糖心原创vlog

研究機関誌「FOOD CULTURE No.6」お醤油の来た道をさぐる???【後編】

执笔:嵐山光叁郎

お醤油は果してどこから来たか?そのルーツを求めて中国からタイの奥地へ

前编のあらすじ

いまや世界の调味料となった醤油。いったい、いつ、どこで生まれて日本へ伝わってきたのか。醤油のルーツを探る旅は中国から始まった。
上海を出発点に杭州、径山寺(きんざんじ)へと足を运ぶなかで、沢山の种类の「醤(ひしお)」(発酵调味料)が古くから広く使われていたことや、中国料理にとって醤油は色や味、香りを引き立てる调味料として欠かせぬものであることを知った。さらに云南省の最南端?西双版纳(シーサンパンナ)で、大豆を使った「幻の手づくり醤油」を発见。长い时间をかけた神秘的な手法に感激する。
次に访ねたのが韩国。ここでも、煮あがった大豆を乾燥、熟成させた「味噌玉」(メジュ)を原料に、醤油(カンジャン)と味噌(テンジャン)を造っていた。これは中国の云南で発见した手づくり醤油とそっくり。中国大陆から朝鲜半岛を経て、日本へと伝えられた「醤油の来た道」が现実のものに思えてきた。

ニョクマムがなければ生きていけない

1月の末に温暖なホーチミン市に着いた。ホーチミン市はアジア一露店の多い都市ともいえる。
露店ではあらゆるものを売っている。その半分以上は食べものの店だ。そして、よく见かけるのが「ファーの店」である。「ファー」とは米の粉でつくったソーメンのような麺のことで、日本流にいえば「うどん屋」だ。牛肉を入れたものが「ファーバク」で、チキンを入れると「ファーガー」、豚肉は「ファーヘオ」、エビを入れると「ファートム」と色々种类がある。香りの强い香菜をのせて热い汁をかけてくれるのだが、ホーチミン市の人たちは老いも若きも、実にこれをおいしそうに食べている。
牛の颜のマークをつけた牛肉うどん屋、「ファーバク」の屋台に入ってみた。麺をすすってみると腰はあるがそれほど固くはなく、するするとのどを通っていく。量もそれほど多くはないので、朝食や夜食にいいようだ。热い汁をすすってみる。醤油味のようだが、かすかに鱼の香りがする。これは「ニョクマム」(鱼醤)。ベトナムの国民的调味料の味だ。
ニョクマムは鱼醤油で、ベトナムの人たちはこれがなければ夜も日もあけない。スズメの焼鸟にタレをつけて、フランスパンにはさんだベトナム流のサンドイッチにもこのニョクマムをつける。名物の春巻料理や肉料理、锅ものや海鲜料理にも、味付けやタレとして必ずニョクマムを使う。色は日本の醤油よりもうすく、淡い茶褐色をしていて臭いをかぐとプーンと鱼の香りがする。ぐらりとくる味だが、一度これを使いだすと、えもいわれぬ味わいがあり、たちまちのうちに虏(とりこ)となってしまう。ニョクマムは万能调味料であり、ベトナムもまた、まぎれもない醤油文化圏だった。
ホーチミンのような都会では、朝は皆、屋台で外食をする习惯がある。出勤前の20歳前后の娘さんが朝食を食べていた。大皿に山盛りのコメ。オカズは野菜を炒めたものが少々と塩辛のようなもの。ニョクマムの小皿が置いてある。野菜炒めにもニョクマムをたっぷりとつけ、まるでコメにしみこませるようにして食べている。娘さんは、あっという间に大皿のコメを平げ、元気に出勤して行った。
これほどコメを食べても、ベトナムの女性はスリムな身体つきをした人が多い。そのスリムなラインにあざやかなアオザイがピタリと合うのだ。「ベトナム人は、食べものが不足しているから体型が细く小さい」物知り颜の旅行者が呟いていた。とんでもない。それほど赘沢な食事はしていないが、ベトナムの娘さんたちは、伝统的な民族衣裳アオザイを着こなせるように大変な努力をしているのだ。心ある母亲は、自分の分はけずっても、娘さんには肉や鱼など、栄养価の高い食べものを充分に食べさせる。それこそ、ニョクマムでしっかり味付けをし、工夫をした食事をとらせている。母亲の心づくしとニョクマムの味が娘さんたちの身体にしみ込んでいく。こうして、むだな肥満の芽を断ち、育ち盛りの娘の身体をしっかりとつくっていく。夸り高いベトナムの娘さんたちには、「アオザイも着られぬ、不恰好な体付き」は相手にされない。こうして一度、スリムなラインをつくってしまえば、容易に崩れることはないのだそうだ。
夕食に入った国営レストランで、アオザイのとても良く似合う、若い娘さんたちのグループに聞いてみた。「ニョクマムは、あなたたちにとってどんなものですか?」 娘さんたちの顔に、パッと笑顔が咲いた。ニョクマムの話をするのがとても嬉しいのだろうか。「なくてはならないもの」、「なつかしい味」、「お母さんの味」、「ニョクマムがないと生きてはいけない」様々な答が返ってきた。
なるほど、ニョクマムは、ベトナムの人たちにとって、これがないと生きてはいけないもののようだ。
ニョクマムとは、果たしてどのようにしてつくるのだろうか。国道1号线を北へ、渔港としても名高い海岸の町、クイニョンの「ニョクマム工场」を访ねてみた。

西双版纳と周辺の略図
ベトナム?クイニョンへ向かう穀仓地帯。メコン?デルタの恵は圧倒的だ。
ベトナム?クイニョン近くの渔港。人々は水と亲しんで暮らしている。

自然の恵み、鱼醤

クイニョンはギアビン省の省都で、中部海岸地帯にある。长くのびた白砂の海岸线はたとえようもなく美しい。
ベトナムの中部海岸地帯は、絶好の渔场でもある。アジやイワシやサバなどの他に、日本人の好きなエビやカニやイカなどが豊富に获れて、日本にも输出をしているという。そしてこの海の幸こそ、国民的调味料ニョクマムの原料となっている。
クイニョンの町外れにあるニョクマム工场を访ねてみた。ニョクマムは小鱼を塩渍けしてつくる。塩辛のようにして上澄み液を漉して使うのだ。微生物が小鱼のタンパク质を分解し独特の旨味をひき出す。100日渍ければ出来上るが、上等な透明のニョクマムをつくるには1年间は発酵?熟成させる必要がある。塩の量は小鱼の30パーセントぐらいを加えている。かなり浓い。工场长のグエンさんが身振り手振りを混えて渍け方を教えてくれた。まず、木桶の底に小さな石を并べそこに小鱼を入れる。その上から塩をかけてまた小鱼を并べる。こうして小鱼と塩を何层にも重ねて木桶をいっぱいにするのだ。
原料となる小鱼はどんなものを使っているのかと讯くと、「小アジ、イワシ、小サバなど、小さな鱼でいい。大きな鱼は家で食べて、残った小鱼でいいんですよ。」见事な生活の知恵である。自然の恵みとして得た海の幸を余すところなく见事に利用しているのだ。かつては、こうして海の幸を利用して各家庭でも自家製のニョクマムをつくっていたが、今はほとんど工场で製造したものを使っているという。
ベトナムでは、「米と鱼は亲子の関係」という言叶がある。海や川で获れた鱼をオカズにしてご饭を食べる主食?副食の関係をいっているのだが、鱼はただ煮たり焼いたりして食べるだけではない。鱼醤として食べることが重要なのだ。鱼醤とは、いわゆる塩辛のようなもので、ホーチミン市の市场にも様々な种类の鱼醤が并んでいる。
日本ではよく知られているものといえば、せいぜいイカの塩辛ぐらいだが、ベトナムでは小エビや小鱼まで使って実に様々な鱼醤をつくっている。ベトナムの场合は、イカに塩を加えるだけで渍け込むようだ。乱雑だがストレートだ。ホーチミン市の市场で小エビの鱼醤をつまんでみた。おそろしく塩辛いが、ガーンとくるこの塩辛さが重要なのだ。こうしておけば保存もきくし、ほんの少しの量でご饭がいっぱい食べられる。
鱼醤は少ないオカズでも米を美味しく沢山食べるためにあるもので、これもまた见事な生活の知恵といえる。「米と鱼は亲子の関係」という言叶は、米と鱼醤があれば食事が出来るところからきている。そんな生活の知恵が鱼醤を一歩进め、鱼醤油「ニョクマム」を诞生させたのである。
中国の広东省?福建省の沿岸部は、今でも鱼醤や鱼露と呼ばれる鱼醤油を盛んにつくっている。その歴史も古い。「醤」の文化が中国を発祥の地とするなら、ベトナムの鱼醤や鱼醤油も中国からの移民たちが持ち込んだものではないだろうか。それを、ベトナムの人たちが国民的调味料ニョクマムへと洗练、同化させた。
日本の醤油の消费量は、年间1人あたりおよそ10リットルだが、ベトナム人のニョクマムの消费量は年间1人あたり12リットル。ベトナムの人たちが、いかにニョクマムを爱用しているかがわかる。

クイニョン近くの农村。ニッパヤシに包まれた风景は、まるで时间が止まったようにみえる。
台湾にも様々な种类の醤があった。大陆から伝えられたのだろうか。

台湾でみつけた肉醤の凄み!

台湾の人口はおよそ2300万人。第二次世界大戦以前から住んでいた本省人(本岛人)と、それ以后に中国大陆から渡って来た外省人に区别されるが、それ以外にも先住民がいた。日本统治时代には「高砂族」と呼ばれたインドネシア语系少数民族で、约30万人が住んでいる。もともとは山岳民族だった。
台湾には、岛中央の南北に3000メートル级の山々が连なる台湾中央山脉が走り、东侧には海岸山脉がある。「高砂族」たちは、こうした山岳地帯に住んでいた。汉民族が入ってきてから同化して平地に住むようになった种族もいるが、そのまま山岳地帯に住み続けた种族もいる。彼らは现在、「山地同胞」とか「山地人」と呼ばれ、独自の文化や言语を持って、今でも伝统的な生活を続けている。「醤の文化」も古い形のまま残っているはずである。彼らは主に中央の高地や东部海岸近くに住んでいる。海岸山脉が海辺まで迫る、东部海岸のほぼ中央に住む、「アミ族」の村を访ね、醤がどんな形で伝えられているのかを探ってみた。
花莲(ファーレン)からアミ族の村があるという豊滨(フェンピン)までは南へ60キロ、海岸线の道路を走るバスに乗って行った。豊滨の停留所に着くと、林福山さんというアミ族の男の人が迎えに出てくれていた。花莲の旅行社を通して案内を頼んでおいたのだ。
アミ族の村は、汉民族の住む町のはずれに続き、小高い丘のようなところにあった。アミ族もかつては山岳高地に住む狩猟民族だったが、今は东部海岸近くにまでおりて来て、农耕を主とする生活をしているところから、台湾の人には「平地山胞」と呼ばれている。
翌日、林さんに案内してもらって、アミ族の村々を歩いてみた。遥かな山の方で白い烟が上っていた。焼畑だ。近くまで行って见たいというと、林さんが车を用意してくれた。
中年の夫妇が2人で焼畑をしていた。焼畑にはトウモロコシや落花生を植えるのだという。懐かしそうに焼畑を见ながら林さんがポツリと呟いた。「焼畑が终ると、山に入って狩りをしたものです」。
アミ族も元々は、山岳高地の狩猟の民だ。平地に降りて来ても、山が粮を得る场であった。アミ族の狩猟には、罠をかけるのと犬を使った山狩りとがあった。罠を大きく分けると2つに区别できて、アミ语でミタカァルとミビャッカツという。ミタカァルは比较的大きな获物を捕るためのもので、猪や鹿、山羊などを捕りに、山のずっと奥の小屋に泊りがけで出かける。
ミビャッカツは山鸟などの小さな获物を捕るため村からそんなに远くないところや焼畑の周辺に罠をかける。山狩りはミアドップといい、アミ族の言叶でワッツォと呼ぶ犬を使う。山の中でワッツォに获物を追わせ、追いつめたらイドッツ(枪)を投げて捕るのだという。ワッツォは1人で5匹から6匹连れて行く。「これはとても危険な狩りです。猪をしとめそこなって、反対にくいちぎられた人もいます」。
获物はどのようにして食べていたのかと寻ねると、「肉はだいたいシラウと呼ぶ塩渍けにしたり、イリイリという干し肉にして保存していました」、と林さんは答えた。〝シラウと呼ぶ塩渍けにして保存する〞、これはもしかすると、「肉醤」ではないか。中国大陆に古くからあった「肉醤」がアミ族の村にも伝えられていたのだろうか。今もシラウを保存している人はいないか、と意気込んで寻ねると、林さんは、明日村の人に闻いてみると、また狩りの话に戻っていった。

台湾の海产物问屋。新鲜な鱼を使ってつくるスシやサシミは、今や台湾でもポピュラーな食べ物だ。

アミ族の〝肉醤〞

林さんは、朝、宿に迎えに来た时に、「今日のお昼に、オモシロイものをお见せします」と、言った。
昼食の时间になると、林さんは自分の家へと诱ってくれた。见惯れたスラブ家の敷地に入って行くと、前庭にテーブルが出され、料理が用意されていた。その时、何やら瓶を両手で胸のところに抱えた男性が、林さんの家の前庭に入って来た。
「シラウですね!」思わず叫んでしまった。とうとう、幻の肉醤にお目にかかれた。男性は大仰な仕草で瓶のフタを开けると、中から肉の块を取りだした。茶褐色の肉の塩渍けだが何の肉かはわからない。
「これは山の获物のシラウではありませんが、ブタのシラウ、同じようにしてつくったブタ肉の塩渍けです。1年渍けました」。1年も塩渍けしていれば纷れもなく「肉醤」だ。しかも、中国大陆では牛肉を使うのに豚肉とは珍しい。
「とにかく味见させて下さい」。待ちきれないように端の方をナイフで切ってもらって食べてみた。恐ろしく塩辛い。「それだけで食べるものではありません。ご饭を小さく手で握り、シラウを少し噛って一绪に食べるのです」。
ご饭を小さく手で握って食べるのは、中国の云南と同じではないか。しかもご饭と一绪に少し食べるというのも立派な醤だ。他の料理の味付けなどには使わないのかと闻くと、「野菜炒めなどに少し入れると、とても良い味になります」。调味料としても使っている。确かに肉醤だ。
台湾にも古い形の醤があった。焼畑や水田もあった。これで、稲作文化や発酵食品が、インドシナ半岛や中国の南部沿岸から、直接海へ出て、黒潮にのって日本へと伝えられた経路もあったことが充分に考えられる。醤油の来た道は海路もあったのかもしれない。
味噌?醤油のルーツを探る、醤油の来た道は、再びインドシナ半岛へと渡り、母なるメナム川を遡って、タイの奥地?山岳地帯へと行く。

台湾の食堂。日本语で话しかけてきた人に出逢った。ここでも醤油が盛んに使われている。
台湾の醤油の原料、黒大豆。

バンコクから云南に连なる大醤油地帯

メナム?チャオプラヤー川の河口に筑かれたバンコクの町を、タイの人たちは、クルンテープ「天使の都」と呼んだ。メナム?チャオプラヤー川からひかれた水路?クローンが町なかを縦横に走り、かつては「东洋のベニス」とも讃えられた水の都でもあった。现在は高层ビルが林立する国际都市となっているが、バンコクの人たちにとってメナム?チャオプラヤーの水は生活に欠かせないものとなっている。
タイ语で「メ」は「母」という意味、「ナム」は「水」の意味で、「メナム川」とは、そのまま「母なる水の川」となり、バンコクの人たちは「チャオプラヤー川」と呼んでいる。実际、バンコクの人たちばかりか、タイの人たちにとって、母なる川メナムから受ける恵みには计り知れないものがある。バンコクの町ではメナムやクローンの水上交通が、便利な市民の足となっているが、なんといっても最大の恵みは、バンコクの背后に広がる肥沃な大地である。世界有数の穀仓地帯ともいえるこの緑の大地は、メナム?デルタが生み出したものなのだ。
バンコクの市街からチャオプラヤー川を南へおよそ80キロ下ったダムナンサドワック。ここで懐かしい风景が繰り広げられていた。水上マーケット。クローンに小さな舟、サンパンがひしめき、新鲜な果物や野菜が売られている。水上マーケットは夜明けから始まり、朝7时ぐらいがピークとなる。
岸の方には朝食を売る舟ももやってあった。めん类用の锅から白い汤気がもうもうと上っている。朝食は、めんと粥と焼饭の3种类があった。米粉からつくったタイの代表的なめん、クィティオを食べてみる。ゆがいためんの上から具の入った汁をかけてくれる。クィティオ(めん)は适度な腰があってかなり旨い。汁はコクが深い味だ。色からは薄味のように见えるが、鱼をたっぷり使ってダシを取ったゆったりとしたコクがある。これこそ、今タイの国民的调味料となりつつある鱼醤油?ナムプラの味なのだ。
ナムプラは、小鱼を1年ぐらい塩渍けし、その上澄み液を漉してつくる。ベトナムのニョクマムの影响を受けていると思われ、20世纪に入ってからタイの人たちに急速に広まってきた。今では、このナムプラと、エビやアミをつぶして塩渍けしてつくる発酵调味料?カピが、タイ料理には欠かせぬものとなっている。ナムプラは、现在は塩水鱼を使ってもつくられているが、もともとは淡水鱼からつくられたものだった。しかも、メナムの流域の中部タイで多くつくられている。バンコクからメナムを遡り、ナムプラがどのようにつくられているのか见てみよう。メナムを遡ることは、そのまま、タイの歴史を遡ることにもなる

バンコク郊外の水上マーケット。昔ながらの物々交换をする风景も见られる。
タイの村でつくる手づくりの鱼醤油ナムプラ。

メナム遡行

バンコクを出発しておよそ1时间、メナム?チャオプラヤーとその支流に囲まれた中洲に古い仏塔が见えてきた。バンコクに都が移される前の古都アユタヤの遗跡だ。
アユタヤの遗跡を过ぎると、メナムに注ぐ小さな川で村の人たちが鱼を获っていた。竹竿の先に叁角形の网を张って、何やら小鱼を获っている。川岸に降りてみるとバケツの中に、长さ4、5センチの小さな鱼がいっぱい入っていた。
「これがナムプラの原料です」ガイドの田岛さんが教えてくれた。ナムプラとはこんな小さな鱼を使ってつくっていたのだ。「最近は海产物のキビナゴなんかも使っていますが、もともとは小さな淡水鱼を使っていたんです」。
これから工场へ鱼を运んで行くという仲买人に頼んで、ナムプラ工场を见学させてもらうとにした。木造の仓库のような建物が1栋あるだけの小さな工场だった。中に入ると殴りつけるような塩辛の臭いが鼻を突く。もう何度も味わった鱼醤油工场の臭いだ。壁に沿って大きな木桶が并んでいて、床には木のフタがしてあった。その下がコンクリートの発酵槽だという。小鱼に30パーセントぐらいの塩を混ぜ、数ヶ月から1年前后、発酵させている。発酵槽には仕切りがあって、1年中ナムプラが出荷できるように、期间をずらして渍けていた。発酵が进むと鱼体が溶けて汁になり、熟成した塩辛の汁を木桶にくみ上げているのだ。これを布で漉すとナムプラが出来上る。
工场の前で小母さんがナムプラの壜詰めをしていた。壜の口に漏斗をさし込み、1本1本ひしゃくですくって詰めていた。まさに手づくりの味だ。淡い茶褐色のナムプラを指にとって舐めてみると、もはや塩辛のような强烈な臭いはない。かすかに鱼の臭いのするコクのある味で、ベトナムのニョクマムとも微妙に违っていた。

タイ山岳地帯の味噌汁

更に北へと进み、タイ第2の都市チェンマイへと向った。チェンマイは周囲を山々に囲まれた高原都市だ。チェンマイ郊外の农家で、この地方独得の调味料ナム?ポーをつくっているのを见た。まず、川から淡水产のカニ、沢ガニのようなものを沢山とって来て小さな臼でついてつぶす。これに香りの强い叶と塩を混ぜ更に细かくついて汁をしぼる。しぼった汁を锅に入れて煮つめると出来上り。
これは、中国云南省で见た蟹醤とまったく同じ造り方であった。云南の场合は塩を入れて数日渍けこむが、チェンマイの方はその日のうちに仕上げてしまう。厳密にいうとナム?ポーは蟹醤とは言えず、蟹ミソのようなものだが、造り方はほとんど同じだ。北タイの人たちは、これを野菜や果物につけて食べる。云南の西の端?西双版纳シーサンパンナの人たちとタイ北部の人たちは非常に似た食文化を持っている。云南が日本の文化の源流であるなら、北タイの人たちにも日本の文化と共通するものがあるはずだ。チェンマイからさらに北へ、少数民族が数多く住んでいるというタイ北部山岳地帯をさぐる必要がある。
チェンマイからチェンライへ、そして国境の町メーサイへと高い山々が连なっている。メーサイの町には、赤や青、黒などの色とりどりの民族衣裳を身につけた少数民族の姿が见られる。いずれも高地に住む山岳民族で、この周辺には、カレン族、メオ族、アカ族、ヤオ族、リス族などの种族が住んでいる。そんなひとつ、アカ族の村を访ねてみた。
ちょうどお昼时、赤い円锥形の帽子をかぶった小母さんが昼食の準备をしていた。锅から白い汤気が昇り、何やら懐かしい香りが漂っている。フタをとって中を见せてもらうと、味噌汁のようなものが入っていた。特别にお愿いして1杯ご驰走になってみた。纷れもない味噌汁だ。しかも野菜に混って小さく切ったお肉が入っている。これは、トン汁だ。
どうやってつくるのかと寻ねると、スープは「トゥア?ナオ」というものを溶かしてつくり、肉は2、3ヶ月塩渍けしたものを囲炉里の上で干して乾燥させたものを使っているという。何のことはない、ベーコンではないか。「トゥア?ナオ」を见せてもらうと、円い煎饼のような形をしていて纳豆のような臭いがした。これも何処かで见たことがある。造り方を闻いて思い出した。これまた云南の味噌煎饼と同じだ。まず大豆をよく煮てザルに入れ、2、3日おいて発酵させる。次に臼でついて细かく砕き、手のひらぐらいの大きさの木の叶に饼のようにのばして2、3日天日に干す。乾燥すれば出来上り。
云南と全く同じ大豆の発酵食品だ。云南では軽く火にあぶってお汤に溶かしていたが、ここでは日本の味噌と同じように火にかけたお汤に溶かしこんでいた。中国の云南とタイの山岳地帯、そして日本を结ぶ共通点のようなものが见えて来た。醤油発祥の地の谜を解く键が、タイ北部の山岳地帯に隠されているかも知れない。ますます、心が跃ってきた。

タイの山岳民族は様々な醤をつくっていた。そして、ここで「味噌汁」を発见。中国の云南のと同じ味がした。
「スコータイ」の遗跡。ここにタイではじめての王国が筑かれた。

正月には饼を

メオ族の村を访ねてみた。村は藁葺(わらぶき)屋根の家々が轩を连ねて、日本の古い农村にそっくりだった。颜付きが日本の子供とほとんど変らない。
村の人に醤油を知っているかと寻ねると、知っているという。大豆でつくっているのかと闻くと、町から买ってくると言っていた。云南の人々と同じ食文化を持っているのなら、大豆の醤油の味も知っているはずだ。メオ族の村でも大豆の醤油が姿を消して、鱼醤油ナムプラが万能调味料となってしまったのだろうか。
北タイの人たちの主食はモチ米で、山岳民族の人たちも同じだった。云南の人や台湾の山岳民族の人たちと同じように、自分の手で少しとって、小さなお握りのようにして食べている。しかも、照叶树林帯に住む人々は粘っこいものを好んで食べるという、共通した特徴を持っている。メオ族の人たちが饼をついて食べていても、何も不思议はなかった。
日本からはるばるタイの山岳民族の人たちの食べ物を调べにやって来たと告げると、気さくなその家の人が饼をついて见せようかと言ってくれた。愿ってもない。幸い日本产の醤油も持参している。つきたての饼に日本の醤油をつけて、メオ族の人たちと一绪に味わってみた。
メオ族の饼は腰があって旨い。日本で食べる饼に比べ、米に野性の色あいが强い。キック力がある。日本の醤油はこのメオ族の饼に、じつによく合って旨かった。村の人たちもつぎつぎに日本の醤油をつけて食べていた。
タイの山岳地帯に住む人たちも正月には饼を食べるという。そして、醤油の味の良さも知っていた。味噌汁もあった。黄金の三角地帯をさらに北へ行けば、遥かな雲南の山々が連なり、同じ食文化を持った人たちが住んでいる。顔形も日本人と全く同じだ。どうやら、味噌?醤油の文化はこの辺に源流があって、遠い昔へさかのぼると、全て同じ祖先へと行きつくのではないだろうか。

メオ族のついてくれた饼に、日本の醤油がピッタリと合った。

お醤油は果してどこから来たか?

アジアで、なぜ醤が発达したか。それは稲作文化を持ち、米を主食としていたことに関係深いことがわかった。米はそのまま食べるとかなり淡白な味だ。この米を美味しく食べるための副食として、草醤、豆醤、鱼醤などが生まれた。そんな醤が発达し、大豆でつくる醤油や鱼醤油などの调味料が诞生したのである。日本でもかつては鱼醤が盛んに利用されていたらしい。塩辛をそのまま食べて副食とし、塩辛の汁を调味料として使っていた。これが発达して鱼醤油も日本各地でつくられていたようだ。ところが豆醤が伝わると、现在のような大豆でつくる醤油が诞生、洗练された味が鱼醤油を押しのけていった。こうして日本の调味料は味噌?醤油の天下となったのである。
では、なぜヨーロッパでは醤のような调味料が発达しなかったのだろう。もともと醤はなかったのだろうか。実は、ヨーロッパにも醤はあった。纪元1世纪に书かれた「圣书」の中に鱼醤が登场している。古代ローマ时代には鱼の塩渍けの浓缩したものがあり、「ガムル」や「リクアメン」とよばれて市贩されていたとの记述がある。これが早い时期にコショウ、ショウガ、シナモン、ナツメグ、ハッカなどのスパイス类に调味料の座を譲ったようだ。なぜヨーロッパでは醤が発达せずに姿を消してしまったのだろうか。
これもやはり主食に関係があるようだ。ヨーロッパでは动物性食品を多く食べる。脂肪とタンパク质にとむ肉类は、そのままでも美味しいし、塩をふりかけただけでも结构旨くなる。ヨーロッパの调味料の主流となっているソース类も、基本的には畜肉などのそのままの味を煮だして使っている。こうしてヨーロッパでは醤を必要としない食文化が発展した。
ヨーロッパには「ガムル」の后身として细々ながら现在も鱼醤が生きのびている。イタリアなどでよくつくられている「アンチョビ?ソース」もそんなひとつである。强い塩味と鱼の臭いがする独得の旨味があるこのソースは、カタクチイワシを塩渍けしてつくる。
まず、薄い塩水で洗ってしばらく塩水に渍けておく。つぎに头と内臓をとって20パーセントぐらいの塩をふり渍けこむ。これをすり溃してペーストをつくり、塩、酢、水、レモンなどを加えてつくる。立派な鱼醤だ。カナッペやピザの材料として使われ、イタリア人ばかりかアメリカ人などにも好まれている。
こうした鱼醤が细々ながら残っているものの、ヨーロッパの调味料は、长い间、スパイス类、乳製品、肉类などの汁が主流の座を占めてきた。最近になって日本の醤油が进出するまで、ヨーロッパでは発酵调味料は约2000年の间姿を消していたのである。日本の醤油の味は、ヨーロッパに、古代ローマ帝国の「ガムル」の味を苏らせることになったのかも知れない。
では、今やヨーロッパにも进出している日本の醤油とは、いったいどこで生まれ、どのように発达してきたか

醤油は日本固有のもの?

「醤油は本当に日本固有の调味料なのだろうか?」。
そんな疑问から「醤油のルーツ」を探る旅は始まった。东アジアから东南アジアと歩いてみて、「醤油は日本固有のものではない」ことがわかった。中国にも醤油はあった。伝统の中国料理には醤油がふんだんに使われていた。韩国にも醤油があった。メジュと呼ばれるミソ玉からつくる手づくり醤油は、中国?云南の伝统の手づくり醤油と同じような方法でつくられていた。また、日本の醤油と同じように万能调味料として使われている鱼醤油も仲间に入れると、ベトナムやタイ、フィリピン、インドネシア、ミャンマー、カンボジア、ラオス、マレーシア、シンガポールも同じ醤油文化圏だ。
では、醤油発祥の地とは、果してどこなのだろう。どこから日本へと伝わってきたのだろうか。醤の技术は确かに中国から日本へ伝えられたものと考えられる。日本文化の源流ともいわれる中国?云南に、味噌からつくられる溜り醤油みたいなものがあって、韩国にも同じ手づくり醤油があれば、中国大陆から朝鲜半岛を経由して日本へ伝えられたとも考えられる。
日本人はよく「発想よりもアレンジ上手」といわれている。谁かが発明したものに工夫を凝らし、それよりもはるかに优れたものをつくりだす特异な才能を持っているともいわれている。そんな日本人が中国から伝えられた醤油に手を加え、熟成?洗练を重ねて、繊细な味の完成品をつくり出したとも考えられる。では、中国のどこが醤油の発祥の地なのだろうか。云南が原点だとするには确かな决め手もない。鱼醤油も同じ仲间だとすると、発生の経纬も発达の仕方も违っていて、醤油文化圏はあまりにも広范囲に渡っているような気がしてならない。
ここで、醤油のもとになった醤の発生を考えてみよう。醤はおそらく食べものを塩渍けし保存食品とすることから诞生したものと思われる。様々な食べ物を塩渍けする方法は、各地で自然発生的に生まれたのではないだろうか。こうして醤もアジアの広范囲な地域で、生活の知恵として自然発生的に诞生したと考えられる。それなら、醤油もまたアジアの各地で自然発生的に诞生したと考えられないだろうか。
东アジアから东南アジアと、広范囲に広がる醤油文化圏、バラエティに富んだ発酵食品文化圏を旅してみると、醤油のルーツがアジアのどこか1ヵ所にあって、それが次第に広がったと、1点発生説を考えなくてもいいという思いが强い。醤油はアジアの各地で自然発生的に生まれ、それぞれの地域、それぞれの国で、その味が培われ育まれてきたのではないだろうか。

日本の醤油は日本の発明品

中国の醤油は日本のものとかなり味が违う。大豆の香りが强く、味が固く浓厚である。中国からベトナム、タイと旅すると、ニョクマムやナムプラの味の方が日本の醤油に近く、日本人の舌になじみやすい。日本の醤油は、ニョクマムやナムプラの味に近いのだ。
日本ではもともと鱼醤が使われており、豆醤が伝わってからこれが主流になったといういきさつがある。日本の醤油がニョクマムやナムプラの味に似ているのは、豆醤を洗练してつくった日本の醤油が、味覚的に鱼醤油の味を追求したということを物语っている。醤油は、中国と日本では别々の进化をとげて、今では风味もかなり异なったものとなっている。日本の醤油は、纯粋に日本が発明したものなのだ。
醤油のルーツを探ってアジア全域を旅して来た结果、日本の醤油の発祥の地をどこか1ヵ所に特定しなくてもいいのではないかという考えに至った。もともと、生活の知恵として生まれたものは、どこか数ヵ所で自然発生的に诞生したものが多い。醤油もまた、日本の庶民の生活の知恵として、いくつかの地域で自然発生的に诞生してきたはずである。(完)

参考文献
  1. 1「味噌?醤油の百科」川村渉着(东京书房社刊『日本食文化大系10』所载)
  2. 2「味噌?醤油?酒の来た道」森浩一编(小学馆刊)
  3. 3「しょうゆ世界の旅」大塚滋着(东洋経済新报社刊)
  4. 4「味噌のふるさと」前田利家着(古今书院刊)
  5. 5「地球の歩き方⑥中国」ダイヤモンド社编
  6. 6「地球の歩き方?タイ」ダイヤモンド社编
  7. 7「ベトナムを歩く」稲叶韶正着(驰翱鲍出版局刊)
  8. 8「南ベトナム风土记」内海叁八郎着(鹿岛研究所出版会刊)
  9. 9「ルイ一四世は醤油を使っていた?」菊谷匡裕(文芸春秋)
  10. 10「韩国の定期市」石毛直道、ケネス?ラドル着『季刊民族学39』所载
  11. 11「ふたつの颜をもつ国」石毛直道、ケネス?ラドル着
  12. 12『季刊民族学31』所载
  13. 13「タイの市场図鑑」石毛直道、ケネス?ラドル着
  14. 14『季刊民族学36』所载
  15. 15「スコータイの灯笼流し」太田亨着『季刊民族学44』所载
写真提供

『お醤油の来た道』嵐山光叁郎?铃木克夫着(徳间书店刊)より転载いたしました。

嵐山光叁郎(あらしやま?こうざぶろう)
昭和17年东京生れ。元平凡社「太阳」编集长。
作品は多岐にわたり「ピッキーとポッキー」(童话)から「チューサン阶级ノトモ」「新随想フツーの血祭り」「男」「世间」などのエッセイ、「口笛の歌が聴こえる」「恋横町恋暦」「兼好杀人秘抄」などの小説と、他にも縦横无尽の活跃をしている。食物料理本の名着「素人包丁记」で第4回讲谈社エッセイ赏を受赏している。