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研究機関誌「FOOD CULTURE No.28」伊势湾?叁河湾を囲むたまりしょうゆ?しろしょうゆ文化圏(爱知?岐阜?叁重)

学習院女子大学准教授 宇都宮 由佳

伊势湾?叁河湾を囲むたまりしょうゆ?しろしょうゆ文化圏(爱知?岐阜?叁重)

はじめに

全国で生产されるしょうゆの中で、たまりしょうゆは约2%、しろしょうゆは1%に満たない。これらのしょうゆは、爱知、岐阜、叁重の一円で多く用いられている(図1)。なぜ、このような地域特性が生まれたのか、気候や风土、政治?経済的、流通等の视点から探っていく。そして今日、人々にどのように用いられているか明らかにする。

図1 醤油の種類別 生産量比率

1.豆味噌文化がうまれた风土

たまりしょうゆは、豆味噌(食塩と豆だけで作る味噌)を造っている过程で生まれる(図2、3)が、その歴史は古く、倭名类聚抄に志贺末醤、飞騨末醤*1として记载されている。
平安朝前期ごろから味噌に米麹を用いることが広まるが、当地域は豆味噌が维持された。その背景として、気候、风土がある。浓口しょうゆの生产地でもある千叶県銚子と比较して爱知県名古屋市は、夏季は高温多湿(図4)で、米味噌や麦味噌では発酵が进みすぎ腐造酸败に陥りやすい。そのため湿润な気候でかつ酷暑厳冬に耐え得る豆味噌が造り続けられたのである。
これが徳川家康の时代、兵粮として活用され、尾张徳川家の庇护、奨励もあり発展を遂げる。また、戦乱期の地方政治が乱れた时代は、金银财宝の盗难の恐れがあった。味噌やたまりは、重量があり运び去ることが困难で、火灾等にも比较的安全であるため、よき蓄财方法として长期使用に耐え得る豆味噌が选択された。
豆味噌は、アルコール挥発成分が无いため米味噌や麦味噌と异なり、煮込むほど美味しく、コクとうま味成分が多い。みそ汁はもちろん、味噌煮込みうどん、味噌田楽は家庭でもよく食べられる。(写真1)

  1. ※1飞騨の髙山市 飞州志には豆味噌の原型である末醤の造り方が记载されている。
図2 明治初年頃の豆味噌?たまりしょうゆの仕込み工程
図3 現在のたまりしょうゆの製造工程
図4 愛知県名古屋と千葉県銚子の雨温図
写真1 豆味噌を用いた料理「味噌煮込みうどん」
「味噌田楽」

2.舟运、陆运が文化圏をつくる

原料となる大豆*2や食塩*3は近隣で生产されており、移送?交通の発达が产业としての発展を支える。 
尾张?叁河地方は、交通の要衝として、古代から主要街道であった东海道により京都、大阪、江戸とつながり、枝分かれする饭田街道、伊那街道、中山道等多くの旧街道により内陆部と结ばれていた。また、太平洋岸の渔村と山间地との商品流通の街道として中马街道もあった。
木曽川、矢作川等の舟运が発达し、原材料や製品を输送する川船が往来し、沿岸部と内陆部を结ぶ役割を果たした。
木曽川は上流の兼山凑や黒瀬凑は东浓?飞騨南部の后背地を控え発展した。白木、板、薪炭、茶、たばこ、糸等が集荷され、笠松(岐阜県)、桑名(叁重県)、名古屋(爱知県)へ积み出され、逆に、上り船には食塩、味噌、たまり、干鱼、塩鱼等が荷扬げされ、山间の村々(岐阜県)に运び込まれた。
18世纪はじめには、伊势湾や叁河湾には东西の交通上の利便性にすぐれた港が点在し、尾州廻船による海上交易が盛んとなった。江戸と大阪への製品を大量移出することが可能になり、発酵调味料?食品产业が飞跃的に発展した。(図5、図6)
さらには、奥叁河や信州の森林资源を利用して木製道具を作る优れた职人の存在もあった。
この原料入手と製品の移出の利便性から、名古屋市等、海运が盛んな知多半岛と西叁河に醸造家が集中している。

  1. ※2大豆は、徳川期の末顷から明治までは、越后や奥州大豆、地元では伊吹山の付近、爱知郡方面が多かった。大戦前は、満州や朝鲜产、北海道や秋田のものであった。他の地方の大豆が移入されるようになり始めたのは、名古屋が中京の中心地として発达してからである。
図5 近世後期、知多郡沿岸村落を中心とした市場と通行関係図
(知多半岛の歴史と现在狈辞6(1995)より引用)
図6 広重「東海道五十三次 桑名」
宫(热田)から桑名までは海上七里の渡し
  1. ※3伊势湾と叁河湾からなる沿岸では、吉良の饗庭塩(あえばじお)に代表される良质な食塩が造られた。现在の岐阜市は、もとは尾张藩领であったが、名古屋から食塩を送るのに木曽川を利用した。

3.政治?経済、人的背景―税金、技术の进展

このように江戸时代、叁河地方や知多半岛では、大豆等原料を全国から入手し、人口が多く十分な労働力が确保できたため、江戸、大阪、岐阜等に向けて、豆味噌やたまりしょうゆの大量生产が行われた。
しかし、本醸造の浓口しょうゆも出回るようになると、安価であったためか、海运の便をかりて当地域にも入津している。当时の组合であるたまりしょうゆの株仲间が、毎日舟着场に出张して荷物の検査を行い、しょうゆには运上と称して税を取り上げ、また舟人が自由に贩売することを厳重に取缔まっている。
すなわち、たまりしょうゆ业者は、独占的な业态を存続しようとしたことがわかり、浓口しょうゆの进出をしにくくし、たまりしょうゆの発展を促した一つの理由ともみられる。
また、知多半岛の半田や武豊では江戸の后期19世纪后半に、滩酒に押され酒造业が减退した。その结果、醸造施设から不要となった蔵、桶等を使って味噌?しょうゆ业に転业する者が出てきた。その后、明治初期の酒造税増等があり、蔵元の多くが味噌やたまりしょうゆ业へ転业した。さらに武豊港が开港し、中国や朝鲜半岛から大量に大豆が输入され、製造が一层さかんになった。
廃藩置県后は、浓口しょうゆへの税もなくなり、新规に开业した人たちはたまりしょうゆと浓口しょうゆとを兼业した者があらわれた。
特に知多郡ではかなり増加し、明治30年顷、东京市深川区の仓田善起という浓口しょうゆの技术者が、全国各地を巡回してしょうゆの醸造法を指导して歩いた。
当时、製麹の管理の悪い醸造家が多く、これを机に製麹室は常に清洁に保ち、害虫の寄生や腐败麹を造らぬ様に努力するようになった。このように、浓口しょうゆから技术的に感化され、よりたまりしょうゆ製造の技术が発达した。
大正から明治の初期顷、本醸造协会の中部支部が名古屋に置かれ、従来からたまりしょうゆや酒类の品评会や、讲习会、醸造の実施指导が行われた。昭和3年には第5回、たまりしょうゆ、浓口しょうゆの讲习会が催された。その一方、昭和11年7月には、たまりしょうゆを発展させるべく、日本醸造协会中部支部主催で、爱知県、叁重県の技术者の参加を求め、たまりしょうゆの製造技术の研究における讲演が催された。
また明治时代以降、全国へ広がらず地域が限定された要因としては、熟成発酵に时间がかかり供给量が増やせず価格が高いこと、食生活でおかずが増え、浓い味が好まれない等が影响していると考えられる。

4.爱知県―美味しさは「コクとテリ」

知多半岛のあるしょうゆメーカーで闻き取り调査をすると、しょうゆ醸造前は1665年清酒醸造业として创业している。 
1708年、豆味噌、たまりしょうゆ醸造を开始する。原料になる大豆、小麦が地元で栽培されており、食塩は塩田があった。大正、昭和になってから味噌?しょうゆのセット贩売を行う。豆味噌は、现在も江戸时代からの木桶を使用し、重石をして熟成させている。
1900年パリ万博に清酒、しょうゆを出品する。外に向けた意识は、海运(流通)の影响が大きく、小豆岛等様々な地域と交易し、中部地方の中心として発达した。
戦后、1954年赤だし味噌(豆味噌と米味噌を合わせて仕立てた味噌)、1959年つゆの素、1971年みりん风调味料の発売を开始した。现在、しょうゆは、たまりしょうゆが约8割、浓口しょうゆが2割で、出荷先は、県内が1割で、県外が9割であるという。主な贩売先は大阪で、大阪の人が好む味(小麦の量を多くする等)の生产量が増えてきている。「さしみたまり」は、関西业务用市场ではトップシェアである。料理屋で煮物等の「かくし味」として使用されている。
他地域との违いを感じる味の特徴やおいしさについては、「コクとテリ」、「赤みのでるしょうゆ」であるという。
地元の闻き取り调査では、刺身と煮物はたまりしょうゆ、それ以外は浓口しょうゆを用いる。またしょうゆのことは、「たまり」と呼んでいたという。ただ、最近の若い人は、刺身でもたまりしょうゆをほとんどつかわず浓口しょうゆを使うことが多いという。メーカーへの闻き取りでもだし入しょうゆ、スキヤキのタレ等、たまりしょうゆ味より、浓口しょうゆ味の方が人気だそうである。

5.岐阜県―木曽川の舟运、変わらぬ塩味

岐阜県は、味噌文化圏ともいわれ昔は味噌玉*4を造っていた。现在では、郡上味噌(麦麹?大豆麹)、飞騨味噌(米麹:朴叶味噌くるみ味噌、大豆麹?麦麹)等地味噌*5がある。地形的?歴史的に、飞騨と美浓に大别され、相互に独立した生活圏と食文化を形成している。
県南部、美浓地方の东部と北部は千メートル前后の山地やなだらかな丘陵からなる。山地を源とする木曽川、长良川、揖斐川とその支流により、肥沃な美浓平野が形成されている。现在、味噌?しょうゆの仕込み水としては长良川の伏流水や、北アルプス山系を源とする涌き水等が使用されている。长良川の鮎の鵜饲いが有名で、鮎料理として吸い物、煮びたし、甘露煮、田楽等がある。
廃藩置県まで木曽川は尾张藩の庇护のもと、舟运が発达した。木材等が、桑名、名古屋へ积み出され、川下から食塩、味噌、たまりしょうゆ等が运び込まれた(図7)。
一方、県北部の飞騨地方は、元禄5(1692)年以来、幕府直辖地として明治に至り、廃藩置県后も筑摩県直辖下にあり、同県の廃止により明治9年に岐阜県として统一された。飞騨高山は、「小京都」とよばれ酒蔵と古い町并みが残り、正月には富山の氷见から塩ブリが运ばれる。京风の淡口の味付けである。现地の人は、関东のしょうゆは塩味がきつく感じるらしく、ほんのりした甘味の浓口しょうゆを好む。たまりしょうゆはあるものの、刺身に使う程度で近年使用は减っているという。

図7.揖斐川、长良川、木曽川の水运関係図
(丸山幸太郎(1982)『幕藩制解体过程の农村―近世美浓の农业と水の问题』より引用)
  1. ※4味噌玉は蒸した大豆をつぶして玉を造り、藁を通して轩下等で乾燥させ、自然にカビ付けさせたものを用いて豆味噌?たまりしょうゆを造るもの。
  2. ※5昭和初期顷より、农家を対象におかいこの先生、指导员、普及员さんとよばれる人の直接指导により、大豆と小麦等の麹を用いた味噌?しょうゆ造りが広がっていく。岐阜県内では、昭和初期から戦争前顷、上记のような指导を受けた地域からは味噌玉が消失した。

郡上市のメーカーへの闻き取り调査では、「たまりしょうゆ」が45%、「淡口しょうゆ」が55%の製造比率。県外出荷は1割、県内は9割で地元向けのしょうゆを造り続けている。
しょうゆ醸造前は、岐阜県郡上郡、大野郡を商圏に、明治30年に、食塩、酒、食品全般を扱う海陆产物问屋を営む。その际、爱知県から「たまりしょうゆ」を仕入れていた。地元で「たまりしょうゆ」の人気があったことを背景に、自ら明治35年に「たまりしょうゆ」「味噌」醸造を创业する。
大正时代、国鉄越美南线开业により、物流が进展する。それまで、高山や名古屋から荷车で运んでいたが、鉄道により、原料の仕入れ、製造贩売が剧的に変化する。
戦后、桶での郡上味噌贩売からポリ製袋に移行し、郡上味噌(大麦麹と大豆麹を使用した)の出荷が増える。商圏であった地域が、ダム建设のため水没したため顾客を失う反面、住民の集団移転があり、移転先での顾客の新规开拓がすすんだという。
昭和30年以降は、スキー场やゴルフ场のレジャー施设が开业し、観光地としての位置づけが强まる。
减塩ブームが到来し、社会全体としてしょうゆも减塩の方向へ进む一方、地元の人からは减塩を要望する声はなかったそうである。
また郡上市白鸟地区は、农村地帯で以前は各家庭で味噌?たまりしょうゆを造っており、现在でも一部の家庭で味噌造り*6は継続されている。昔は、味噌を造っている途中で、竹で编んだ长いヒョウタン形をした&濒诲辩耻辞;簀(すたて)&谤诲辩耻辞;を入れ、柄杓等で「たまりしょうゆ」をすくっていた。1番目が美味しく、「たまりしょうゆ」を取り过ぎると味噌がうまくなくなるという。地域のしょうゆ业者は、各家々をまわり、味噌?しょうゆ造り*7を手伝っていたという。

    1. ※6家で造ったもの「地味噌」、店で购入してきたものを「买い味噌」と表现している。郷土料理は、「地味噌」のみを使うが、癖があるため「买い味噌」と合わせて使うこともあるという。「买い味噌」という言叶は30代の若い世代でも使うことから、地元のものと、今日でも区别がされていることが分かる。味噌造りについて、50歳代女性の闻き取りでは「母?祖母の世代では造っていたが、今はしない」という声がよく闻かれたが、しょうゆについては、かなり前から各家庭で造ることはなくなったようである。ちなみに、原料の大豆?小麦は、家の畑から、食塩は名古屋から购入していたという。
    2. ※7岐阜県経済部が作成した「自家製味噌醤油醸造法」(昭和12年)には、「市贩しょうゆが如何に出やすくなっても、自家醸造のものが良质である、(自家消费することで)大豆?小麦等の穀类が市场に出回る品物を少なくし価格の维持に効果がある、搾りかすは、饲料?堆肥に利用して廃弃物利用に二重の利益がある、农闲期の労働力の利用」と讲习会実施の背景が记述されている。讲习会では「大豆と小麦が半々で、浓口しょうゆと同じ製法で、二番しょうゆの造り方も记载されており、しょうゆ一斗につき食塩8合内外、砂糖(和白)80匁内外、カラメル35~40匁を加える」とある。(写真2)
写真2.岐阜県 昭和10年代、味噌しょうゆ醸造に用いる道具
「自家製味噌醤油醸造法」(1937)より引用

平成10年、郡上味噌がしょうゆの出荷量を超える。
东海北陆自动车道が开通し、叠1グランプリに代表される郷土料理ブームにより「けいちゃん(鶏肉?郡上味噌)」が人気となる。また、「奥美浓カレー」の基础调味料に郡上味噌が使用される。现在の「たまりしょうゆ」は、大豆のみでなく小麦も一部使用されている。
地元の闻き取りによると、家には「たまりしょうゆ」もあるが「浓口しょうゆ」が多い、「淡口しょうゆ」を通常(浓口しょうゆのように)使用する家もあるという。
白鸟地区は、観光地である郡上八幡と违い地元の味が残っており、他の地域の人からは塩味が强いといわれるが、地元の人からは塩味が强いといわれたことがないという。
「塩味がしない」は、すなわち「味がない=美味しくない」ということで、しっかりとした塩味が美味しさを意味するといえよう。その背景には、当该地域が内陆で、昔、食塩は名古屋からの移入に頼っており、贵重なものであったことが影响しているものと考えられる。

6.叁重県―伊势土产、グルテンフリーのしょうゆ


太平洋に臨む志摩半島を中心に、伊勢湾、熊野灘と三方が黒潮の海に面し、温暖な自然環境で、農作物は年中収穫でき、米と小麦あるいは菜種との二毛作が可能である。県北は、木曽川を隔てて愛知県と接し、長良川、揖斐川を遡ると岐阜県に続いているため、食文化の共通性が見られる。  
伊贺は、伊贺盆地で冬期は気候がやや寒冷となる。布引山地、内陆的気候で、奈良?京都?滋贺とつながる道が古くから开けており「みやこ」との関わりが深い。(図8)

図8 三重県の地域区分
(西村谦二他(1987)「日本の食生活全集?叁重県」より引用)

叁重県のしょうゆ醸造の歴史的変迁をみると、米や大豆を主原料とする醸造业は、江戸时代から富裕な地主や商人等の手によって県内各地で営まれており、明治前期には主力の工业製品であった。叁重郡室山村(四日市)では、伊藤製糸场を兴した伊藤小左卫门家が味噌?しょうゆの醸造业を営んでいた。六代小左卫门は、1886年(明治19年)に伊藤昌太郎(のち七代小左卫门)主任を横浜卫生试験场に派遣して分析学?発酵学を学ばせた。1896年に、小左卫门家では、しょうゆ醸造用机械が発明され、特许も取得した。重要な产地は、叁重(现在:四日市)、河艺(现在:津市?铃鹿市?亀山市)の両郡、次いで津市である。すなわち伊势湾を囲む一帯であることが分かる。
明治32年5月、醤油同业组合が设置され、毎年2回品评会を开催して、あわせて製麹品评会を催していた。大正3年、「他では浓口しょうゆで製造しており、たまりしょうゆと操作が异なる。进んで种麹を使わなければ他県に后れをとる。种麹製造场を无偿で提供してほしい。」と种麹製造试験费を叁重県醤油组合へ要求することがあった。
室山(四日市)のしょうゆ製品をインド、台湾の热帯地方、朝鲜、マニラ、インド诸岛へ输出していた。「少しも品质に异変を呈せず大いに好评を博し、大蔵省、农商务省、税务管理局、各醸造家および工业に関する诸学校等により参観するに至る」とある。贩路は、伊势、美浓、尾张の诸国および东京、京都、大阪等はもちろん、支那、朝鲜へも输出し、博覧会においても受赏をしていたという。
今日のメーカーや地元の人へ闻き取り调査を実施した。桑名は、东海道の42番目の宿场町で、木曽叁川の水上交通の要衝として発展した港町であり、桑名藩から命をうけて文化元年(1804)「みそ?たまりしょうゆ醸造业」を始めたという。近年たまりしょうゆは、ラーメンやドレッシング等に加工して使用されることが多い。また、小麦を使用しないたまりしょうゆは、グルテンフリーとして海外(アメリカ等)で注目され需要が高く、最近は国内でも要望が出てきているという。一方地元では、浓口しょうゆを使用しているとい声が闻かれた。
津市のメーカーでは、昭和30年代顷、たまりしょうゆを名古屋方面に向かう鉄道の各駅の売店にしょうゆの樽をおき、量り売りしていたという。现在は、たまりしょうゆを复数のメーカーで协力して製造、伊势参りの観光客に人気がある。しょうゆの特徴としては、「香り」を重视しているという。地元の人への闻き取り调査では、最近は浓口しょうゆだけで、たまりしょうゆ、淡口しょうゆをほとんど使わない。味渍けは関西系を好む人と、爱知の味付けを好む人がいる。味噌も「赤みそ」「合わせみそ」がある。うどんのつゆは、関西系が多い。
ただし、煮物の色はしっかり色がついている「しゅんでいる」ものを好む。「色がついている」もの、メーカーの「香り」へのこだわりは、浓口しょうゆに嗜好が移行しつつも、たまりしょうゆ文化の影响が伺える。
伊贺市での闻き取り调査では、たまりしょうゆ、淡口しょうゆの使用は闻かれず、浓口しょうゆのみ。さらっとして粘性はなく、浓い色(最近の若い人は淡い色)を好む。味付けは、関西系(大阪)に似ているという。スキヤキは、浓口しょうゆに、砂糖を多めに入れる。闯搁関西本线や近鉄线を使って関西方面、大阪への流通が盛んで食文化にもその影响がみられる。歴史的にも伊贺は伊贺藩で、伊势湾を囲む地域と异なる文化がある。
叁重県では、県内でしょうゆの嗜好性に地域による违いがあることが明らかとなった。また、しょうゆが地元の使用だけでなく、伊势参りの観光客や海外等外に意识が向けられている。たまりしょうゆを伝统的な调味料としての位置づけにとどまらず、新たに「グルテンフリーのしょうゆ」として打ち出している。

7.郷土料理に欠かせない「たまりしょうゆ」


全国で比较すると、爱知?岐阜?叁重はたまり文化圏であるが、家庭で使用するしょうゆの闻き取り调査では、徐々に浓口しょうゆへ移行しているようである。
ただ、各地域の郷土料理、爱知県の「ひつまぶし」のタレ、「きしめん」のつゆには、たまりしょうゆが使用されている。
岐阜県の「鮎の赤煮/甘露煮」「イナゴの佃煮」、叁重県の「伊势うどん」のタレ、桑名「ハマグリの时雨」*8等があり、これらは现在も人々に爱され、访れる観光客にも人気を博している。(写真3)

たまりしょうゆは、长期熟成中にメラノジンが生成するため色合いが浓くなるが、まろやかなおいしさが魅力で、郷土料理には欠かせないものである。

写真3.たまりしょうゆを使った郷土料理
爱知「ひつまぶし」
写真3.たまりしょうゆを使った郷土料理
岐阜「鮎の赤煮」
写真3.たまりしょうゆを使った郷土料理
叁重「伊势うどん」
  1. ※8徳川家康にも献上され、名付けは、松尾芭蕉の门人某という。『日本山海名产図絵』(1799)にはその製法が记述されている。

8.しろしょうゆ

(1)しろしょうゆとは

当该地域で、もう一つ特徴的なしょうゆといえば、しろしょうゆである。原料の多くが小麦(80-90%)で、少量の大豆(10-20%)とで造られる。浓口?淡口しょうゆは、大豆と小麦が半々で、大豆は蒸し、小麦は煎り、これを合わせ仕込むのだが、しろしょうゆは、小麦を精白し、大豆は炒って、両方合わせて浸渍し、蒸して麹をつくる。小麦が主原料なため、色が淡く、糖分が多い。着色を防ぐため、一般的には加热杀菌処理を行なわず、麹菌由来の様々な酵素が生きており、独特の味と香りが特徴である。(図9、写真4)
この特徴を生かし东海地方の高级料亭において、吸い物、茶碗蒸し、雑煮、とろろ汁、おでん等の调味に长年使われてきた。その他、おかき、あられ等米菓加工用にも用いられている。(写真5)
近年、しろしょうゆをベースにだしを加えた料理用の「白だし」が台头しつつある。ただ、しろしょうゆには、独特の「香り」があり、根强い需要がある。

図9.しろしょうゆの製造工程
(しょうゆ情报センターより引用)
写真4.しょうゆの色(しょうゆ情报センターより引用)
写真5.しろしょうゆを使った「たこせんべい」
(提供:スギ製菓株式会社)

(2)起源と歴史的変迁

しろしょうゆの起源と歴史については诸説ある。一つは、大正时代末期(1920年顷)、新川町(爱知県碧南市新川)の内藤弥作が现在の金山寺味噌に似た味噌から浸み出す淡い上汁に気が付き、この製造方法を鸟居商店の鸟居新六に伝えたのが始まりという説。もう一方では、1823年顷に江崎家尾州爱知郡山崎村(现在の名古屋、热田の东八丁目)にあったたまりしょうゆ醸造业七代正甫(与右卫门)の息子で出家した四男(甲太郎のちに尾张黄仙)が帰郷した折、小麦叁:大豆一の割合で、大豆を煎り、小麦を精白し共に浸して淡口の溜(たまり)のつくり方を教えたのが始まりで、父の正甫がこれを「薄红梅醤油」と名づけ、料理屋に売り出すと、宫(热田)、名古屋でその特异な香気が好まれ大いに繁昌したといわれ、その后、知多半岛から叁河地方に広がった。この特殊な料理向きのしろしょうゆは、人口の多い都会で生まれ、田舎では売れない。最初から名古屋の问屋出しであったという。
名古屋を中心に、爱知、岐阜、叁重、静冈の浜松あたりまで、普及している。
昭和9年の中国醸造新闻には「しろしょうゆ、渡満」と记事があり、しろしょうゆが、新兴満州国からの希望があり商谈があったいう。これは、爱知県の料理业者の多数が当时満州へ进出していたためと思われる。
昭和11年に爱知県しろしょうゆ醸造组合が设立。この背景には、日中戦争が始まる1年前で、戦时色が强まり、原材料の规制が始まり、それをいかに防ぐか必要に迫られ団体を结成した。昭和12年物资不足から一転して値上げブームとなり、八丁味噌としろしょうゆは赘沢品とみなされて原料の配给は廃止され生产中止となる。再开は、戦后25年まで待たなければならなかった。
ただし、味噌しょうゆ业界が自由贩売となり活発な动きを见せている反面、しろしょうゆは、主原料である小麦が主食として统制され全休止になって以降、継続して生产中止の状态であった。その背景には、配给された小麦がしろしょうゆ製造に不适格で製造できなかったのである。特别配给の申请をし、原料の小麦も徐々に入手できるようになり、昭和35年顷には西叁河地区3工场、名古屋地区4工场、中叁河?知多地区1工场の合计13工场がしろしょうゆを醸造しており、生产は年间3000石で戦前より増加していた。
また世の中の风潮として、淡い色が好まれるようになった。

(3)碧南市で発展した要因

碧南市は、しろしょうゆ、たまりしょうゆ、味噌、みりん、日本酒等の多くの醸造メーカーがある。その理由としては、醸造に适した気候、矢作川の水、矢作川流域の穀仓地帯であった。また、知多湾につながる衣浦港に面し、奈良、平安时代から海运の盛んな土地で、江戸时代になるとさらに物流が発达した。
また、当该地域は、色の浓い、豆味噌、たまりしょうゆの食文化があり、味付けしたすべての料理の色が浓くなる。そこで食材の本来の色を鲜やかにみせるため、しろしょうゆが高级调味料として料亭を中心に需要が生まれた。これは、豆味噌やたまりしょうゆ文化の地域だからこそ、色が淡くて旨味も多いしろしょうゆが开発されたといえよう。

(4)技术の向上、消费者へ豊かな食生活の提供

しろしょうゆは香りを大事にすることから、火入れはしないで出荷するため、冬场は良いが夏场は、主原料が小麦のためビールと同じようにアルコール発酵して泡を吹いてしまう。そのため、戦前は10月から3月までが胜负の半年商売であった。昭和31年名古屋に爱知県食品工业试験场が设置され、しろしょうゆの研究が始まった。『第7报 安息香酸とアルコール併用によるしろしょうゆの保存』という研究论文が発表され、しろしょうゆの辫贬を下げて酸性にすることによって防腐剤として许可されている安息香酸を规定量以内の使用でアルコールを押さえることができることが分かった。
しろしょうゆ业界は、技术面において现在の爱知県食品技术センターの技术研究によって製造贩売が向上したのである。
また、脱色アミノ酸液を使ったしろしょうゆの製品化に成功した。当初はアミノ酸臭で、製造しても売れなかったが、せんべいやアラレ等米菓加工用として大当たりし、全国的に「しろしょうゆ」の知名度が広まった。
その后(昭和47年)、日本农林规格(闯础厂)の品名表示で、「淡口」へ统一の动き等あったが、爱知県味噌しょうゆ工业组合理事长であり全醤工连の会长である田中忠信氏が农林省宛に陈情书を提出し、淡口との製法の违いを诉え、明文化に至った。そこには、 「???祖先の生活の知恵によって自然発生的に育ち、今日まで発达したもの???しろしょうゆもその一つ???特徴のある产物の存在は嗜好の多様性にも适応し、消费者に豊かな食生活を提供する???」とある。
现在、爱知県味噌醤油工业共同组合が「爱知のしろしょうゆ」(构成メンバー11社)公式サイトを运営し、しろしょうゆの製法をはじめ、しろしょうゆを用いた多様なレシピの提案等情报を発信している。

おわりに

爱知?岐阜?叁重で、「たまりしょう」が発展した要因には、国内の他の地域に比べて夏季は高温多湿、酷暑厳冬で小麦?米麹を入れた味噌が造りにくく、豆味噌?たまりしょうゆを选択せざるを得ない环境にあったこと、古くから交通の要衝として街道だけなく伊势湾、木曽川の舟运が発达し、原料の入手、製造したたまりしょうゆの移出入ができたたこと、さらに、浓口しょうゆが流入してもなお、たまりしょうゆを维持させようとする政治的な动きがあったことは大変兴味深い。また最近では、原料が大豆のみのたまりしょうゆが「グルテンフリー」として新らたな展开をみせている。
一般家庭では浓口しょうゆの使用が増えたが、「たまりしょう」は郷土料理には欠かせない。「コクとテリ」「しゅんでいる=味がしみている、味がある」、色の浓い料理は、すなわち目で感じる「おいしさ」なのである。
また浓い色の「たまりしょうゆ」があるからこそ淡い色の「しろしょうゆ」が生まれた。素材の色を生かすものとして料亭や米菓製造业から広まり、最近一般的に使用されるようになった「白だし」のベースにもなっている。
たまりしょうゆとしろしょうゆは、料理によって使い分けられ、他の地域でみられる浓口しょうゆ?淡口しょうゆのように存在する。しかし、色の浓淡はより明确で、独特の「香り」に対するこだわりが、地域特性としてあげられる。地元の人からも白だし料理の仕上げに「たまりしょうゆ」を少し加えて香づけをするという声があった。両者ともに、多様で豊かな食生活を彩る上で大切なものである。

参考文献
吉原精行(1961)豆味噌と溜―その歴史的解説―、日本醸造协会雑誌 第56巻
中部圏社会経済研究所(2015)『「中部圏の発行文化に関する调査研究」报告书』
日本福祉大学知多半岛研究所 (1995)知多半岛の歴史と现在狈辞6
丸山幸太郎(1982)『幕藩制解体过程の农村―近世美浓の农业と水の问题』
叁重県编集 服部秀雄编(1919)『叁重県史下编』
鸟山幸男(1994)世にもめずらしい白醤油の物语1~13、日本食粮新闻