研究機関誌「FOOD CULTURE No.5」お醤油の来た道をさぐる???【前編】
西双版纳で発见した幻の醤油
はじめに
日本に醤油が伝わる以前の调味料は塩と酢であったから「塩梅(あんばい)」という言叶が生まれた。醤油の基本は、大豆と小麦から造った麹に塩を加えて醸成する。醤はヒシオである。醤油のもととなるのは未醤(みしょう)であり、つまりはミソである。ミソの上ずみになる溜液がタマリとなる。一般に醤油は、このタマリと、浓口醤油、淡口醤油の3种类にわけられ、それぞれの好みによって使いわけられている。
日本人の主食は米だとされているが、考え方によっては醤油が主食なのではないか、とも思えてくる。日本人の主食はじつは醤油であり、醤油の滋味を楽しむために、あるときは刺身、天ぷら、すき焼き、寿司、あるときは照り焼き、纳豆、ヒヤヤッコ、海苔、玉子かけ御饭、モチ、焼き鸟、といったふうに、日本人の食は际限なくつづいていく。料理名をあげていけばきりがない。これは醤油味を楽しむために、他のつれあいを代えているだけのことである。ステーキだって、ハンバーグだって、スモークサーモンだって、フランス料理にだって醤油はあう。共通するものはじつに醤油のみであり、ここに醤油主食论が成立する。日本人にとって、醤油のない食生活は考えられない。
醤油は日本のみならず、世界の调味料となった。フランス料理のかくし味に使われたりするが、日本人から见ればかくす必要なんかぜんぜんない。まるごと醤油味がうまいのである。かつて、アメリカ在住日本人に対し、アメリカ人は「醤油くさい」と悪口を言った。しかし、いまや、アメリカ人は、オレンジジュースにまで醤油を一滴たらして饮むようになった。
醤油は味の神様である。あの一滴一滴のなかに神様のエキスがひそんでいる。このおそるべき调味料は、いったい、いつ、どこで生まれて日本へ伝わってきたのだろうか。醤油诞生の谜を求めて、アジア各国を取材したのがこの一文である。
醤油の母の源流へ
ディドロとダランベールを编集责任者とし、264人の执笔者の协力によって成立したフランス18世纪の『百科全书』(正式表题「一群の文笔家によって执笔された百科全书」)の「厂翱鲍滨あるいは厂翱滨(料理用语)」という项目に、こう记されている。
「日本人が调理に使用し、アジア人に人気の高いソースの一种である。オランダ人もまたこのソースを高く评価し、自国に持ち帰った。あらゆる种类の肉、特にヤマウズラとハムに合うエキスあるいはジュースの一种である。原材料はきのこ类の液汁、多量の塩、胡椒、生姜などで、これらをブレンドすることによって非常に强い风味を持たせ、同时にこの液が腐败するのを防ぐことができる。きっちりと栓をした瓶では非常に长い年月保存がきき、この液体の少量を一般の他のジュースに混ぜると、それを引き立て、非常に快い风味を与えることができる。中国人も厂翱鲍滨を製造するが、日本のものの方がより优れているとみなされている。ということは、中国よりも日本における肉料理の方が、はるかに美味であるということが言える。」
あの『百科全书』にあった、「日本でつくられた一种のソースで、同时にアジア各地で非常にもてはやされているものである」という一节は、どんな意味を持っているのだろう。「中国产の醤油もあるが、日本产のものがはるかに优れている」、とまで书かれている。「醤油」という字はつまり、「醤の油(液汁)」の意味で、味噌の液状の派生调味料をさす。味噌は中国から来たということは间违いないことなので、醤油もまた中国から渡って来たということが考えられないだろうか。醤油のルーツを探る旅は、まず、中国へと渡ってみよう。
醤油ロード、上海-杭州-径山寺
上海は、扬子江の河口にあることから、もともと海外交流の窓口だった。港の场所こそ今とは违っていたが、唐、宋の时代から、外国との交易の拠点として栄えていた。唐、宋の时代には、日本からも数多くの修行僧たちが、この上海を足がかりにして大陆へと渡って行った。修行の间に身につけた数々の大陆文化を、日本へと持ち帰っている。「径山寺味噌」を日本へ伝えた学僧?覚心もそんなひとりである。彼もまた、この上海を経由して杭州へと向かったのだ。
上海は、「人间の街」でもある。人口1600万、街中は伙しい人间がひしめき合っている。人口密度で见ると世界一の大都市だ。そんな庶民のエネルギーのもとになっているのは、当然、「食」へのあくなき欲求だ。上海の街は食べものの街である。中国の歴史に培われた世界一の食文化、自慢の中国料理にも、根底は、醤油が欠かせぬものとなっている。上海の人は无类の醤油好きだ。ほとんどの料理にふんだんに醤油が使われている。
「吃饭了吗?(チーハンラマ)」(食事はおすみですか?)中国人が「こんにちは」の替りに交す挨拶の言叶である。无类の食べもの好き、世界一の食文化を生み出した中国人の気质が感じられる。「吃饭了吗?」の言叶がとび交う豫园商场(よえんしょうじょう)へと行ってみた。上海市民の暮らしを支えて来た市场で、ここに上海人の大好物、「点心」の店が并んでいる。点心とは、シューマイや春巻のような中国式スナックのこと。豫园商场の点心は、何といっても、「小笼包」(シャオロンパオ)が旨い。小笼包は小さな肉マンで、中に色々な具が入っている。小笼包の具は、エビ?鱼?蟹?野菜と色々あるが、いずれも醤油をちょっとつけて食べる。
上海の伝统的な料理として、たれで煮込んだ红焼(ホンシャオ)料理がある。肉や鱼を煮込むのだが、名前の由来はその调理法から来ている。肉の场合は、红焼肉(ホンシャオロウ)、半红焼肉、白焼肉(パイシャオロウ)とあり、実は、この料理名のもとになっているのは、调味料として使う醤油の量から来ている。醤油の量を多く使うのが红焼で少ないのが白焼。中国料理にとっても、醤油は、色や香りや味を引きたてる调味料として、もはや欠かせぬものとなっている。
日本の醤油の祖といわれる「径山寺味噌」の故郷を访ねて、杭州へと向ってみた。杭州の市场で、日本に今も细々と残る「径山寺味噌」はないかと捜してみた。扬子江の流域は大豆の加工食品が盛んに作られているところだ。市场には、大豆を加工した味噌のようなものを入れた樽が沢山并んでいたが「径山寺味噌」らしきものは见あたらなかった。「甜豆豉(カントウチ)ナイカ、甜豆豉」。径山寺味噌は中国では「甜豆豉」という。「甜」は「甘い」という意味で、「豆豉」は味噌のことである。
市场の店を片っぱしから歩いて鸚鵡(おおむ)のように、カタコトの中国语を繰り返してみた。笔谈で「径山寺豆豉」としつこく书いて讯いているうちにいきなり、「チャンユーテン」と、威势の良い掛け声で客の呼び込みをやっていた市场の老人が、叫ぶように言った。チャンユーテンが、「醤油店」のことだとは気がつかなかった。确かに杭州にも「醤油」を売る店がある。「醤油店」なら「甜豆豉」もあるかも知れない。
河沿いにある大きな「醤油店」には、伙しい种类の「醤(ひしお)」が并んでいた。「醤」とは、食べ物を塩渍けにして発酵させた食品のことだ。発酵させることにより、素材とは违った独得の旨味を引き出す。味噌?醤油も、この「醤の文化」から生まれたもので、中国には、「醤」の种类が何百种とある。材料や製造の方法によってそれぞれに名前が付けられているようだが、大きく次の四つに分けられる。
●草醤(クサビシオ)
野菜を塩渍けしたもの。渍物の类。
●穀醤(コクビシオ)
大豆などの豆や穀物を原料としたもの。味噌?醤油もこの仲间に入る(豆类を「豆醤(マメビシオ)」として分けることもある)。
●鱼醤(シシビシオ)
鱼やエビ?カニなどを原料としたもの。鱼醤や塩辛などもこの仲间に入る。
●肉醤(シシビシオ)
牛や豚、獣肉などを塩渍けして発酵させたもの。
【右下】中国产の醤油。大豆の香りが强く、味は固い感じ。
日本の醤油の故郷?径山寺
中国浙江省余杭県径山寺。学僧?覚心が修行をした寺は、西湖の西の山中にあった。杭州から小型バスに乗って半日ほど西へ向かった地点である。かつては「径山兴圣万寿禅寺」として、华南の五山のひとつに数えられる名山であった。「西游记」で名高い唐の玄奘?叁蔵法师が、赤児の时にこの寺の法明和尚に拾いあげられて育てられたという、由绪正しい寺でもある。
しかし、今はその名を知る人も少なかった。わずかに、この辺の山で竹林伐採の仕事をしている徐さんという人が、寺のある场所を知っているということで、道案内を頼むことにした。徐さんは毎日この山に入って竹林伐採の仕事をしているという。さすがに健脚だ。こちらはたちまち呼吸が苦しくなって、后をついて行くのが大変だった。
徐さんの足が急に早くなった。道の端の方を指して何やら叫んでいる。「前门!(チャンメン)、前门!」徐さんは何度も同じ言叶をくり返して地面を指さしていた。ここに前门があったと言っているのだ。すでに前门は跡形もなく消えていた。ここが前门の跡なら顶上も间近であろう。元気を取り戻し、再び山道を登って行った。徐さんがまた大きな声を上げて緑の木立の方を指さした。木立の叶隠に、朱涂りの鐘楼がチラリと见えた。登山を始めて3时间后に顶上へと着いたのだ。こここそが、日本の醤油の故郷?径山寺なのだ。跃るような気持で、顶上へと駆け登った。顶上には何もなかった。
かつての名山、径山寺の寺影は、跡形もなく消え去っていた。顶上の脇に朱涂りの鐘楼がポツンと残されている。「来、来、来」徐さんは、鐘楼の脇をしきりに指さしている。そこには、かつて本堂があったと言っているらしい。その前に青铜の香炉がひとつ残っていた。
日本の味噌?醤油の文化は、中国のどの辺から日本へと伝わって来たのだろうか。「径山寺」が姿を消してしまった今となっては、すでにその手がかりを得ることも出来ない。弱りきっていると、杭州の町の「醤油店」の主人に、兴味深い话を闻いた。「云南に行くと、今でも手造りの味噌や醤油を造っているところがある&丑别濒濒颈辫;&丑别濒濒颈辫;」と言うのだ。云南といえば、日本文化の故郷とされている地である。热心に话してくれる主人の话を唯一のたよりにして、われわれは、遥かな云南へ向かうことにした。
昆明へ、中国大陆火车の旅
中国大陆には、縦横に航空网が敷かれているが、この広大な大陆を味わうには、火车の旅を体験してみないことには话にはならない。ことに、この成昆鉄道は、険しい山岳地帯を走り、窓の外は生きた歴史そのものだ。窓の外を歴史の风景が梦の光景となって通り过ぎて行く。全长1100キロ间にトンネルが427、鉄桥は653あった。中国13亿の民のとてつもないエネルギーが感じられる鉄道だ。
成都站(えき)を出発して间もなく、服务员が夕食の注文を取りに来た。软卧车(日本のグリーン寝台车)の食事は、朝昼晩ともセットメニューになっているが、他の料理も自由に注文することが出来る。メニューを良く见ると、パンとかオムレツとかの西洋食もあるが、値段からして中国では高级食のようだ。せっかくの中国大陆火车の旅だから、夕食は中国料理を注文することにした。
服务员が夕食の时间だと知らせに来た。食事の前に食堂车についている厨房を特别に见せてもらった。円い中国锅を手にしたコックが汗だくになって调理をしていた。锅の下でガスの赤い焔が踊っている。强い火力。そう、中国料理はこの火の强さが命なのだ。コックは手际よく调味料で味付けをしていく。ここでも、醤油がふんだんに使われていた。
食堂车のテーブルの菜谱(メニュー)を见るとすべて汉字で书かれているが、よく见ると、その料理がどんなものであるかおおよその见当がつく。料理名は、「材料」「切り方」「调理法」「味つけの调味料」などを组み合わせたものが多い。たとえば「牛肉丝」とあれば牛肉を细切りにしたものだし、「片肉」とあれば肉を薄く切ったもの。调理法では「炒菜」とあれば「炒めもの」。「炸菜」とあれば「扬げもの」。「蒸菜」は「蒸しもの」で、「汤菜」は「スープ」のことである。「醤」という文字を见つけて「醤油味」と早合点してはいけない。これは食べてみてわかったのだが「味噌味」だった。「醤油味」は「醤油」と书いてある。「醋」とあれば「酢」のことで、「鱼醤」とあれば「鱼の塩辛汁の味つけ」なのだ。このように、味噌?醤油は中国料理でも贵重な调味料となっている。
西双版纳(シーサンバンナ)で発见した幻の醤油
醤油のルーツである〝原始の醤油〞を捜しはじめると、旅は果てしなく迷路をさまようことになった。これからは辺境の地?西双版纳へむかうのだ。果たして、日本の醤油の祖先とめぐり逢うことが出来るだろうかという不安がうずまくが、こうなれば、エーイ、行きつくところまで行くしかないのだった。
プロペラ机はバタバタと飞びいつのまにか思茅空港へと到着した。云南省の最南端。ここは亜热帯地方の真只中なのだ。思茅から西双版纳の中心の街?景洪までは、长途汽车(长距离バス)に乗って行く。およそ11时间だ。
西双版纳への山道は、どこもかしこも緑に辉く照叶树林に包まれていた。カシとかツバキのように、叶が広く、明るい阳光にチカチカと光ってみえる常緑広叶树の树林帯。民族学者のなかには、この树林帯には共通した生活様式が见られ、これを「照叶树林文化」と呼ぶ人もいる。照叶树林帯は、ヒマラヤの方から中国の扬子江流域へと広がり、さらに江南地方へと伸びて、日本の西半分もこの树林帯へ入っている。东南アジアから东アジアへ、亜热帯から温帯へとかけて広范囲に広がっている照叶树林帯では、食生活においても共通した特徴が见られる。たとえば纳豆がそうである。纯日本风な食べものと思える纳豆も、中国の云南ではどこでも见られ、タイの山岳地帯やインドネシアにも同じような食べものがあった。「照叶树林文化」として、この地域に共通して见られる食生活の特徴をあげてみよう。
①麹を使って酒をつくる技术。
②お茶の叶を饮料に使ったり食べたりする。
③粘っこい食物を好んで食べる。(纳豆、饼がその例。)
④鱼醤を食べる。(鱼介类に塩を加えて腐败を防ぎ発酵させた塩辛の类。これを滤(こ)すと秋田のショッツルのような「鱼醤油」となる。)
⑤驯れずしを食べる。(鱼とご饭を塩で渍けた発酵食品。)
こう见てみると、「照叶树林文化」は、豊かな発酵食品を生み出していることがわかる。発酵食品は、元来は、生活の知恵として生まれた保存食品だった。照叶树林帯にバラエティに富んだ発酵食品が诞生したのは、その気候风土に関係がある。「醤」などの味を深めるには寒い风土が适しているともいわれるが、照叶树林帯の高温多湿の気候风土は、保存食品の発酵を助けるもとになっていたはずである。
醤油の原料として决定的な役割を果す大豆は、中国の东北地方が原产地とされている。ソ连の植物地理学者バビロフの説によるものだが、にわかには信じがたい。栽培植物は、まず原产地で料理法や加工法が発明されると考えるのが自然である。大豆の料理や加工法が中国のなかで最も豊富で、しかも集中的に分布しているのは、东北地方ではなく、南部、おもに扬子江流域の照叶树林帯および华南の福建?広东省というのが正しい。
どちらが原产地であるのか、确かなところはわからないが、照叶树林帯では大豆の加工食品が盛んにつくられており、「醤」などの発酵食品との縁が深い。味噌?醤油の诞生の秘密に迫る键が隠されているという思いを强くした。
西双版纳は、云南省の最南端、ビルマ、ラオスの国境近くにある族自治州。傣(タイ)族をはじめ、ハニ族、イ族、チーノ族、ミヤオ族などの少数民族が住んでいる。街を行き交う、青や赤や黄と色とりどりの民族衣裳の女性たち。鲜やかな色に包まれた景洪の町は、これまで旅した中国の风物とはすべてが违う。ビルマとラオスの国境沿いに位置するこの地は亜热帯で、タイの地方都市に近い。
少数民族たちは、この景洪の町の周辺に、それぞれ集落をつくって住んでいる。特にメコン川流域には、そんな集落が数多く点在し、奥へ行けば行くほど昔ながらの暮しを守った村がある。日本の味噌?醤油の元祖ともいえる、原始の手づくり醤油に出逢うことが出来るかも知れないという期待がふくらんだ。まずメコン川の渡し舟に乗って、「水傣(スイタイ)族」の村に行ってみることにした。
傣族の女性たちはとても働きものが多い。朝から夕暮れまで、コツコツと働き続けている。农闲期を迎えても、女性たちの仕事はいろいろと多い。开门节は、穫り入れた収穫物を使って様々な保存食品をつくる季节でもあるのだ。水傣族の村の、気のいい小母さんに、いくつかの保存食品のつくり方を见せてもらった。高床式の家の中まで招き入れてくれ、小母さんは黙々とつくって见せてくれた。惊いたことに、小母さんがつくったものはほとんどが、「醤」の技术を使ったものだった。西双版纳の山奥には、长い间培ってきた「醤の文化」が今もなお脉々と息づいていた。
日本の味噌?醤油の元祖といえる、大豆を加工した「醤」はないのかと小母さんに闻いてみた。水傣族の人たちも、确かに味噌?醤油を调味料として使っていた。小母さんのお祖母ちゃんの代ぐらいまでは、手づくり味噌?手づくり醤油をつくっていたが、今では、景洪の町に様々な产物を売りに行った帰りにビンづめを买ってくるという。手づくり醤油は西双版纳の集落からも姿を消していた。
小母さんは「アイニイ族の村に行けば大豆を加工した〝醤〞をつくっているかも知れない」と言う。味噌、醤油とは违う大豆の「醤」とは、いったいどんなものだろう。水傣族の村からメコン川に沿って、更に南へおよそ30キロ。ビルマとの国境近くにあるアイニイ族の村へと行ってみた。
通訳と案内を頼んだ西双版纳自治州の役人が、村中の家々を寻ね歩き、大豆の「醤」のある家を捜して来てくれた。家の中に入ると、ここでもまた、気のよさそうな小母さんが囲炉里の前へと招き入れてくれた。小母さんは、囲炉里の上のカゴから、まるい煎饼のようなものを取り出した。これが、大豆の「醤」なのだろうか。ニオイをかいでみると、确かに大豆の香りがする。「これは、このまま食べるのか?」と、寻ねると、小母さんは、「食べてみるか」という具合に、ニッコリと笑って料理をはじめた。大豆の煎饼のようなものを、长いハシを使って囲炉里の火であぶる。わずかに、こうばしい香りが漂った。小母さんは、それを小さな臼に入れ、塩と细かく切った唐辛子と、香料のような草を混ぜてつく。つき上ったものをお碗に入れ、热い汤をさしておもむろに眼の前に突き出した。ひと口すすってみる。饮んでみて、「味噌汁だ」と、日本语で叫んでしまった。まぎれもなく、味噌汁だった。纳豆汁のような味がした。とすると、あの煎饼のようなものは豆豉に违いない。豆豉とは纳豆を団子状に固めたものである。これも照叶树林文化特有の発酵食品なのだ。アイニイ族の小母さんは、これを「豆豉饼」と言っていた。热汤にとかして食べたり、料理の味付に使ったりするという。これまた、保存食品であり调味料ではないか。小母さんは身振り手振りを混えて、「豆豉饼」のつくり方を细かく教えてくれた。
ひと昔前までは、日本の农家でもよくつくっていた味噌玉の造り方と似ている。これこそ、日本の味噌の元祖というものである。自然の恵を生かしたこの见事な加工技术はどのように诞生したのだろうか。西双版纳の人々の生活の知恵の豊かさには、计り知れない奥の深さがある。
西双版纳の山奥で、偶然「味噌汁」に出会った。「味噌汁」は、日本固有の味と思っていたが、そんなことはない。この味噌汁は、唐辛子が少量混ざっていて日本のものに比して辛いが、塩味は薄い。発酵が十分でないため大豆の生の味が浓い。纳豆汁と大豆汁の中间の味で、素朴な香りがあった。ただし、汤をそう多く入れないため、日本の味噌汁よりも浓く、ドロリとしていた。こうなると、〝幻の手づくり醤油〞が、この西双版纳に残されているはずだという确信がわいてくる。メコン川沿いに点在する小数民族の村々を、ひとつひとつ访ね歩いてみることにした。








〝幻の手づくり醤油〞
「テヅクリショーユ、アリマシタ!」通訳兼ガイドをお愿いしていた西双版纳自治州の役人が、走って来て叫ぶように言った。景洪からメコン川に沿って40キロ、旱傣(カンタイ)族の村。広场で待っているようにと言い置いて、しばらく姿を消していたが、彼は一轩一轩寻ね歩いて来たらしい。「村イチバンノ、ビジンノ奥サンガ、作ッテ见セテクレルト、言ッテイル」
确かに、〝幻の手づくり醤油〞はあった。奥さんに教えてもらったその造り方は、神秘的とも思えるような方法だった。奥さんはまず、台所にある小さな瓶のフタを开けて见せてくれた。黒褐色の液体が入っている。指でなめてみると大豆の香りがする。まさしく醤油だ。日本のものよりも大豆の香りが强く、味も固い感じがするものの醤油であることは间违いない。まだ、30歳を过ぎたばかりと思われる、美人の奥さんが自分で造ったものだという。今すぐ造る过程を全部は见せられないが、今は、この醤油のもとを造るところなので、それを见せてくれると言ってくれた。美人の奥さんは、早速、醤油造りにとりかかった。
手づくり醤油の原料の造り方は、アイニイ族の「豆豉饼」に似ていた。大豆の加工品のおおもとは一绪なのだろうか。次は、この原料を使っての醤油造りだ。
何と复雑な手法だろう。〝手づくり醤油〞は、长い时间をかけ、神秘的な発酵を促して造るらしい。それにしても、一体いつ顷、谁がこんな神秘的な手法を考えついたのだろうか。
中国には、纪元450年顷着わされたという「斉民要术」という农业技术书がある。魏の国の贾思勰(かしきょう)という役人が书いたものと伝えられているが、农业のやり方から、醤の造り方、豉の造り方など、様々な醸造技术に至るまで细かく记されている。その技术の优秀さもさることながら、こうしたことを书きまとめておく、当时の中国の文化水準がいかに高度に発达していたかを示す名着ともいわれている。
西双版纳の手づくり醤油の手法は、この「斉民要术」にも劣らぬ优れた技术を伝えていると言える。瓶につめて保存されている〝手づくり醤油〞が、にわかに辉いて见えた。
西双版纳で〝幻の手づくり醤油〞を発见した。西双版纳の山々は、遥かにビルマ、ラオスへと続き、その昔、傣族のひとたちは、メコン川に沿って山を越え、タイの国へと南下して行ったという。こうした〝手づくり醤油〞の手法は、タイにも伝えられているのだろうか。ぼくらの心はすでにタイの山岳地帯に飞んでいる。しかし、その前に「醤の由来」を求めて韩国を访ねることとなった。
韩国は、大陆文化のかけ桥
日本の歴史上初めて「醤」の文字が登场するのは、文武天皇の大宝元年(701年)に藤原不比等らによって制定された「大宝律令」である。これは、原始封建国家の职制を确立したもので、中国の「周礼(しゅらい)」に学んだものといわれている。「周礼」には「醤用百二十瓮(かめ)」の记述があったが、「大宝律令」では「醤院(ひしおのつかさ)」の制があり、租税として米の代りに醤を贡纳させ、役人の给料とした。その后、奈良时代の木简には「醤」の文字が盛んに现われ、すでに一般大众の生活の中にも「醤」はかなり普及していたものと思われる。「大宝律令」の制定は、「周礼」に遅れること1300年の后世となる。しかし、日本でもそれ以前から「醤」の文字を目にしていた人がかなりいるはずだ。応神天皇の367年、朝鲜半岛の国、百済の使者王仁が、日本の朝廷に论语十巻と千字文を献上している。
论语には、孔子の言叶、「不得其醤不食」(その醤を得ざれば食わず)の一节がある。『味噌醤油百科』を着わした川村渉氏の説によると、王仁を学问の师と仰いだ皇子宇治若郎子(うじのわきいらつこ)らは、王仁から醤の讲釈を闻いており、王仁は秦の皇族の末裔だとも伝えられ、当然、「周礼」の「醤百二十瓮」も知っていたと思われる。応神天皇の时代は、大和朝廷が国家を统一した时ともいわれている。日本に古代国家が成立したころ、すでに「醤」の文化も日本へと伝えられていたのかもしれない。
飞鸟、白凤の时代を経て、奈良时代へ入ると、记録や木简、文书などに「醤」の文字が賑やかに现われ、その中に「未醤」という文字が见られる。天平胜宝8年(756年)、东大寺に完成した校仓造りの宝物殿、正仓院に収められている圣武天皇の遗物の古文书の中には、「味醤」という文字が书かれている。
平安时代に入ると、「未醤」という文字が见られ、これらは全て「みしょう」と呼ばれていた。平安时代には、「未醤」は「高丽醤」(こまびしお)とも呼ばれていたという。「高丽」とは、朝鲜半岛に住んでいた人たちのこと。これは、「醤」の文化が日本へと伝えられた道筋を暗示してはいないだろうか。弥生时代に日本へ渡来したといわれる水稲耕作などの大陆文化は、北方から来たという説と南方からとの二説ある。
黄河の流域で栄えた文化が中国の东北地方から朝鲜半岛へ伝えられ日本へ入って来たとする説と、中国の华南から海へ出て黒潮に乗って西の方から九州方面へ伝えられたという説である。どちらが有力とはっきりは言えないが、「未醤」に関する限り、「高丽醤」とも呼んでいたところから朝鲜半岛と深い関係を持っていたことは容易に想像できる。


韩国料理の味噌?醤油
ところで、韩国の人たちは味噌?醤油をどんな风にして使っているのだろう。ソウル市民のエネルギーの源ともいわれる「南大门市场」へ行ってみた。あるある。キムチの材料から様々な塩辛类、味噌类。そして、ビン詰めの醤油があった。韩国独特の味噌だまりから造った「カンジャン」、つまり、日本の「たまり醤油」のようなものである。
韩国料理の味つけといえば、すぐにニンニクと唐辛子と思いがちだが、実は、味つけの中心は醤油(カンジャン)と唐辛子味噌(コチジャン|唐辛子粉を入れた辛い味噌)なのだ。料理の种类によっては、ニンニク(マヌル)、ゴマ油(チャンギムル)、唐辛子粉(コチュカル)、しょうが(センガン)なども使うが、これに必ずといっていいほど醤油と味噌が加わる。醤油(カンジャン)をちょっと舐めてみた。大豆の香りがしてコクがあるが日本の醤油のような繊细な味とはちょっと违う。塩気が多く、熟成の期间が短いのかまだ若い醤油という感じがする。
韩国では醤油(カンジャン)をこのまま単体で调味料に使うことは少ない。醤油に味噌、ニンニク、コチジャン、ねぎ、唐辛子などを入れて、特製醤油「薬念醤(ヤンニョムジャン)」を造って使う。この「薬念」が万能调味料となるのだ。
古くから「豆醤(まめびしお)」の伝统を持っている韩国では、调味料としての醤油の位置はかなり高い。韩国における祭祀の食物には、醤油とゴマ油以外の调味料は一切使われないという。韩国料理に欠かせぬ唐辛子やニンニク、しょうが、塩辛などは絶対に使わないのだそうだ。
では、こうした调味料をどのように使っているのだろうか。大众食堂へ行ってみた。韩国料理といえば、まず、何といっても「焼肉」だ。ひと口に焼肉といっても种类は色々ある。日本でもお驯染みの「カルビ焼」「ロース焼」「ホルモン焼」などの网焼や鉄板焼もあるが、ここは伝统的な「プルコギ」を味わってみた。「プル」は、「火」、「コギ」は「肉」という意味で、やや高级焼肉だが大众食堂にもある。
まず、タレで味つけされた牛肉が运ばれて来た。肉は细かく切ってよくたたいてある。味つけに使われているのが、例の「薬念」、醤油と味噌に様々な调味料を加えて造った特製醤油だ。その店その店によって秘伝の味がある。ねぎとニンニクを薬味として効かせている。これを真中に穴のあいたジンギスカン锅の上にタレと一绪に入れ、野菜や春雨と一绪にあぶり煮して食べる。焼肉というより、いわば韩国风のすき焼だ。肉がやわらかく野菜の味がしみて旨いが、ちょっとタレの甘いのが気になる。そんな时はテーブルの上に置いてある唐辛子味噌(コチジャン)を使って自分で味を调节することも出来るのだ。頼めば醤油(カンジャン)も持って来てくれる。最后に、锅の周囲にたまった肉汁にサリというソバを入れて煮込んで食べる。この时、唐辛子味噌を混ぜて食べると、辛味とコクが出てまた一段と旨くなる。
こうして、醤油と味噌は、韩国料理にとっても欠かせぬものとなっている。地方の农村に行くと今でも醤油や味噌を自分の家でつくっているという。韩国にも〝手づくり醤油〞があったのだ。さらに北へ、江原道の农村へと向かうことにした。
味噌玉からつくる醤油
ソウルから东へ约200キロ。海辺の优雅な都市、江陵市(カンヌンシ)へと着く。江陵から北へ10キロほど行った「船桥村」は、藁葺屋根の静かな农村。この村では、今でも手づくりの味噌と醤油を造っているという。案内役を頼んだソウルの大学生?柳さんが、丁度いま、味噌と醤油の原料を造っているという家を捜して来てくれた。
韩国の味噌?醤油の原料は「味噌玉」(メジュ)である。小柄な奥さんが、土间の灶へと招き入れてくれた。灶には、釡と大きな锅がかかっていた。
奥さんは、煮上った大豆をボールに取って庭へ运び、臼に入れて细い棒のような杵で大豆を粘り気が出るぐらいまでつくと、再びボールに取って縁侧へと运ぶ。縁侧には白い布と油纸を重ねて広げ、一辺が30センチぐらいの升の底をくり抜いたような木枠についた大豆を入れる。布で包んで踏みつけ、木枠の型にしっかりと押し込めた。木枠を引き抜いてメジュの原型の出来上り。
これを藁でしっかりと缚り、家の中の天井などにつるして2、3週间がかりで発酵させるのだ。后は纳屋の中に作ったメジュ棚で约1か月、乾燥、熟成させるとメジュが出来上る。
韩国では、このメジュから、味噌(テンジャン)と醤油(カンジャン)を造る。醤油はどうやって造るのかと闻くと、奥さんは、纳屋のメジュ棚からレンガのようなものを取り出して来た。メジュを切って寝かせておいたものらしい。カラカラに乾き、黒いカビが生えている。この天然のカビこそ醤油や味噌の味の决め手となるものなのだ。奥さんは、メジュを水に入れ、表面をタワシでこすってカビをきれいに洗い落した。洗ったメジュをチャントク台のところに持って行く。チャントク台とは、醤类を贮蔵する大?中?小の様々な瓶を并べて置くところ。
瓶のフタを开き、底にメジュを井桁に并べ、用意しておいた塩水を注いで瓶いっぱいにする。その中にナツメと唐辛子と消し炭を入れてフタをした。奥さんは「味つけと毒消しのため」だという。
3日目から、毎日朝早くにフタをとり新鲜な空気と太阳にさらしてかきまぜる。昼间はフタをして2か月ほど熟成させると出来上り。液体を取り出して滤し、一度沸腾させてこれをさませばカンジャンとなる。瓶に贮蔵しておいて少しずつ使うのだという。
この造り方は、中国、辺境の地、云南で発见した手づくり醤油とそっくりだった。毎日、朝露にさらしてかき混ぜる方法まで寸分の狂いがない。〝幻の手づくり醤油〞は、韩国の农村にもあったのだ。中国大陆から朝鲜半岛を通って日本へと入って来た「醤油の来た道」が、にわかに现実のものとなって思われて来た。

木浦の海?多岛海
全羅南道?木浦市。朝鮮半島の先端にある港町だ。木浦は全羅南道の一大漁業基地でもあり、韓国の人たちの食生活には欠かすことが出来ない塩辛の本場でもある。 韓国の塩辛の種類は実に多い。この全羅南道だけでも80種に及ぶという。この種類の多さは、原料となる魚の名前の他に、同じ魚でも魚肉や内臓、魚卵など、使う場所によって違った呼び方をするためらしい。
韩国の塩辛は、そのまま食べるだけではなく、キムチを渍ける时や煮物などの调味料としての役目も持っている。塩辛の出し汁を鱼の煮物の味つけなどにも使うという。塩辛の液を滤すと鱼醤油となる。つまり、醤油と同じような调味料としても使われているのだ。
韓国には魚醤油はないのかと聞くと、韓国では醤油は豆醤を使って造り、魚醤油はないという。塩辛は、副食品と調味料とを兼ねた魚醤までにとどまっているようだ。 木浦の西の海は黄海。その先には中国大陸がある。中国の沿岸部にも魚醤や魚醤油の産地がある。そして、沿岸部を更に先へ進むと、魚醤や魚醤油の本場、東南アジアの国々がある。韓国の魚醤文化は東南アジアの国々の魚醤文化と、深い関係があるのだろうか。

『特集お醤油の来た道をさぐる???』の后编は次号に掲载する予定です。どうぞご期待ください。※执笔のための参考文献も、后编に一括して记载いたします。
【写真提供】
『お醤油の来た道』嵐山光叁郎?铃木克夫着(徳间书店刊)より転载いたしました。
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嵐山光叁郎(あらしやま?こうざぶろう)
昭和17年东京生れ。元平凡社「太阳」编集长。 作品は多岐にわたり「ピッキーとポッキー」(童话)から「チューサン阶级ノトモ」「新随想フツーの血祭り」「男」「世间」などのエッセイ、「口笛の歌が聴こえる」「恋横町恋暦」「兼好杀人秘抄」などの小説と、他にも縦横无尽の活跃をしている。食物料理本の名着「素人包丁记」で第4回讲谈社エッセイ赏を受赏している。 |




