研究機関誌「FOOD CULTURE No.6」日欧の文化水準を比較する。
约270年に亘る江戸时代は、戦乱もなく、世界史的に见ても稀にみる平和な时代が続きました。しかも、锁国という环境のなかで、まさに自给自足で国民を养った时代でもありました。この间にわが国の文化は、独自の発展を遂げたことを数々の例証が示しています。
しかし、明治以降こんにちまで、わが国は西欧列强诸国に范を採る余り、それまで育んできた自分たちの文化とその水準を、歴史の彼方に置き去りにしてきてしまったのです。
今年は、「江戸开府400年」という节目にあたり、あらためて「江戸时代」を见直す动きが活発です。今号は『巨大都市江戸が和食をつくった』などの着书で知られる渡辺善次郎さんに、江戸时代のわが国と西欧诸国の文明?文化水準の比较を试みていただきました。
「江戸-もう一つの文明社会」-同时代の日本と西洋-
江戸のイメージ?ギャップ
世界でもっとも有名なグルメガイドといえば、昔からフランスのタイヤ会社ミシュランのガイドブックだが、それが刊行されはじめたのは1900年(明治33年)からである。だが江戸ではその100年以上も前から、市中の料理屋案内が番付の形で出版されている。
江戸は西洋よりもずっと早くから外食文化の発展した都市であった。例えば料理店の出现である。有名なブリア?サヴァランの『美味礼讃』は、料理店をこう定义づけている。「料理店主とは、いつでも御驰走が出せる準备をしておいて客を待つのを商売とする人のことで、その御驰走は消费者の求めに応じて1人分ずつ定価で分売できる仕组みになっている。その店がいわゆるレストランなのだ。」
西洋でもっとも古いレストランの登场は、フランスが1765年(明和2年)、イギリスでは1827年(文政10年)といわれる。これに対し江戸の料理店は1世纪以上も早い1657年(明暦3年)に现われている。
やがて、18世纪も后半になれば「5歩に1楼、10歩に1阁、皆饮食の店ならざるはなし」といわれるほど、高级料亭はじめ各种の饮食店が轩を并べて、江戸は日本随一の食の都とうたわれるようになっていた。
すし、天ぷら、蒲焼など江戸前料理も次々と登场し、江戸っ子たちは初鰹に热狂、里店住いの女房たちまで料理茶屋の2阶に上って饮み食いする风潮さえ现われた。
江戸の食文化についてこんな话をすると、よく次のような质问を受ける。江戸时代の日本は封建制度の下にあって圧制に苦しみ、不自由で贫しい生活を强いられていたのではないか。「百姓は杀さぬように生かさぬように」とか「ゴマの油と百姓はしぼればしぼるほど取れる」とかいわれたように、必死で働いてもみんな年贡で夺われ、いつも食うや食わずの生活を送っていた。そんな时代の中で江戸の食生活はあまりにも豊かで明るすぎるのではないか、と。
これでは江戸时代の食と生活とのイメージのギャップが大きすぎる。果して江戸は本当にそんな抑圧された贫しい社会だったのだろうか。食を语るには、まず全般的な生活や社会の状况を见ておかなければならない。
対照的な江戸评価
明治時代の日本の知識人たちは、島崎藤村の『夜明け前』のように、江戸時代を暗黒時代ととらえ、明治になって漸く夜明けを迎えたと考えていたようだ。 当時来日した西洋人たちは、そのことを非常に不思議に感じていた。
『ベルツの日记』はこう记している。「何と不思议なことには、现代の日本人は自分自身の过去については、もう何も知りたくないのです。それどころか教养ある人たちはそれを耻じてさえいます。『いや、何もかもすっかり野蛮なものでした。われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今からやっと始まるのです』と断言しました。」
チェンバレンも『日本事物誌』で「教育ある日本人は彼らの過去を捨ててしまっている。彼らは過去の日本人とは別の人間、別のものになろうとしている。」と述べている。また夏目漱石の『野分』でも、文学士白井道也が同様のことを演説している。だが多くの西洋人たちは江戸時代の日本についてまったく逆の評価をしている。 彼等の証言をきいてみよう。
1609年(庆长14年)日本に漂流したイスパニアのフィリピン长官ドン?ロドリゴは『日本见闻録』にこう记した。
「江戸の市政の素晴しさはヨーロッパに优っており、市街の整备、交通の繁栄は世界のどの国も及ばない。日本人の政治は世界最高だが、これがゼウス神を知らない国民であることは诚に忌々しい。日本を武力で圧するのは困难である。」
元禄年间(1688~1704年)に来日した独医师ケンペルはその『日本誌』でこう述べている。
「この民は习俗、道徳、技芸、立居振舞いの点で世界のどの国家にも立ちまさり、国内交易は繁盛し、肥沃な田畑に恵まれ、顽强强壮な肉体と豪胆な気性をもち、生活必需品はありあまるほど豊富であり、国内には不断の平和が続き、かくして世界でも稀れに见るほどの幸福な国民である。」
初代アメリカ総领事タウンゼント?ハリスは「人々はみな清洁で食粮も十分あり、身なりもよろしく幸福そうであった。これまでに见たどの国にもまさる简素さと正直さの黄金时代をみる思いであった」と述べる。
また初代英国公使ラザフォード?オールコックもその『大君の都』の随所で日本を賛美している。
「この火山の多い国土からエデンの园をつくり出し、他の世界との交わりをいっさい断ち切ったまま、独力の国内产业によって3000万と推定される住民が着々と物质的繁栄を増进させてきている。&丑别濒濒颈辫;&丑别濒濒颈辫;私は平和、裕福、明らかな充足感を见出した。村落はイギリス村落にもたち胜るばかりにこの上なく手入れがゆき届いており、観赏用の树木はいたるところに植えられていた。&丑别濒濒颈辫;&丑别濒濒颈辫;これらのよく耕作された谷间を横切って非常な豊かさの中で家庭を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きのよさそうな住民を见てみると、これが圧制に苦しみ、过酷な税金をとり立てられて穷乏している土地だとはとても信じがたい。むしろ反対に、ヨーロッパにはこんな幸福で暮らし向きのよい农民はいないし、またこれほど温和で赠り物の豊富な风土はどこにもない。&丑别濒濒颈辫;&丑别濒濒颈辫;ああ、幸福な土地よ、楽しき国よ。」
彼等は当时の日本を西洋とは异なるが、もう一つの高度な文明社会とみなしていた。
大国日本
ヨーロッパへ行って日本は小国だなぞと言ったら笑われる。ヨーロッパに人口1亿を超える国なぞないし、国土の広さからみても日本より大きな国はフランス、スペイン、スウェーデンぐらいで、ドイツは东西统一しても日本より小さい。オランダにいたっては日本の四国ほどの面积にすぎない。しかも江戸时代の日本は世界有数の资源大国であった。
まずもっとも重要な鉱物资源といえば金银铜鉄であるが、江戸初期の日本は恐らく世界一の金银产出国で、その产出量は世界の4分の1に达していたとみられている。まさに黄金のジパングである。铜も世界最大の产出国であった。今でもヴェトナムなどで硬货を「ドン」と呼んでいるが、これは「铜」のことで、江戸时代に日本から输入していた铜銭の名残りである。インドネシアやバリ岛などでは戦前まで寛永通宝が使われていた。
鉄は砂鉄だが、日本はカナダ、ニュージーランドと并んで世界3大产出国の一つで、その品质の良さと価格の安さで当时ヨーロッパ第一の产鉄国だったイギリスの鉄を问题にしなかったという。
各国とも货币は金银铜を用いていたが、それらをすべて自给していたのは日本だけであった。また発火用として不可欠だった硫黄も、火山列岛日本には豊富で、中国などへの重要な输出品であった。エネルギーは主に薪炭であったが、国土の7割が山林におおわれていた日本ではまったく不足の心配はなかった。
また水资源は元来山紫水明の国で、まさに「汤水のごとく」といわれるほど豊かな国である。こうして人口、国土、资源を考えても日本は世界有数の大国であったといえよう。
抜群の农业生产性
当时の主要产业であった农业の土地生产性は西洋诸国をはるかに超えていた。土地生产性は播种量と収穫量の差で示されるが、西洋の小麦の场合はせいぜい4?5倍で、フランスでは播いた种の3?4倍の収穫があれば不作とはいえなかった。
これに対し日本の米はほぼ30倍以上の収穫をあげていた。この高い生产力によって3000万という膨大な人口を养い、当初海外からの输入に頼っていた茶、绢、棉、タバコ、砂糖などをすべて国产化してきた。幕末の棉花の生产性ではアメリカの3?4倍にも达していたという。
西洋人は日本の农业を见て大きな衝撃を受けた。その1人に幕末にプロシャ王国の调査団の一员として来日した农学者マロン博士がいる。その『日本农业に関する报告书』(1862年)は大要次のように记している。「日本の农业技术は多毛作と入念な追肥を基础とした実に合理的な技术体系である。日本はヨーロッパと违って畜产がないから、家畜の腹を通して厩肥を作るという余计なことをせず、直接人屎尿を肥料として农地に还元し、ヨーロッパ诸国のように人间排泄物を川や海に流して环境を汚染したり、贵重な肥料成分を无駄にしたりという马鹿げたことはしない。日本の农民は轮作や休闲を知らず、田畑とも年に何回も作物を多毛作し、1作ごとに肥料を施す追肥方式を採用している。ヨーロッパでは休闲や饲料作物の入った轮作方式が一般的で、しかも轮作の1回転に1回厩肥を施用する基肥方式だから、土壌の生产性が日本の足许にも及ばない。ヨーロッパの农业技术はみせかけだけの偽りの技术であり、日本のは真実の実际的な技术である。日本农业では物质の循环が见事に完结し、数千年にわたって地力の减耗はまったくみられない。」
マロンは人屎尿ばかりでなく、あらゆる廃弃物を肥料化する日本农业の「自然诸力の完全な循环」ぶりに惊嘆した。自分たちはこれまで欧米人がもっとも文明的で、その农业が最高だと信じこんでいたが、日本の农业を见て「深い羞耻の念」にかられざるをえなかったと述べている。
西洋の农村?日本の农村
生产力の差は农村の状态に反映する。18世纪のフランスでは农地の4分の3は贵族、僧院、ブルジョアの所有で、大部分の农民が保有していた农地はせいぜい1ヘクタール未満であった。これではとてもまともな生活は成り立たない。
その顷フランスを旅したイギリスの农学者アーサー?ヤングはこう语っている。「この地方一帯は农业に适しているのに耕作方法がまったくひどい。小麦は雑草と入りまじっていて见すぼらしく黄ばんでいる。农业は贫弱で住民は惨めだ。农村では谁れも靴や靴下をはいていない。それらはもうぜいたく品だ。子供たちはなまじこんなボロを身にまとうくらいなら何も着ていない方がましなほどひどい身なりをしている。」
19世纪末になってもこうした状况は変らない。「家はまるで豚小屋だ。1つの窓もなく、ほとんど家具もない。床は残饭、ゴミ、汚れた服などが散乱し、男女、子供、家畜が入りまじって寝る。彼等は燃料の节约以外何も考えない。」そしてこうした状况はイギリスでもドイツでも同様だと、カウッキーは『农业问题』で述べている。
司马辽太郎との対谈で、ドナルド?キーンはこんな话を绍介している。「江戸时代、日本人はオランダからいろいろ学び、オランダ人というのはとても良い生活をしていると思っていたらしい。しかしオランダ人から见たら违う。オランダの农民は夏服も冬服も区别がなく、年中同じものを着ている。だからズボンは汗と油で固くなり、脱いでも立ったままになっている。もちろん风吕にも入っていない。そんな彼等から见たら、どんなに贫しくても、少なくとも夏と冬の着物の区别があり、毎日风吕を浴びて清洁にしている日本の生活をうらやましく思っただろう。当时の日本の文化水準は、すべての点で欧米よりはるかに上だった。」
西洋では阶级の格差がきわめて激しい。食生活にしても飢饿と饱食が隣りあって存在していた。フランスを访れたナポリの大使は「フランスでは人口の9割は飢え死にし、残りの1割は食べすぎて死ぬ」と语っている。
当时のヨーロッパでは何とか35才まで生きたいというのが庶民の愿望だった。慢性的な栄养不足と重労働のため、35才をすぎればもう体はぼろぼろで、老人の颜になっていたという。
では日本の农村はどうであったか。タウンゼント?ハリスは下田での见闻をこう语っている。「人々は楽しく暮らしており、食べたいだけ食べ、着物にも困っていない。家屋は清洁で日当りも良く気持がよい。世界のいかなる地方においても労働者の社会で下田より良い生活を送っているところはあるまい。日本ではこれまで穷乏を表わしている颜を1人も见たことがない。子供たちの颜はみんな満月のように丸々と肥えているし、男女ともすこぶる肉づきがよい。彼等が十分に食べていないと想像することは少しもできない。」
明治のはじめに日本各地を旅した英国女性イザベラ?バードは『日本奥地纪行』で米沢平野の光景を次のように记している。「米沢平野は、南に繁栄する米沢の町があり、北には汤治客の多い赤汤があり、まったくのエデンの园である。锄で耕したというより铅笔で描いたように美しい。米、棉、麻、大豆、茄子、きゅうり、柿、ざくろなどを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデャ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべてそれを耕している人びとの所有するところのものである。彼らは圧迫のない自由な暮らしをしている。美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。どこを见渡しても豊かで美しい农村である。」山间部に入っても田畑は「すばらしくきれいに整顿してあり、全くよく耕作されており、风土に适した作物を豊富に产出する。これはどこでも同じである。草ぼうぼうの『なまけ者の畑』は、日本には存在しない。」
飢饉と间引き
江戸时代の贫しさを物语る証拠としてよく飢饉や间引きの问题が出される。もっとも悲惨だったといわれる天明飢饉では、津軽领で20万人もの饿死者が出たという。当时の农业技术では天灾に対応することは难しかった。
それはヨーロッパでも同じだ。17世纪末のフィンランドでは人口の3分の1が饿死し、1769年のフランスでは约100万人が饿死したという。また1845年のアイルランドのじゃがいも飢饉では、饿死と国外移民で800万の人口が400万人に半减している。
日本に间引きがあれば、ヨーロッパでは捨て子があった。18世纪中期のフランスでは贫民层の子供の4分の1は捨てられ、孤児院に収容されても栄养不足や病気で80?90%は死んでしまったという。贫しい阶层の子供ばかりではない。同じ顷、パリで生れた子供の90%以上は「田舎の乳母」に里子に出された。その乳母のもとでの里子の死亡率は70?90%にも及んでいる。
1750年、ロンドンの诸贫民収容所に収容された子供は2339人だが、5年后に生存していた子供はわずか168人にすぎなかった。捨て子も里子も一种の杀人行為に近かった。日本の间引きもヨーロッパの捨て子も、时代的制约の中で行われた产児制限?家族计画ではなかったか。

技术と文化
トロイの遗跡を発掘したシュリーマンが1865年に来日してこう述べた。「もし文明という言叶が物质文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されている。なぜなら、日本人は工芸品において蒸気机関を使わずに达することのできる最高の完成度に达しているから。」
オールコックも同様「日本の文明は高度の物质文明であり、すべての产业技术は蒸気の力や机械の助けなしに到达することの出来る限りの完成度を见せている」としている。
技术だけではなく、文化の高さは西洋人共通の评価であった。とくに庶民阶级の识字率や教育水準の高さは世界最高とみなされていた。そもそも市中の高札、字看板、かわら版、おみくじなどは、一般庶民の识字力を前提にしなければ成り立たない。
19世纪初期の英国议会议事録によると、イングランドでは全人口の14人に1人しか学校教育を受けていない。
同时代の江戸の小娘は『浮世风吕』で友达にこうこぼしている。「朝起きると手习のお师匠さんへ行き、それから叁味线のお师匠さんの所へ朝稽古に行き、うちへ帰って朝饭を食べて、踊りの稽古から手习へ廻って、お八ッに帰って汤へ行ってくるとすぐ叁味线や踊りのおさらい。そのうち少しばかり游んで日が暮れると、また琴のおさらいさ。さっぱり游ぶ隙がないから嫌で嫌で」
大人たちも阶级を越えて俳谐、狂歌などに热中し、长唄、叁味线などの稽古ごとを楽しんでいた。英国の植物学者フォーチェンは、日本では下层阶级までみな花好きであることに惊いた。「もし花を爱することが文化生活の高さを証明するものとすれば、日本の下层の人々はイギリスの同じ阶级のものたちよりずっと优っている。」
江戸は当时、世界でもっとも高度な园芸文化をつくり出していた。
平和な社会と庶民生活
世界史で平和といえば「ローマの平和PAX Romana 」である。古代ローマが地中海世界を統一し、文明世界にはじめて長期に安定した平和を実現したが、その期間は100年である。だが、江戸時代の日本は実に300年近くの間、隣国とも国内でも戦争を経験していない。この「徳川の平和PAX Tokugawa 」は世界史の奇跡といわれている。
ヨーロッパで戦争がなかったのは16世纪で10年たらず、17世纪ではわずか4年。宗教戦争、王位継承戦争、植民地争夺戦争など欧米列强は戦争に明け暮れていた。
植民地や奴隷制、国内の重税で収夺した富の大部分は宫殿建设や戦费として浪费された。17世纪中期の英国では歳出の実に90%、ルイ14世は75%、ピョートル大帝は85%を军事费に用いたといわれる。
税金は重かった。ルイ14世の対英戦争の顷には重税で国民の10分の1が乞食になったという。人头税、10分の1税、军役税などの直接税のほか、内国関税やいろいろな消费税が课せられていた。
英国では塩税のため贫民たちはベーコンを作る塩さえ买えなかったといい、1670年顷のアムステルダムの居酒屋では、1皿の煮鱼とソースに30种类もの税が课せられていたという。
18世纪后期に来日したスウェーデン人ツンベルクは日欧の状况を次のように対比している。「ヨーロッパの农民と比べるとずっと课税は低い。日本の农民の主人は领主だけで、他の者はいない。ヨーロッパではいろいろな税が徴収される。まず国王、それから贵族、僧侣の3者から搾取される。また徴税役人がむやみに威张る。日本の农民はそういった者に苦しめられることもない。」
重税だといわれていた年贡も、江戸后期ではせいぜい2公8民以下になっていたと最近の研究は报じている。江戸时代については、建前と実态とのずれがきわめて大きい。実例をあげよう。
私の住んでいる东京都国分寺市に1841年(天保12年)の村人たちの旅行记が残されている。その顷の国分寺村は戸数70轩、人口300人ほどの小村だったが、そこから19人の村人が2ヵ月间の旅に出かけている。その旅程をみると、往きは东海道から伊势にむかい、伊势神宫参诣をすませると京、大坂を见物、さらに四国に渡って金比罗诣りをし、帰途は中山道をたどって帰村している。村の3、4轩に1人の割りで男たちが2ヵ月间も旅行に出かけるなど今日でもあまり考えられないのではないか。他村の记録を见ても2ヵ月程度の旅は珍しくもなく、なかには5人で半年もかけて长崎见物に出かけた例もある。
国分寺には今も「月花の游びにゆかんいざさらば」という江戸末期の俳人宝雪庵可尊の辞世碑が残っている。ずいぶん优雅な句であるが、彼は国分寺恋ヶ洼村の农民である。それも石高3石4斗、村内55轩中、33番目の贫农で马士として働いていた。彼には弟子が3000人いたがそのほとんどは周辺の农民たちで、当时の人口から考えれば富农ばかりでなく小农の人々まで含まれていたに违いない。俳句を学び楽しむほどの知的レベルをもった农民たちが周辺にこれほど大势いたことは惊くべきことである。
しかも当时の国分寺はほとんど水田もなく、生产力の低い「下畑」「下々畑」ばかりの村で、『江戸名所図会』には炭焼の図が描かれているように、薪炭を江戸に运んで暮らしていた。その上、尾张藩の御鹰场に组みこまれ、甲州街道府中宿の助郷にもかり出される负担の多い村で、古文书には必ず「困穷村」と记されている。
しかし村人たちの大旅行や俳句づくりの様子を见ていると、けっして困穷村で重税、圧制にあえいでいた贫しい农民の姿は浮かびあがってこない。むしろ建前はともかくとして、本当はかなり余裕のある生活をしていたのではないか。そう考えないと话の辻褄があわないのである。

都市卫生环境の相违
当时の欧米都市といえば「贫困」「治安」とならんで「卫生」が最大の课题であった。
外见は壮大で华やかな欧米の都市は、いずれも汚物と悪臭に満ち、絶えず伝染病の胁威にさらされていた。ゴミ、汚物、汚水、何でも道路に投げ捨てる习惯の中で、その回収が不完全であれば惨状は明らかである。
「ロンドンは悪臭ふんぷんたる都市で人々は极贫のうちに死ぬかゴミ溜の中で生きるかどちらかしかない。」(アーサー?ヤング)
そうした国々から来日した欧米人たちは一様に日本の都市の美しさ、清洁さに目を见张った。「街路はきわめて清洁で、汚物が积み重ねられて通行を妨げられるようなことはない。これは世界の多くの都市とはまったく対照的だ。」(オールコック)
彼等は江戸で自分の家の前の道路を1日に2度も3度も扫除しているのを见て、ヨーロッパでは决して见られない光景だと惊いた。日本の都市では人屎尿をはじめ、生ゴミ、ヌカ、灰などあらゆる有机廃弃物が贵重な肥料として売买され、すべて农地に还元されて高い农业生产性を支えていた。そのことが都市の清洁さを保ち、卫生を守っていた要因である。
欧米では都市の廃弃物はほとんど邪魔物であった。パリでもロンドンでも、あらゆる汚物、汚水は下水に流され、最终的にはセーヌ川、テームズ川に流れこんだ。そしてその川水が饮料水にも用いられて伝染病の原因となった。
17世纪に本格的な上水道があったのは西洋ではロンドンだけで、パリではナポレオン时代、ニューヨークでは1842年まで上水道はなかった。上水道といってもロンドンでは週に3日、それも1日7时间ほどしか给水されなかった。それに対し江戸の上水道は神田上水、玉川上水をはじめ本所、青山、叁田、千川の各上水を合わせて配水管総延长150キロメートルにも达し、江戸人口の60%に常时上水を供给していた。「水道の水で产汤を使った」というのが江戸っ子の自慢であった。
江戸で鮨、刺身、膾など新鲜な素材の味をそのまま活かす料理がもてはやされたのは、川も海も汚染されず清洁な鱼贝がとれ、それが运搬、流通、料理から食卓に供せられるまで清洁な状态を保ちえた都市卫生管理の优秀さにおっている。これは当时の世界では奇跡的なことであった。
以上さまざまな角度から江戸時代の日本と西洋を眺めてきた。「進んだ豊かな西洋、遅れた貧しい日本」といったこれまでの先入観の誤解を解きたかったのである。 江戸時代は、当時の西洋列強に優るとも劣らない高度で豊かなもう1つの文明社会であった。江戸の食文化も、こうした前提の上で語られるべきではないだろうか。


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渡辺善次郎(わたなべ ぜんじろう)
1932年 東京に生れる。1956年早稲田大学卒業 1961年 同大学院商学研究科博士課程修了。同年国立国会図書館に入り、調査立法考査局農林課長、海外事情課長を経て、専門調査員 1991年 退職。商学博士。現在、都市農村関係史研究所主宰。 主著『都市と農村の間ー都市近郊農業史論』(1983年 論創社)、『聞き書?東京の食事』(編著?1987年 農文協)、『巨大都市江戸が和食をつくった』(1988年 農文協)、『農のあるまちづくり』(編著?1989年 学陽書房)、『東京に農地があってなぜ悪い』(共著?1991年 学陽書房)、『近代日本都市近郊農業史』(1991年 論創社) |



