江戸も元禄の顷には1日3度の食事回数が定着し、糠を落とした精白米を食べるようになる。
秋ともなると、京坂の酒造地から新酒が船で运ばれる。伊丹、池田、滩などから江戸に运ばれる酒を「下り酒」といった。江戸中の酒店では毎年10月、新酒が来ると得意先などに无料で配り、赠り物としていた。下り酒、下り米など「下り物」は大坂からの船便で来る商品で、「京坂からもたらされた上等品」の意味。これに対し江戸近郷からの入荷品を「地廻り物」といい粗製安物を意味する「下らぬ物」といった。江戸の生活物资の大半は下り物で占められていたが、やがて地廻り物の质量が向上し、例えば関东の醤油など、文政4年(1821年)、江戸に入荷した125万樽のうち、下り物はわずか2万樽に过ぎなかった(『江戸醤油问屋仲间上申书』)。

新川酒问屋(「江戸名所図会」)

歌舞伎の颜见世

旧暦11月1日は歌舞伎の「颜见世」の初日で、一般の正月に当たる。芝居の関係者は初日から3日间はすべて裃、羽织袴を着用し、雑煮で祝った。「芝居」の语源はもと芝生の上の见物席を指したものという。大芝居、小芝居など各种の芝居があったが中村座、市村座、森田座が「江戸叁座」として有名であった。
江戸では1日3千両の商いがあったといい、芝居、吉原、鱼河岸の3ヶ所で千両づつ、〆て3千両となる。また、歌舞伎は江戸の文化の源で文学、絵画、音楽など各方面に大きな影响を及ぼし、いわゆる歌舞伎趣味は江戸庶民の娯楽であり、教养であった。
芝居の兴业时间は明け六ツ(午前6时)から暮七ツ半(午后5时)までと1日掛りで、食べものの手当ても必要となる。芝居小屋の附近には木戸札や料理などの手配をする芝居茶屋があり、その茶屋を通してくる桟敷の客は大名の留守居役、出入りの商人、宿下りの御殿女中などで、まず口取りと酒を出し、昼になると幕の内弁当に口肴、午后には鮨と水菓子というのが决まりであった。中位の土间の客には菓子、弁当、鮨が决まりで、それぞれの头文字をとって「かべすの见物」といった。
现今、俵型の型押しの饭の入った弁当を幕の内弁当と称しているが、「江戸芝居见物の中食には焼き握りが通例で、蒟蒻、焼豆腐、芋、蒲鉾、玉子焼当が入る、江戸芳町の万久という店が贩売している、名付けて幕の内という」(『守贞谩稿』)とある。

「大芝居繁栄之図」(国貞 画)
携帯用の提重(「料理花船集」)

酉の市

11月の酉の日を祭日とする大鸟(鷲神社)の祭りである。「一の酉」「二の酉」とあり、「一の酉」の日が重んじられ、年によっては「叁の酉」まであり、その年は火事や灾害が多いと云い伝えられている。
『江戸砂子』(享保17年?1732年)で「鷲大明神」とあるが、3年后に出た『続江戸砂子』には「鶏大明神、花又村(现?足立区花畑)にあり、毎年11月酉の日市立つ。3つある时は3日ともに市なり、初めの酉の日を専らにす。近在より集まりて繁盛の市なり、当社神事の心なり。当所の者鸟类食すことはならず。鶏を食すれば即死すという」とある。祭の当日、近郷近在の农民は鶏を奉纳し、翌日浅草寺の当前に放つ仕来りであったという。江戸からも相当の参诣人が押し寄せたが、その大きな理由は辻赌博で、1年の运を赌けての神頼みだったが、安永2年(1773年)11月に博打が禁じられてからは、浅草の鷲神社に賑わいが移っていった。江戸市中にはそのほか下谷、千住、鸟越、巣鸭、四谷、新宿、深川などの诸所にも神社があるがすべて花又村の鷲神社の分社であるという。
ちなみに神社の御舆の天辺の饰りはおおむね凤凰だが、今も花畑の御舆には鷲がついている。当初、市の売り物は熊手が主であったが、参诣人の多くは縁起を担ぐ商売人が多く、酉は「取り込む」、熊手は「掻き込む」、八ツ头は「人の头となる」などといい、蒸した芋をおかめ笹に通し、海山川の产物、饼の类、竹製品、金物类と共に売られた。熊手は次第に派手になり、お福の面、七福神、宝船、枡、千両箱、当り矢などが饰り付けられ、熊手の簪も考案された。

熊手(「絵本江戸土产」)
鶏の奉纳(「江戸名所図会」)

鞴(ふいご)祭

江戸は武家を中心とした新兴の都市で、全国各地から商人や出稼人が集まってきた。発展途上の町であり、一方、「火事と喧哗は江戸の花」といわれるほど火事が多く、絶えず槌音响く町であった。
江戸は又、职人の町でもあった。江戸城造営や武家屋敷建筑のために働いた职人集団は、职名をそのまま町名として住みついている例がみられる。大工町、木挽町、白壁町、畳町、具足町、鞘町、鉄砲町、锻冶町、锅町、桶町、瀬戸物町、箔屋町、紺屋町、呉服町などである。江戸の年中行事の中でも特笔されるのは、职人の行事である。
旧暦11月8日は「稲荷のお火焚き」ともいわれ、全国の锻冶师や鋳物师たちが火防の稲荷神を祭り、「鞴祭り」と称した。鞴とは火を起し、火気を强める送风机でスースーと息を切らすような音を出す。
「吹革祭、锻冶鋳物师、餝白金细工、すべて吹革をつかふ职人、此日稲荷の神を祭る。俗にほたけ(火焚)と云。此夜子供あまた锻冶が轩にあつまり、ほたけほたけとはやせり。柿蜜柑をなげて子供にあたふ」(『続江戸砂子』)とある。

鞴祭(「西川东童」)

纳め縁日と年の市

年の暮、师走である。江戸市中のどこかで毎日縁日が催されていた。縁日とは神仏の诞生や霊験あらたかとなった縁の日で法要や供养を行う。当日は市が立ち、参道附近には屋台や露店が立ち并び日用品や饮食物を商う。12月の縁日は纳めの縁日となるが、年の市は15日の深川八幡を手始めに、とりわけ17?18日の浅草寺の市は江戸で最も賑わった。「江戸年の市、门松、注连縄を初め、神棚及祭神の具、其他种々正月の调度を売る」(『守贞谩稿』)。
13日煤払い。正月を迎える最初の準备、大扫除である。武家も町方もこの日と决っていた。
20日顷より30日までを歳暮といい、亲类友人互いに物を赠り合い、酒食の宴を开き年忘れをする。
26?27日に饼捣きをする。「此顷迄にもっぱら饼つきあり、赁銭にて饼屋に捣かせるを赁饼といひ、釜を持ありきて捣くを引づり饼といふ」(『东都游覧年中行事』―嘉永4年?1851年)。
「晦日そば」の风习は江戸中期顷からだが、商家を中心に広まったらしい。月末に食べるそばをいい、暮れの31日に食べるのは「大晦日そば」という。

门松饰り(「大晦日曙草纸」)
煤払い
参考文献
  1. 1『江戸学事典』(弘文堂)江戸学事典编集委员会编
  2. 2『江戸?食の履歴书』(小学馆)平野雅章
  3. 3『江戸庶民の信仰と行楽』(同成社)池上真由美
  4. 4『江戸食べもの誌』(作品社)兴津要
  5. 5『江戸ッ子の生活』(雄山阁出版)芳贺登
  6. 6『江戸 東京 グルメ歳時記』(雄山閣出版)林順信
  7. 7『江戸东京歳时记』(吉川弘文馆)长沢利明
  8. 8『江戸年中行事図聚』(中央公论社)叁谷一马
  9. 9『江戸俳谐歳时记』(平凡社)加藤郁平
  10. 10『江戸名所図会を読む』(东京堂出版)川田寿
  11. 11『大江戸料理帖』(新潮社)福田浩?松藤庄平
  12. 12『鬼平が「うまい」と言った江戸の味』(笔贬笔研究所)逢坂刚?北原亚以子
取材协力
  • 王子稲荷神社
  • 歌舞伎座
福田浩(ふくだ ひろし)
东京都生まれ。
「叁到」(さんとう)にて修行后、家业を継ぐ。
现在、大塚「なべ家」主人。古い料理书の研究、江戸料理の再现者としても名を知られている。

着书に
『豆腐百珍』(共着、新潮社)
『大江戸料理帖』(新潮社)
『江戸料理百选』(共着、2001年社)
『変わりご饭』(共着、柴田书店)など