糖心原创vlog

江戸で完成をみた和食が、和风洋食?中华食へと変貌してゆく

研究機関誌「FOOD CULTURE No.8」异国食の受容と変容――新たな食文化の受け入れと普及

讲师:渡辺善次郎

异国食の受容と変容――新たな食文化の受け入れと普及

开国?文明开化と西洋食の流入

日本の食の歴史は外来食の受容と変容の歴史である。
それは、弥生时代の米食文化流入以来、唐风の大饗料理、鎌仓时代の精进料理、戦国末期の南蛮料理など、次々と异国の食文化を受容し、日本的な风土と味覚にあわせてたくみに変容させつつ、まるではじめからあったかのようにきわめて自然な形で、自分たちの食体系の中に组み入れてきた歴史である。
そうして江戸时代に完成した食がいわゆる「和食」である。その和食にさらに大きな要素が加わることになる。开国?文明开化にともなう西洋食文化の流入である。
食だけでなく、社会も文物も大きく変った。一度変化しはじめると日本社会の変わり方は速く激しい。

明治初年の俗謡は「半髪头ヲタタイテミレバ因循姑息ノ音ガスル。惣髪头ヲタタイテミレバ王政復古ノ音ガスル。ジャンギリ头ヲタタイテミレバ文明开化ノ音ガスル。」とうたった。
チョンマゲのような奇异な姿は外国には见られないと、散髪脱刀令が出されたのは明治4年、その顷にはすでに赤白青の左巻き看板を出した理髪店がいくつも开店していたという。天皇も早速散髪となり、明治8年には东京市内の散髪者は25%、10年には60%、20年顷にはもはやチョンマゲは见られなくなった。
まちには马车や人力车が走り、明治5年には鉄道も开业。7年にはガス灯もともった。世の中は急激に変わりつつあった。食生活の変化もそうした状况の中で进行したのである。これまでの食とはまったく异なる西洋の食文化がどのように受容され、変容をとげてきたのか、以下その歴史过程をたどってみよう。

歌川芳虎画 明治3年顷の东京日本桥风景(浅井コレクション所蔵)

パン?牛肉?牛乳

(1)パン

明治のはじめに流行った『开化尻取り唄』は「パンに牛肉、牛の乳」と歌っている。まだ见たこともないパンについて、18世纪末の大槻磐水『兰説弁惑』はこう记している。「オランダ人は常食にパンというものを食べる由。何をもって作るものか。これは小麦の粉に甘酒を入れ、练りあわせて蒸焼きにしたもので、朝夕の食はこれである。」
パンはポルトガル语で戦国末期にキリスト教の宣教师がもたらした。日本のパン食の元祖は织田信长だといわれている。はじめパンは「馅なし馒头」、「蒸饼」などと呼ばれていた。
幕末开港后、横浜では外国人相手のパン屋が出现していたが、东京では明治元年の风月堂が最初である。その年风月堂は会津戦争のため萨摩藩の军用パンを製造した。明治8年顷からはビスケット等の洋菓子を作り、日本における洋菓子の创始者となった。明治2年には芝に木村屋、下谷に文明轩、3年には精养轩のパン部と鉄砲洲の蔦本が开业した。
当时はまだ培养イースト菌を用いる近代的なパンづくりは行われておらず、もっぱら职人の勘と技术で、ホップ等でパン生地の発酵をうながしていた。原料は舶来粉をわざわざ横浜まで买出しに行った。「メリケン粉」の名はここから始まったという。
明治7年「和魂洋才の精华」といわれた木村屋のアンパンが爆発的ブームを呼んだが、こうした菓子パン以外にはパン食はなかなか普及しなかった。パンが売れたのは主に军队か学校ぐらいだったが、それでも东京のパン屋は明治15年には116轩に达した。当时パンの値段は半斤で2銭5厘、ソバ屋の「もり」、「かけ」は1銭だった。正冈子规に「パン売の太鼓も鸣らず日の永き」という句がある。その顷のパン売はシルクハットに燕尾服で太鼓を鸣らして売って歩いた。
漱石『吾辈は猫である』の苦沙弥先生の家では毎朝パンを食べるが、そのパンは砂糖をつけて食べていた。ジャムが普及し始めるのは日露戦争顷からで、主にイチゴジャムであった。
明治23年には米価が高腾し、代用食としての「つけ焼パン」の露店が大繁昌した。これは下等な小麦粉の食パンに醤油、味噌、きな粉、蜜などをつけて焼いたもので、一切れ5厘の安さで飞ぶように売れた。だが米価が下るとたちまち売れ行きは半减し、代って一膳饭や牛饭屋が激増した。パンはまだ米饭の代用食でしかなかった。
パンの需要が急激に増えたのは第一次世界大戦后で、昭和初年までの间に小麦粉の消费は30倍にもなった。昭和3年东京朝日新闻はこんな记事を载せている。
「製粉技术の进歩につれ、パンはだんだん色白になった。栄养分が取られて行くのは一向御存じない。近顷欧米では明治初年に日本が麩の混った粉で致し方なく造った黒パンが流行している。白パンは栄养価値がゼロだというのだ。何でも欧米かぶれして新しがる日本人はどうするのか。とにかくパンは自力では普及せず、戦争とか米価暴腾などの不可抗力によって伸びてゆく。哀れなものよ。」

明治中期のパン屋の仮装

(2)牛肉

牛肉は文明开化の象徴であった。「牛锅食わねば开けぬ奴」(『安愚楽锅』明治4年)。牛锅を食べるか食べないかが开化人と旧时代人の分れ道とされた。
とにかく1200年もの间、家畜肉食の禁忌を続けてきた人々にとって、牛肉を食べることには大きな抵抗があった。江戸ではじめて牛肉屋を开いたのは中川嘉兵卫の中川屋である。彼は幕末から高轮で牛肉屋を始め、毎日横浜から牛肉を买ってきて江戸の各国公使馆に売り込んでいた。彼はなんとか江戸に屠牛场を设けたいと思ったがどこも土地を贷してくれる者がいなかった。渐く亲类の芝白金村の名主に頼んで畑を借り屠牛をしたが、たちまち村が秽れると村人たちが騒ぎだし、やむなく村はずれの芦原に移転した。
石井研堂『明治事物起原』はその顷の様子を次のように记している。
「当时、牛を屠るのは大変な騒ぎにて、秽れぬやうにと青竹を四本立て、御币を结び、注连を张り、その中へ牛を繋ぎ掛矢にて一つゴツンと扑杀せるものなり。今日の如く骨の间の肉まで削り取る如き器用のことなく、ホンの上肉だけを取り残余はみな土中深く埋め、お経を上げるという始末なりし。」
屠牛场はどうにかできても、わずかな外国人以外に牛肉の买手はほとんどなかった。せいぜい牛肉奨励者福沢諭吉の庆応义塾の学生たちが买う程度であった。中川屋は牛肉が腐らないうちに片端から切りきざんで佃煮を作り、竹の皮に包んで塾に売りに行った。だが塾に入る时には门番が切り火をし、贿所にも入れず、窓から牛肉を渡し代金を受取っていた。
そのうち中川屋は牛肉を売るだけではなく、芝の海岸にやっと1轩の贷家を见つけて牛锅屋を开业したが客は少なかった。牛锅が流行り出したのは明治5年以降のことである。
その年『新闻雑誌』は明治天皇の肉食解禁を次のように报じた。
「我朝にしては中古以来肉食を禁ぜられしに、恐れ多くも天皇谓れなき仪に思召し、自今肉食を游ばさるる旨宫にて御定めありたり。」
禁忌が取り払われると肉食も広がりをみせた。明治初年、东京の屠牛头数は1日1.5头にすぎなかったが、5年には20头に増加している。20头分の牛肉は、1人当り100グラムずつ食べるとすれば约1万5千人分になる。
冷蔵技术のなかった当时生肉を远くから运ぶことはできず、生体のまま运んで消费地で屠杀した。牛は远距离の歩行に耐える。东京でもっとも评価の高かったのは神戸牛だったが、津軽、会津、出云、信州、伊豆等からも牛が运ばれてきた。
それに対して豚は长距离を歩けないので消费地近くで饲养しなければならなかった。东京でも市内各所で养豚が行われ屠杀されていたらしく、明治5年には人家稠密地域での牛豚饲养禁止令が出されている。
豚の饲料には主に残饭类と豆腐、醤油、馅などの搾滓、甘藷の切屑などが用いられた。豚肉の消费も徐々に増加したが、日本の食肉の中心は牛肉で、豚肉の消费が牛肉を上まわるようになったのは戦后1960年以降である。明治初年の顷は肉といえばほとんど牛肉であった。

牛锅をつっつくザンギリ头の客(『牛店雑谈安愚楽锅』)

(3)牛乳

牛肉は和牛でも良かったが牛乳は乳牛を输入しなければならなかった。开港后、横浜の外国人の间では入港した外国船から乳牛を买取り、自家で搾乳していた。日本人もそこで搾乳法を学び自分で搾乳业を始める者が出てきた。
はじめは士族が多かったが、大官贵顕の间からも文明开化の新事业として搾乳业に乗り出す者が続出した。榎本武扬、大岛圭介が神田、松方正义が叁田、山県有朋が麹町、由利公正が京桥でそれぞれ搾乳业を始めた。都心部はまるで牧场だらけになったが、それでも牛乳を饮む者は少なかった。
明治4年には天皇が毎日牛乳を饮むことを报じたり、初代军医総监になった松本顺が人気の女形俳优沢村田之助に吉原で牛乳を饮ませたりして大いに牛乳の普及を図っていた。
しかし、牛乳はなかなか売れず、わずか1合の牛乳を売るために6、7里も配达した。配达は牛乳鑵に漏斗と杓子を持参し、客の容器に注ぎ入れた。计り売りである。値段は明治初年で1合5銭前后であった。
搾乳业者が困ったのは种牛がいなかったことで、町を通る荷车の牡牛を頼んで种付けをしたりした。そのうち警视庁から搾乳に牡牛は不要だから牡牛を饲ってはならないという命令まで出された。惊いた业者たちが悬命に説明して、乳牛は交尾、分娩によってはじめて乳を出すものだということをやっと理解させたという。
この事件をきっかけに、明治8年、「东京牛乳搾り取り组合」が结成されたが、组合员は20名であった。明治11年には46名に増加、搾乳量も1日约20石から2000石に増大している。府民1人当り年间消费量も明治15年の2.75合から19年の4.16合と少しずつではあるが増えていった。しかし増えたといっても年间わずか4合にすぎず、牛乳はまだごく一部の人々の间でのみ饮まれていた。主な消费者はインテリ层や病人と母乳を饮めない乳幼児などであった。
正冈子规は牛乳が好きで明治34年の『仰卧漫録』の中で「この顷は一日の牛乳叁合必ずココアを交ぜる」と记している。

东京?麹町の阪川当晴経営の牛乳搾取所 (『东京商工博覧会』明治18年5月)
明治10年顷の牛乳の小売风景(『大日本牛乳史』)

西洋料理

长崎のグラバー邸に「西洋料理発祥の碑」という石碑があり、次のように刻まれている。
「わが国西洋料理の歴史は、16世纪中顷ポルトガル船の来航に始まり、西洋料理の味と技は锁国时代唯一の开港地长崎のオランダ屋敷からもたらされた。1800年代にいたり、横浜、神戸、函馆などが开港され、次第に普及し、更に东京を中心に国内に大きく轮を広げ、日本人の食生活に融和され现在の隆盛となった。ここに西洋料理わが国発祥を记念してこの碑を建てる。」
长崎では幕末から西洋料理屋が现われているが、东京では明治3年の筑地精养轩ホテルが最初である。5年には叁河屋と木挽町精养轩、9年には上野精养轩、10年には米津风月堂、15年には日本桥滋养亭が开业する。滋养亭では普通1人前40銭から90銭もしていた西洋料理を、とくに「格安洋食」と铭うって35銭で提供し人気を博した。巡査の初任给が月俸6円、もりそばや銭汤が1銭ぐらいの时代である。
16年には鹿鸣馆が完成、西洋料理による豪华なパーティが开かれるようになった。そうした料理は1人前20円もしたという。18年秋に山県有朋が主催した午餐会のメニューは次のような本格的西洋料理であった。

【前菜】生蛎、レモン添え
【スープ】スッポンのスープ、玉子入り
【鱼】鯛のグラタン、シャンピニオン入り
【鸟】ホアグラのゼリー寄せ
【肉】羊肉のハンバーグステーキ牛ロース肉蒸焼、レホール添
【鸟】七面鸟蒸焼、野菜添
【蔬菜】カリフラワーのクリーム和え
【デザート】牛乳油製蒸菓子コーヒー入りアイスクリーム

しかしこうした西洋料理は味覚的にも経済的にも一般庶民には无縁で、一部の上流人种や知识阶级が背伸びして食べるものであった。
20年代初めに大流行した川上音次郎の「オッペケペー节」は次のように歌った。
「何にも知らずに知った颜、むやみに西洋鼻にかけ、日本酒なんぞ饮まれない、ビールにブランディ、ベルモット、腹にも驯れない洋食を、やたらに食うのも负けおしみ、内绪で便所でへど吐いて、まじめな颜してコーヒー饮む、おかしいね、オッペケペッポー、ペッポーポー」
明治39年东京の西洋料理店は36轩になったが多くは神田、日本桥、京桥といった新都心に集中しており、庶民のまち浅草をはじめ下町や郡部にはほとんどなかった。

和风洋食

文明开化とともにいろいろな西洋料理が伝えられたが、味覚も素材も调理法も违う异国の食文化をそのままの形で受容することは难しかった。文明开化のシンボルとされた肉食も、锅、刺身、塩焼、佃煮など味噌、醤油を用いた伝统的な日本の调理法により洋风の素材をとり入れたものである。牛锅はスキ焼として日本の代表的料理となった。牛めしは深川めしと同様贝を肉に代えた汁かけめしである。
野菜にしても、キャベツ、たまねぎ、じゃがいも、トマトなどの新しい西洋野菜が栽培され、一般に出廻るようになるのは明治も后期以降である。食素材ばかりでなく天火やフライパンなどの调理器具もなかった。フライパンはフランスからきた鉄板の意味で「仏来板」と当字された。こうしたなかで西洋料理をつくろうとすればどうしても日本の条件にあわせた変形を加えざるをえなかった。
明治初年のコックたちの服装は腹がけ、股引で、股引に包丁をさす袋がついていたという。そんないでたちで彼等は西洋食を何とか和風化しようとさまざまな工夫をこらした。ジャガイモの糠味噌漬、牛肉のかまぼこ、茶わん蒸し、牛乳入り味噌汁、刺身にマヨネーズといった奇食珍食が次々と現われ、消えていくなかから、ライスカレー、トンカツ、コロッケ、オムライス、ハヤシライスなど、今日に伝わる和风洋食がつくり出されてきた。とくにライスカレー、トンカツ、コロッケの人気は高く、「三大洋食」と呼ばれた。

(1)ライスカレー

ライスカレーは明治5年、はじめて西洋料理を绍介した仮名垣鲁文の『西洋料理通』にその製法が记されている。それによるとそれはカレー粉を用いる一种の肉料理で、皿の真中にカレーを入れ、そのまわりを轮のように米饭で囲むことになっている。
明治10年顷からフランス料理を始めた风月堂のメニューにはカツレツ、オムレツ、ビフテキと并んでライスカレーもあり、どれも8銭均一であった。
ライスカレーの付けあわせとして欠かせない福神渍が登场したのは明治19年。考案者は上野池の端の「酒悦」主人野田清左ヱ门で、なす、大根、かぶなど7种の材料を醤油と味醂で渍けたものを七福神にちなんで「福神渍」と名づけた。これはたちまち人気を呼び、新しい东京名物としてもてはやされた。
かけそばが1銭足らずだった时代に8銭もしたライスカレーはまだ高级な西洋料理であった。それが大众的料理になるのは即席カレーが普及してからである。明治39年、神田の一贯堂が固形の「カレーのたね」を発売した。これは热汤でとけばすぐ食べられるようにカレー粉と肉を调合、乾燥させたものである。大正3年には日本桥の冈本商店が「ロンドン土产即席カレー」を売り出し、『妇人之友』が全国に取次贩売を行った。
即席カレーの出现によってライスカレーづくりはきわめて简単になり急速に普及しはじめた。とりわけ関东大震灾の时には东京中の焼跡にライスカレー屋が続出した。大正15年、东京の公设食堂の人気ナンバーワンはライスカレーであった。値段も10銭前后で、かけそばの値段と同じになっている。
ライスカレーのなかみも変ってきた。はじめの顷はカツオのだし汁に醤油を加え、カレーの辛味も少ないみそ汁のようなものだったらしいが、大众料理として普及しはじめた顷には、ジャガイモ、ニンジン、タマネギ入りのとろりとした今日のカレーになっていた。ジャガイモやタマネギも普通の野菜として定着しはじめていたのである。
ライスカレーは米饭によく合い、しかもスプーンだけで気軽に食べられる洋食で、その香りも汉方のウコン、丁字と同じでそれほど违和感はなかった。
こうした和风洋食としてのライスカレーに対して、インド式の本格的なカレーライスをはじめたのは新宿中村屋である。娘婿になったインド独立運動家ラス?ビハリ?ボースが安ものの下等料理となっている日本のライスカレーに歎き、インド貴族の本物のカレーを提供したいと言ったのである。
本物の美味を出すには最上の米と鶏が必要であった。米は埼玉の白目米を契约栽培で入手、1等米の2割高で买ったという。优秀な鶏肉も见つからないので山梨県に直営の饲育场を设けて饲育。カレーもインドから直输入した高级品を使用。こうしてつくった「高级カリー?ライス」は値段も高く、普通のライスカレーの8倍、80銭もした。

客船内の一等食堂の风景。食卓の料理はいずれも洋食である(『风俗画报増刊号』より「乗客案内邮船図会」―明治34年―)
新宿中村屋の长女?相马俊子さんと结婚したころのボース氏

(2)トンカツ

最初西洋料理として伝えられたカツレツは少量の油をひいて焼きあげるものであったが、日本に定着したカツレツは天ぷらのように大量の油の中で扬げたものである。
それを考え出したのは银座の洋食店炼瓦亭で、明治32年のことといわれる。前日に残った食パンをおろし金でおろしたパン粉を豚肉にまぶして扬げてみたのがあたった。またカツにキャベツのせん切りを添えたのもこの店である。はじめは温野菜を添えていたが、日露戦争で职人が兵队にとられ人手不足になり、手间のかからない生キャベツを使って成功した。キャベツも渐く出廻った时期である。またパンよりご饭が欲しいという客の要望に答えて、平皿にライスを盛って出すようにしたのもここである。ナイフとフォークでご饭茶碗では具合いが悪かった。
当时は「ポークカツレツ」と呼ばれており、「トンカツ」と言われるようになったは昭和初头である。その起源については诸説があるが、一説では昭和4年に宫内省大膳职を退职した岛田信二郎が上野に「ぽんち轩」という洋食店を开き、厚い豚肉を油で扬げたカツレツを「トンカツ」と书いて売り出したのが最初という。トンカツはたちまち流行し、独立のトンカツ専门店が次々と出现した。
それまでのポークカツレツはナイフとフォークで食べたが、トンカツは最初から适当に切ってあり、箸で食べられる気軽な洋食であった。その顷になると养豚业も発达し、豚肉の供给も次第に増加してきていた。

(3)コロッケ

原型はフランス料理の「クロケット」である。日清戦争顷の妇人雑誌にはその製法がよく绍介されている。

「仏栏西コロッケ=芝海老(くるま海老にてもよし)を塩ゆでし、皮を剥き、赛の目に切り、别にバターを锅にて溶かし、これに小麦粉と牛乳を少しづつ入れつつ撹きまわし、丸められる位の软かさになりたるとき、前の海老をバターに炒りて、これに混和し、その冷めたるを待ち、楕円を细めたる形に、およそ二寸位に固め、これにパン粉をつけ、その上に鶏卵を涂り、またパン粉をつけて、牛の脂にて扬ぐるなり」
(『女鑑』明治28年12月5日号)

ほかの绍介ではマッシュポテトや挽肉を入れている。
しかし当时はまだ挽肉器がなく、肉を包丁でたたいて细かくしていた。挽肉器が入り、メンチボールなどが売り出されるようになったのは明治40年である。この年にはパン粉のメーカーも生まれた。それまでは、いちいちパンくずを砕いてパン粉をつくっていた。

有名な「コロッケの唄」は大正7年顷に大流行した。
「ワイフ貰って嬉しかったが、いつも出てくるおかずはコロッケ。今日もコロッケ、明日もコロッケ、これじゃ年がら年中コロッケ、アッハッハ、アッハッハ、こりゃおかしい」

作者は叁井财阀の総师益田男爵の长男益田太郎冠者。大富豪の益田家ではコロッケなぞもっとも简単な洋食だと思っていたろうが、一般家庭では本格的なコロッケはまだ手间のかかる高级料理の段阶であった。
肉屋が売物にならない屑肉と余って困る脂肪を利用して、ほとんどジャガイモだらけの「イモコロッケ」を売り出したのはその后のことである。アメリカから「アイリッシュ?コブラー」というジャガイモの优良品种が输入され、「男爵いも」として普及しはじめたのは明治40年顷からで、これによってそれまで病害虫のため不安定だったジャガイモ生产が飞跃的に発展し、ジャガイモはもっとも安い洋食の素材としてさかんに利用されるようになった。イモコロッケはまさにその典型で、もっとも安い洋食として庶民の间に急速に普及していった。
大正11年に东京歩兵连队で行なった调査によると、兵队の好きな献立の顺位は、フライ、カツレツ、コロッケ、焼肉、焼鱼、オムレツの顺である。
トップの「フライ」は鱼のフライで、それと米饭をあわせたものが「合の子弁当」と呼ばれ大正中顷から神田学生街の食堂で売り出された。それは「ライト?ランチ」またはただ「ランチ」とも呼ばれて大众食堂の人気メニューとなっていた。
これらはあくまで伝统的な米饭中心の食体系のなかに、一品ずつ和风に変容されてとり入れられたのである。
かつて南蛮渡来の料理から代表的な日本料理としての天ぷらが成立したように、文明开化によって流入した西洋料理は、「洋食」という日本独特の新しい料理を生み出した。

台所革命

明治末から大正、昭和初头にかけて、食生活に大きな変化をもたらしたものは台所の革命的な変貌である。
その第一は电気、水道、ガスの普及である。东京における电灯使用は明治19年、近代的上水道は31年、燃料ガス利用は35年から始められた。
エジソンが白热灯を発明したのは明治12年、ニューヨークとロンドンで白热球がともったのは15年、それからわずか4年后には东京で白热电灯が辉き出している。だが一般家庭への普及は明治の末顷からで、それもせいぜい5ワット位の电灯だったらしい。それでも台所は格段に明るくなった。电灯はまだ高価だった。明治40年代でも银座通りの181轩のうち店头に电灯をつけたもの42轩、ガス灯28轩、両者併用108轩といった状况であった。
各家に直结した水道は水汲みの重労働をなくし、台所の水桶も不要にした。一戸で1栓使用すると5人家族で年间5円、一人増すごとに50銭追加された。小学校の先生や巡査の初任给が月给10円程度の时代である。ガスも次第に炊事用に使われ出した。当初ガスコンロなどは输入品だったが、35年は国产のガス炊饭ガマが登场、暖房、汤沸器、アイロンなどのガス器具も売り出されるようになった。42年夏の『漱石日记』には「台所へ瓦斯を引く。口叁つ」と记されている。
第二の変化は台所が従来の床に座って働く様式から立働式に変わったことである。
これは「台所改良运动」として明治中顷から提唱されていたが、広く一般家庭にとり入れられるようになるのは主に関东大震灾后の「文化住宅」の时代からで、昭和に入る顷には大势を占めるようになった。流し台も土间から床の上にあがり、台所が1つの部屋として家の中に组み入れられたのである。
第叁の変化は冷蔵库の出现である。大正8年、家庭型第1号として帝国冷蔵株式会社から氷冷蔵库が発売された。値段は39円。氷は会社から配达された。公务员の初任给は月给70円であった。こんな高価な氷冷蔵库は一般にはまだ高岭の花で昭和になってもまだ珍しかった。
冷蔵库は一般家庭よりむしろ业界の福音となった。まず鱼屋である。それまでは鱼の鲜度を保つため、夏などは夜中でも1、2时间おきに起きて井戸水を汲み鱼桶の水を替えていた。生肉の保存に苦労していた洋食店も助かった。それまでは生肉を井戸の中に吊したり、店で生きた鶏を饲っていたのである。
またこの顷からガラスコップ、アルミ锅、フォークなど新しい食器や调理器具も次々と现われてきたが、家庭の食事风俗を変えたのは割烹着とチャブ台の出现である。割烹着は明治35年、东京の赤堀峯吉の料理学校で考案された。学校にくる良家の子女たちの衣服を汚さないように考えられた料理着で、たすきと前垂れが下女の仕事着であったのに対し、これは「奥様」の作业着として普及した。
铭々膳に代ってチャブ台が出てきたのは30年代末で、上、中流、インテリ阶级の家庭からじょじょに普及しはじめ、昭和に入る顷にはすっかり一般化した。一つのチャブ台を囲んで家族一同が一绪に食事をとる方式は、配膳式の家父长制的な食事様式を一変させた。

明治时代まで続いた正座式流しの台所风景(石井泰次郎『四季料理』国会図书馆所蔵)

震灾后の文化住宅に立ち流しが普及するようになった(『アサヒグラフ』―昭和4年8月7日号―)

食品产业の発展

明治の后期から大正にかけて、製糖、製粉をはじめ、カン詰、调味料、畜产加工、饮料、菓子など、さまざまな食品产业が発展し、日本の食生活に次々と新しい食素材を提供した。カン詰产业は明治初头から始められ、イワシ、サケ、カニ、マグロ、パイナップル、ミカンなど、国内だけでなく広く国际市场でも好评を得る製品を生み出すようになった。
食用油では従来の菜种油から大豆油、ゴマ油に主流が変わり、调味料もウスター?ソース、トマトケチャップ、マヨネーズなどが登场、味の素も出现した。ジャムやマーマレードなどの果実加工も始まり、畜产加工では、ハム、ソーセージ、ベーコンからバター、チーズ、マーガリン、ヨーグルト、ドライミルクなどの乳製品が国产化されるようになった。牛乳も次第に普及し、各家々への牛乳配达が都市の朝の风景になじんできた。
饮料でもレモネードを変容させたラムネをはじめサイダー、カルピスなど和洋折衷的な饮みものが次々と登场、コーヒー、ココア、红茶も一般化した。ビールも大正时代には、キリン、アサヒ、サッポロ、ヱビス、ミュンヘン、カブト、サクラ、フジなどがさかんに広告合戦を展开した。
大正2年の森永ミルクキャラメルや11年の江崎グリコのグリコキャラメル発売を中心にして、ドロップ、チョコレート、チューインガム、ビスケット、シュークリームなど各种の洋菓子类も出揃い、ホットケーキも「ハットケーキ」の呼び名で登场した。
当时流行った和菓子の鯛焼きは関西の银ツバから生れたもので、明治42年に大阪から上京した神戸清次郎が考案した。麻布の浪花家総本店の元祖である。
こうした食品产业の中でも、とくに日本の洋食に欠くことのできない调味料となったソースも、さまざまな试行错误の末に完成し、広く普及するようになっていった。
明治18年にはヤマサ醤油が「ミカドソース」を売り出したが不振で、わずか1年で製造を中止してしまった。その后大阪で「叁ツ矢ソース」、「锚印ソース」、「白玉ソース」などが「洋式醤油」として売り出されたがなかなか普及しなかった。
明治31年に开かれた全国醤油大会では、日本の醤油を原料にしてウスターソースのようなものを製造することが话题となり、渐く40年代に入って醤油をベースにした日本的なソースが出来上ってきた。
その后、肉屋がコロッケやカツを売るようになると、サービスとしてソースを提供したという。ソースはたちまち普及し、洋食店にはソースの香が満ちみちた。それはまさに新しい「西洋の匂」であった。

チャブ台での食事は一家団欒のひと時となった(撮影:石川光陽 森田歴史写真資料室蔵)

和?洋?华混合食の成立

大正八年、日本の工业生产额は初めて农业生产额を超え、日本は农业国から工业国に変った。そうした产业构造の転换とともに都市への人口集中もすすみ、东京も郊外へ大きく拡大した。大正末には郊外から都心にむかうサラリーマンや学生たちによって、はやくもラッシュアワーが出现した。
それまであまり普及しなかった中华料理も大震灾后にはその安価と美味が庶民にうけて大いに流行した。支那そばが现われたのは大正12年、ワンタンは15年といわれる。
都市圏の拡大や职住分离は外食の机会を増やした。饮食店の数も増え、店の大众化もすすんだ。市中には大众食堂、简易食堂などが出现、高级のイメージが强かった百货店の食堂も入りやすく改造された。それらの食堂では和食ばかりでなく、洋食も中华も食べられるようになっていた。多くの庶民はそこではじめて新しい异国の食を试食することが出来たのである。
新しい食素材も调理器具も次第に整い、実物を食べてみて、それまで学校で习ったり、活字で见たりしていただけの洋食、华食がはじめて身近なものになった。
こうして西洋料理も中华料理も次第に普及してきたが、それは料理の体系として受容されたのではなく、1品ごとの料理として米饭の副食に适したものだけがとり入れられたのである。
江戸时代に出来上った和食の基础の上に、新しい西洋、中华の料理が和风化されつつ组みこまれて日本の食卓は格段に多彩化した。こうして世界に类のない和?洋?华混合の多様な食が新しい日本の食として成立してきた。大正末から昭和のはじめにかけての时代である。

参考文献
  1. 1『近代日本食物史』(昭和女子大学食物学研究室近代文化研究所1971年)
  2. 2『週刊朝日百科?世界の食べもの?日本编39近代の食事』(朝日新闻社1983年)
  3. 3『にっぽん洋食物语大全』(小菅桂子讲谈社1994年)
  4. 4『明治の东京一○○话』(日本风俗史学会つくばね舎1996年)
  5. 5『明治ハイカラ文明史』(横田顺弥讲谈社1997年)

渡辺善次郎(わたなべ ぜんじろう)
1932年 東京に生まれる。1956年早稲田大学卒業
1961年 同大学院商学研究科博士課程修了。同年国立国会図書館に入り、調査立法考査局農林課長、海外事情課長を経て、専門調査員
1991年 退職。商学博士。現在、都市農村関係史研究所主宰。
主著『都市と農村の間ー都市近郊農業史論』(1983年 論創社)、『聞き書?東京の食事』(編著?1987年 農文協)、『巨大都市江戸が和食をつくった』(1988年 農文協)、『農のあるまちづくり』(編著?1989年 学陽書房)、『東京に農地があってなぜ悪い』(共著?1991年 学陽書房)、『近代日本都市近郊農業史』(1991年 論創社)