研究機関誌「FOOD CULTURE No.9」肉食の解禁 开化を始める日本人の肉食文化
肉食の解禁 开化を始める日本人の肉食文化
第8号「异国食の受容と変容」のあらすじ
日本の食の歴史は、弥生时代の米食文化流入以来、异国の食文化を受容しながら江戸时代に「和食」を完成させた。その和食は、开国?文明开化によって西洋の食文化を受容し、変容を遂げた。
それ以前、长崎では幕末から西洋料理屋が営业していた。开国后は、横浜、神戸、函馆などの港町から西洋料理が普及。明治3年に东京?筑地精养轩ホテルが开业。やがて、ライスカレー、トンカツ、コロッケのような日本风にアレンジした和风洋食が広まった。
明治后期になると、製糖?製粉をはじめ、食品产业が発达して次々と新しい食材が出回った。関东大震灾后には、ラーメンやワンタンが登场し、安さと美味しさで中华料理が大流行。この顷には、饮食店の数も増え店の大众化も进み、多くの庶民はここで新しい异国の味を食べることができた。その料理は、一品ごとに米饭の副食になるものだけが取り入れられた。こうして世界に类をみない和?洋?华混合の多様な食が、新しい日本の食として成立した
はじめに
嘉永7年(1854)3月、徳川幕府は日米和亲条约を缔结、続いて日英、日兰、日露など西洋诸国と次々に和亲条约を结び、长い间の锁国政策を転换して开国に踏みきった。平成16年はそれからちょうど150周年にあたる。
その后、大政奉还を契机として西洋近代文化の积极的摂取、文明开化が国を挙げての目标となったが、食生活においてはそれまで社会的タブーとされてきた肉食の解禁こそ、その象徴であった。
世界では宗教的理由で牛や豚を食べない民族はあるが、日本のようにすべての家畜肉をタブー视してきた国はきわめて珍しい。
しかし一般的には肉を食べなかったといっても、全国すべての人々がまったく肉食しなかったわけではない。时代や地城や阶层によって肉食していた人々も少なくない。日本人と肉食の関係は多様である。これからその歴史を考えてみよう。
市场风景と国土景観
ヨーロッパに出かけるとまずまちの市场を覗いてみることにしている。市场ほどその土地の人々の暮らしぶりを见られる场所はない。一歩市场に踏みこめば、たちまち「ああこれがヨーロッパだ」という光景が展开する。
市场の大半を占めるのは肉と乳製品だ。とくに肉売场は壮観である。精肉ばかりではなく血のしたたるような牛、豚、羊などの头から脳みそ、肝臓、肾臓、耳、足、しっぽまで并んでいる。ほとんど刺身のようにきれいにスライスされた精肉だけを食べている日本人の肉食とはまったく次元のちがう本格的な肉食の世界がここにはある。
本来、肉食文化の発达度は动物の全体をいかに食べ尽くすかによって测られる。それからすれば日本人は今日でもけっして肉食の民ではない。
鱼ならば头から肠まで食べ尽くす日本人はやはり鱼食の民である。古代ユーラシア大陆の中央で発生した肉食牧畜の文化は东西に拡がった。その波は西方ではヨーロッパからアメリカ大陆まで及んだが、东は朝鲜半岛までで止まり、ついに日本には达しなかった。
ヨーロッパの食と农业は牧畜を除いては成り立たない。その农村风景といえば、ほとんどが牧场、草地、饲料畑の広がりが目に浮かぶ。それはその気候风土によって必然的に形成されてきたものである。
ヨーロッパは北国である。西欧诸国の首都で东京より南に位置している所は一つもない。北纬でみるとベルリンは53度、ロンドン51度、バリ49度、ローマでも42度である。それに対し东京はもうアフリカに近いジブラルタルと同じ36度、札幌でも43度、5度といえばもうカラフトの真中である。
低温なヨーロッパは元来作物の栽培には不适なところである。だが草は日本のようにたくましく育つことはなく、いつも柔らかなままで家畜には絶好の饲料となる。だから人间の食料にはならない草を家畜に与え、その肉や乳を人间が食べるという文化が成立した。
一方、日本の代表的な风景は水田である。日本の风土は水田耕作にこそ适しており、日本人が米を主食としてきたのも自然のなりゆきであった。しかも岛国で水产资源に恵まれ、必ずしも畜肉に依存しなくてもよい、米食、鱼食の民が生まれてきた。


古代の肉食と肉食禁止令
日本にも古代には肉食の文化があった。原始の狩猟採集时代にはもちろん野獣肉は重要な食物であった。
邪马台国の时代を记した「魏志倭人伝」には、倭人たちは死者が出ると十数日间は丧にふして肉食をしないと书かれている。また倭の地は温暖で、人々は「冬夏生菜を食し」、酒好きで、8、90才から100才にも达するほど长命だとも记している。
古代の天皇たちもさかんに狩を行い、肉ばかりか内臓まで食べていた。「万葉集」には鹿の肉や内臓が天皇のために如何に役立っているかをうたった歌がある。『日本書紀」には狩と鳥獣肉の膾(なます)を好んだ雄略天皇の話もあり、朝廷には島獣の肉料理を担当する宍人部という職がおかれていた。養豚も行われており、「古事記」 には「猪飼い」が出てくる。また聖武天皇は40頭の猪を野に放ったという。
またその顷、民间では雨乞いなどの农耕呪术として牛马を杀して神に捧げる风习が広く行われていた。それは神と人との肉の共食である。こうした古代の肉食に大きな変化をもたらしたのは6世纪半ばの仏教伝来である。仏教は轮廻転生の教えを説く。人间は生まれかわり、死にかわりながら、地狱、饿鬼、畜生、修罗、人间、天上の六界をめぐり続けるということで、虫や动物も亲や祖先の生まれかわりかもしれないのである。だから生きとし生けるものすべてに慈爱の心を持ち、杀生をつつしむべしという。
675年4月、天武天皇は诸国に杀生?肉食の禁断を発令した。これは4月から9月までの农耕期间中は牛、马、犬、猿、鶏の肉を食べてはならないというものであった。家畜として人间と一绪に生活しているものと、人间にもっとも近い猿が対象で、狩猟の主な获物である鸟獣は除外されている。まだ重要な食料とされていた鸟獣肉まで禁止するわけにはいかなかったのである。
その后およそ100年ほどの间、代々の天皇が杀生肉食の禁令を発している。これはその禁令がなかなか守られなかったことを物语っている。
牛乳?乳製品も飞鸟时代に帰化人によって伝えられた。以后平安时代まで各地に牛の牧场が设けられ、生乳?乳製品が朝廷に贡纳されていた。平安时代の「延喜式」典薬寮の顷には乳牛の记载があり、搾乳の时期には一日豆2升、稲2把を与えると决められていた。牛は农耕饲料で养われていたらしい。
また天皇家に奉げられる牛乳は毎日3升余で、天皇家ではかなり多量の牛乳を饮んでいたことになる。乳製品には酪、苏、醍醐があった。酪は练乳、苏はバターのようなものと思われる。醍醐の実体はよくわからないが、この世で最高の美味として「醍醐味」の语源となっている。「源氏物语」の主人公たちもこうした乳製品を食べていたに违いない。
平安时代の长诗「玉造小町子壮衰书」は「小野小町物语」とされているが、そこに描かれた小町の食卓は金の机の上の银盘に、鶉(うずら)の冷汁、鸭の热汁、雁の塩辛、熊の掌、兎の脾臓、鶏の头などが并んでいる。小町も大いに鸟獣肉の美味を楽しんでいたらしい。しかし时代とともに、仏教的杀生禁断、肉食禁忌の思想は肉の秽れという観念と相まって、次第に広がっていった。
9世纪には田植の时に农民たちが牛肉を食べたことに怒った田の神が蝗を放って苗を枯らしてしまったという神话も生まれている。「延喜式」では家畜肉を食べれば3日间の物忌とされていたが、鎌仓时代の伊势神宫の物忌令によると家畜ばかりか野獣肉も物忌の対象となり、その肉を食べた者は100日间、その者と一绪に食事した者は21日、さらにその者と食事を共にした者まで7日间の物忌を课している。まして牛马の肉を公然と食べることなど考えられない时代になっていた。后にイエズス会の宣教师が秀吉に面会した时、「牛马は人间に仕え有益な动物なのに、何故それを食うような道理に背いたことをするのか」と詰问されたという。

キリシタンと肉食
フランシスコ?ザビエルがキリスト教布教のために来日したのは天文18年(1549年)である。
彼は日本人に悪感情を抱かれないよう日本では肉食をしないと固く决心していた。彼等は来日前に日本についての予备知识を得ていた。とくに食については、日本人は牛肉を忌み、牛乳は、「生血を吸うが如し」といって饮まず、バターも、オリーブ油もないといって、日本に派遣する宣教师は粗食に耐えることを条件にした。事実、はじめの顷はまったく肉食を断ち、どこでも日本人と同じ食事をしていたらしい。そのため健康を害する者もいた。
彼等は九州や山口など诸大名に歓迎され、布教もほぼ顺调にすすんだ。长崎の大村、有马、豊后の大友のようなキリシタンに改宗した大名の领内では神社仏阁の破壊や仏僧の追放が行われ、肉食禁忌を积极的にやぶるものが続出した。キリシタン大名たちは宣教师がもたらした牛肉、豚肉、ワイン、パンなどを好み、大いに喜んだという。
肉食を喜んだのは大名たちばかりではない。「イエズス会士日本通信」には、大友宗麟の豊后府内で行われた盛大な復活祭の模様を次のように伝えている。
「当日は大なる祝日なりしがゆえに、约四百人のキリシタン一同を食事に招きたり。この食事のため我等は牝牛一头を买い、その肉とともに煮たる米を彼等に饗せしが、皆大なる満足をもってこれを食したり。」
これはポルトガル?スペインの代表的料理パエリアではないか。いまでも「豊後黄飯」と呼ばれて大分の郷土料理になっている。また松永貞徳の「慰草」(1653年)には「ちかごろ吉利支丹の日本へいたりしときは京衆牛肉を「ワカ」と申してもてはやせりという」と記されている。ワカとはポルトガル語 VACA=牛肉である。京都の町衆たちも牛肉を好んだらしい。秀吉の小田原征伐の時に、キリシタン大名高山右近が蒲生氏郷や細川忠興を招いて牛肉料理を馳走した話も伝わっている。忠興はその味が忘れられず国許に牛肉を送れとたびたび命じていたという。こうした肉食を中心とする南蛮料理は九州から山口、京都、堺などを中心に広がりをみせていった。
江戸时代の肉食事情
キリシタンや南蛮贸易の影响によって新たに开化しかけた日本の肉食文化も、その后のキリシタン禁制、锁国のあおりを受けて再びタブー化され、贞享4年(1687年)、五代将军纲吉の「生类怜みの令」によって一层弾圧されてしまった。この时代に日本の杀生禁断、肉食禁忌は最高潮に达した。
しかし建前としては禁忌された肉食も実际上はいろいろな形で続けられた。牛马のような家畜肉はともかく、野生の鸟獣肉はかなり広く食べられていた。
农作物に恵まれない山村では鸟獣肉はやはり贵重な食料であった。日本の国土の7割は山地で多くの鸟獣が栖息しており、山村では农作物を荒らす鸟獣を防ぐことが最大の课题であった。垣をつくり、夜番をし、ワナを仕掛け、鉄砲で撃ち、人々は悬命に鸟獣とたたかった。
幕府や藩から山村にはたくさんの鉄砲が贷与されていた。それは武器ではなく、山村には不可欠な「农具」であった。各村々に少なくとも5、6挺の鉄砲があるのが普通だった。信州松本藩では军役规定により装备すべき鉄砲は200挺と决められていたが、藩内の安曇郡、筑摩郡、松本町の民间が所持していた鉄砲は1040挺で藩の5倍以上に达している。こうした山村の鉄砲所持は纪州藩で8013挺、长州藩4158挺、仙台藩3984挺と记録されている。
山村には猟师も少なくなかった。「仮名手本忠臣蔵」の五段目「山崎街道」では早野勘平が猟师となって登场している。
仕留めた鳥獣は食べるだけでなく販売ルートにのせて都市に運ばれた。江戸の四谷には元禄頃まで猟師の市がたっていた。「名産諸式往来」(宝暦10年〔1760〕) には麹町で猪、鹿、狐、タヌキ、狼、熊、カワウソ、イタチなどが売られていたと記されている。
こうした獣肉屋は「けだもの屋」、「ももんじい屋」、「山奥屋」などと呼ばれ、「麹町」といえば獣肉屋を意味していた。
川柳もいろいろある。
「送るのが送られてくる麹町」は狼。「昨日まで化かしたやつを麹町」は狐である。獣肉は薬用、强精剤とされており、「けだもの屋ヤブ医者ほどは口をきき」は獣肉屋が一応は肉食の効能をしゃべるということ。
寛永20年(1643)の刊本「料理物语」には「鹿は汁贝、焼煎、干してもよし。狸は田楽、山椒味噌。猪は汁、田楽。兎は汁、煎焼。川うそは贝焼。吸物。熊は吸物、田楽。」などとあり、それらの獣肉がかなり食べられていたことを物语っている。
大名屋敷の発掘调査でも食用にされたと见られるいろいろな獣の骨が多く発见される。将军もしばしば大掛りな鹿狩、猪狩の游猟に兴じた。将军が鹰狩りで捕えた鹤は昼夜兼行の早飞脚で京都の天皇に献上するのが惯例であった。
飞騨の白川村などでは毎年、年の暮れになると「くらじし」と呼ぶ羚羊狩りを行い、大晦日の驰走にその肉锅を食べる风习があったという。白川村といえば真宗のさかんな土地として知られている。
他の村でも都市でも、諏访明神の神札「鹿食兎」をいただくとか、同社の出す白箸で食べれば肉食しても秽れにはならないとしたり、あくまで薬用を名目にするとか、いろいろな免罪符が用意されていた。


薬食と牛豚肉
獣肉屋にも牛肉はなかった。だが一部では牛肉もかなり食べられていた。
东京千代田区の纪尾井町ビルは昔の纪州藩邸跡であるが、その遗跡からは调理したとみられる牛骨が出土している。
彦根藩からは味噌渍、干肉、粕渍にした牛肉が毎年将军はじめ诸大名、公家などに献上されていた。将军家から所望があれば、彦根から念のために东海道と中山道の二つのルートを使って送った。道中その荷物は将军家御用として特别に扱われ中身は牛肉なのに「返本丸」とか「反本丸」などと薬名がつけられていたという。
彦根の牛肉は当时珍しい絶好の赠答品であった。水戸浪士が大老井伊直弼を暗杀した桜田门外の変はその牛肉の因縁によるという巷説まで広まっている。水戸斉昭は牛肉好きで知られていたが、直弼が彦根藩主になってから牛肉献上を止めてしまったことに不満を抱いていたというのである。
仙台藩伊达家の料理书には牛肉を本汁に用いるという记述がある。牛肉とごぼうの汁で、本汁は第一の膳に供されるもっとも大切な汁である。ただしそれを食べた者は150日の秽れとされた。
幕末の桑名や和歌山の武家の日记にも牛肉食の様子が记されており、大石内蔵助も堀部弥兵卫に「养老食」として牛肉を赠っている。武士阶级ばかりでなく、庶民の间でも牛肉食はあったらしい。18世纪末の安永顷の播磨国では牛肉を细かに切って煮て天日干したものが各所で売られ、一日に2、3头から1头、年间3词400头も屠牛が行われていたという。かなり需要が多かったことを物语る。
平安末期から途絶えていた牛乳?乳製品も吉宗时代に復活した。享保12年(1727年)八代将军吉宗がオランダから献上されたインド产白牛3头を房州岭冈の幕府直営牧场に放牧したのが始まりである。その后白牛は増えて寛政顷(1789~1801)には70头、维新顷には4~500头にも达した。
白牛からは牛乳をしぼり、白牛络をつくった。生乳は江戸まで运べないので乳の出る牛を江戸まで连れて行き、しぼり终った牛はまた岭冈に帰した。白牛酪は牛乳に砂糖を混ぜて煮詰めたもので、一个100グラムほどの大きさに固めた。服用するときはそれを削って食べるか、茶に入れて饮んだ。石鹸ぐらいの固さだったという。
白牛酪の効用は幕府の医官桃井寅「白牛酪考」に详しいが、それを常用していた十一代将军家斉は51年间将军を続け、40人の侧室をもち、55人の子供を生ませたことで知られている。加贺前田家に嫁ぎ、东大の赤门に名残りをとどめた容姫はその16女である。増产されるようになった白牛酪は一个一朱で庶民にも贩売された。一朱は大体职人の日当程度である。
また岭冈の白牛からは御製薬と称する将军家特用の伤薬も作られた。これは白牛に蓬(よもぎ)だけを与え、その粪を黒焼きにしたものである。牛肉ばかりでなく豚肉も食べられていた。安政6年(1859年)佐藤信渊はその「経済要録」の中でこう述べている。
「豚は近年これを饲うものがすこぶる多い。その味はきわめて上品で、他の獣肉のとても及ぶところではない。萨摩藩邸で饲っている白豚はその味がさらに上品だ。それを见习うべし。」
寛政年间の橘南谿「西游记」は広岛城下の「家猪」と题して次のように记している。
「其町にぶた多し。形牛の小さきがごとく肥ふくれて色黒く、毛はげてふつつかなるものなり。京などに犬のあるごとく、家々町々の轩下に多し。他国にては珍しき物なり。唐土などには多く饲そだてて、食用にする事なり。琉球にも多しという。」
中国人が豚肉を常食にしていたことは知られていた。「美しい颜で杨贵妃豚を食い」「豚食うと闻けばおそろし杨夫人」
杨贵妃が豚を食う姿は日本人にはきわめて不钓合なことに思われた。
天明8年(1788年)に长崎を旅した司马江汉はそこで牛肉を食べ、「味ひ鸭の如し」といい、豚肉も「至って美味し」と褒めている。最后の将军一桥庆喜も豚肉好きで知られ、「豚一さん」とあだなされていたという。
新撰组も豚肉と関係がある。近藤勇と亲交のあった幕府の御典医松本顺が京都で新撰组の屯所を访れた。そこには70~80人の队士がいたが、その多くは栄养失调で肺病だった。そこで松本は残饭で豚を饲い、それを食べて栄养をつけることを勧告した。新撰组はそれを忠実に実行し、队士たちも大喜びだったという。新撰组は日本における残饲养豚の一つの先駆者である。


肉食禁忌と杀生禁断
「幕府季世の顷は、猪鹿猿等の类さへ、汚秽物として甚しく之を排斥し、大名行列も、ももんじい屋の前を通る时は、其不浄を嫌ひ、驾篭を宙にさし上げて通行せる程なりし。されば、牛肉等は啖はんこと思ひもよらざりし也。」
これは天保はじめ寺门静轩による「江戸繁昌记」の一説である。幕末の水戸藩下级武士の娘に生まれた山川菊栄は自伝「武家の女性」の中で当时の日常生活を描いているが、「食べ物は肉类はもちろん使わず」と强调している。
肉はあくまで薬としての特殊な食物であって、生涯肉を一度も口にしたことのない人々が大部分であった。肉食禁忌と杀生禁断の観念は社会通念として日本人の心に強く浸透していた。幕府の「御触書」でも社寺参詣に際しての肉食による謹慎期間は、カモシカ、狼、兎、タヌキで5日間、豚、鹿などで60日、牛馬では15日とされている。
庶民の间では一层厳しく肉食禁忌が守られており、肉食する场合でも火が秽れると家外、别火で煮炊きしたり、神棚や仏坛に目かくしをしたりしていた。とくに仏事、神事の前には肉ばかりか鱼类まで生ぐさものとして禁忌するのが习しだった。
「忠臣蔵」七段目「一力茶屋の场」で大石由良之助が斧九太夫に无理に蛸を勧められる有名な场面がある。亡君の命日で由良之助が精进を守るかどうか、敌讨の本意を探ろうとした企みであった。由良之助の苦衷が観客に共感されなければ成り立たないシーンである。
文化?文政以降、江戸に獣肉屋が増えるがそれを非难する世论も强かった。天保期の有名な国学者小山田与清は「松屋笔记」の中で、兰学の影响で肉食をするものが多くなり、江戸の家屋に不浄が充満し、神の怒りにふれて火事が多発しているのだと嘆いている。肉食嫌悪の根底には秽れの観念とともに、无益な杀生を忌む仏教的杀生戒がある。その顷までの日本人はどんな生物でも无闇に杀すようなことはしなかった。19世纪まで动物が一种类も絶灭しなかった国は日本だけだといわれている。
猟师、渔民、鸟屋、うなぎ屋など、生业として杀生せざるをえない人々でも、生物の生命を悼み、慰霊の心を抱いていた。山村には千匹塚などの鸟獣慰霊碑、渔村には鱼塚などが各地に分布している。山形の饭豊山周辺には草木のための供养碑「草木塔」まである。そうした心はいまだに受け継がれていて、例えば京都叁条の檀王法林寺には鸟肉业者団体の建てた大きな鸟の供养塔があり、毎年鸟供养が営まれている。
神の与えてくれた肉食を当然とする西洋人には、こうした日本人の心情は到底理解できないであろう。江戸时代の西洋では动物虐待ゲームが大流行していた。
これについては夏目漱石が讲演している。「西洋人は大変人道を重んずる。畜生、犬牛马などに大変叮嚀である。しかし少し前まで遡ってみると随分猛烈な惨酷な娯楽をやって楽しんだものだ。」例えば雄牛と犬を戦わせる「牛いじめ」、熊と犬の「熊いじめ」、犬にネズミを噛み杀させる「ネズミいじめ」、鶏を标的にして棒を投げつける「鶏当て」などである。英国でこうした动物虐待防止が制定されたのは1820年である。
ペリー舰队が来航した时、水兵たちは船に飞来する野鸟の多さに惊いた。人间を恐れずマストや甲板にとまる鸟たちを片端から撃ち落した。それを见た日本人は「なんと野蛮な人间どもだ」とあきれて、「日本では鸟獣游猟は禁じられている。アメリカ人もこれに服すべし」という一项を日米和亲条约の付则第10条につけ加えたという。


文明开化と肉食奨励
长い间肉食を社会的なタブーとしてきた日本人が自由に肉を食べはじめるには、やはり明治の文明开化を待たなければならなかった。
しかし一般に肉食を忌む风习は根强く、肉食の普及は容易ではなかった。积极的に西洋文化をとり入れようとしていた维新政府は、そうした因习の打破にさまざまな努力を重ねた。
半官半民の筑地牛马会社が明治3年秋「肉食之説」という宣伝文を発行した。福沢諭吉の文章である。それは肉食を秽れのようにいってきたのは无学文盲の空论だとして次のように説いている。
「そもそも肉食を嫌うのは牛や豚が大きいから杀すに忍びないというのか。牛と鲸とどちらが大きいか。鲸肉を食うのは谁れも怪まない。生物を杀生するのが残酷だと思うのか。生きた鰻の背を割き、泥亀の首を切り落すのも痛々しいではないか。牛肉や牛乳を秽いというのか。牛や羊は穀物や草を食べているだけだ。日本桥の蒲鉾は溺死人を喰った鱶の肉でつくったものだ。黒鯛の潮汁が旨いといっても船のあとを追って人粪を喰った鱼だ。春の青菜が香しいといっても、一昨日かけた小便が深く叶に浸みこんでいるだろう。牛肉牛乳が臭いというのか。松鱼の塩辛は臭くないのか。くさやの干物などはもっとも臭い。先祖伝来の糠味噌樽へ蛆と一绪にかきまぜた茄子や大根の新渍はどうだ。みんな惯れているかいないかの问题ではないか。牛肉牛乳は滋养が多く身体に良い。西洋人はみな日常食としている。日本人もこれからよく眼を开いて大いに肉食をしなければならない。」と。
仮名垣鲁文は『安愚楽锅」の中で、「肉食をすりゃあ神仏に手が合されねへの、ヤレ秽れるのと、わけのわからねへ野暮をいふのは、学问を弁へないからだ。そんな连中には福沢の书いた肉食の説でも読ませたいねえ」と言っている。
伝统的な肉食禁忌の风习に一大転机をもたらしたのは天皇の肉食であった。明治5年(1872年)正月、明治天皇が1200年にわたって続けられてきた肉食の禁を破って牛肉を食した。天皇が率先して肉食したことは肉食の奨励?启蒙に拍车をかけた。またこの年僧侣の肉食も正式に许可された。
しかし反対も强かった。同年2月、10人の山伏が皇居に乱入する大事件が起った。天皇の権威を保つため国内ではほとんど公表しなかったが、英国の代表纸「タイムズ」はこれを「ミカド暗杀の企て」として报じている。
事件は2月18日早朝に起った。木曽御岳讲の山伏たちが白装束で刀や杖をもって大手门から侵入、卫兵の発砲で4人が射杀され、1人が重伤、5人が逮捕された。
彼等は外国人が来日して以来、日本人の多くが肉食するようになったために国土が秽れたとして、外国人の追放、神仏混淆、封建体制への復帰などを天皇に直诉し、受け容れられない场合は天皇を杀すことも辞さない、と供述している。
肉食反対の运动は各地でも起っており、牛肉店が周辺住民の圧力で溃されるようなこともあった。政府だけでなく各県でも何とか県民の旧惯を打破して肉食を奨励しようと努力していた。
例えば敦贺県庁では明治5年県下に次のような布告を発している。
「牛肉は优れた养生物なのにとかく旧来のしきたりに固执し、自分が食べないばかりか食べれば神前をはばかるなどと、いわれのないことを言いふらして开化を妨げるものどもが少なくないが、これは天皇の御主意にも反しもってのほかである。」と。
こうしたさまざまな启蒙や奨励によって日本の肉食文化は渐く広がりを见せようとしていた。これが食生活における文明开化のはじまりである。


- 1原田信男「歴史のなかの米と肉」平凡社 1993年
- 2村田実「日本人と西洋食」春秋社 1984年
- 3小管桂子「水戸黄門の食卓」中公新書 1992年
- 4JA東京中央会「江戸?東京暮らしを支えた動物たち」農文協 1996年
- 5岡島成行「アメリカの環境保護運動」岩波新書 1990年

1932年 東京に生まれる。
1956年 早稲田大学卒業。
1961年 同大学院商学研究科博士課程修了。同年国立国会図書館に入り、調査立法考査局農林課長、海外事情課長を経て、専門調査員
1991年 退職。商学博士。現在、都市農村関係史研究所主宰。
主着『都市と农村の间ー都市近郊农业史论』(1983年 论创社)、『闻き书?东京の食事』(编着?1987年 农文协)、『巨大都市江戸が和食をつくった』(1988年 农文协)、『农のあるまちづくり』(编着?1989年学阳书房)、『东京に农地があってなぜ悪い』(共着?1991年 学阳书房)、『近代日本都市近郊农业史』(1991年 论创社)


