糖心原创vlog

研究機関誌「FOOD CULTURE No.23」「南蛮料理のルーツを求めて」アジア各地に息づく魅惑の融合料理

食べもの文化研究者?神戸女子短期大学名誉教授 片寄 眞木子

「南蛮料理のルーツを求めて」アジア各地に息づく魅惑の融合料理

わが国には、南蛮料理や南蛮菓子と称されている料理やお菓子が数多く现存している。てんぷら、南蛮渍けなどは、もう日本古来の料理のように位置づけられている。人気の高いカステラ、そしてボーロ、アルヘイなどの南蛮菓子や、有名な长崎のシッポク料理のメニューにあるヒカド、パスティなどの色とりどりの南蛮料理が、各地で家庭の味として、あるいは料亭の料理として、今も生きている。この料理やお菓子の多くは、ポルトガルが起源とされている。いうまでもなく、あの17世纪の初めに徳川幕府によって锁国令が出されるより以前に、キリスト教とともにわが国に入ってきた「南蛮文化」の名残りというわけである。
そのルーツをたどり研究を进めるうちに、ポルトガルから日本に至る途中のアジアの寄港地に、今もさまざまな「クレオール料理」(ポルトガルと地元との融合料理)が生きていて、しかもそれらがとてもおいしいことを発见した。

はじめに ポルトガルを访ねる

まず、南蛮料理や南蛮菓子のルーツとされるポルトガルに、当时の料理や菓子が今も残っているのだろうかと考え、ポルトガルを访ね、确かめてみることにした。
すると確かに、カステラのルーツと思われるpão de ló(スポンジケーキ)、confeito (コンペイトウ?砂糖菓子)、bolo(ボーロ?丸い焼き菓子)、fios de ovos(卵の糸)等の菓子、そして、てんぷらや南蛮漬けのルーツと思われるfrito(衣をつけた揚げ物)、escabeche(小魚の酢油漬け)などの料理が、今もよく作られており、これらが日本に伝わったのではないかと思われた。
长い航海を経てたどりついた彼らが、日本で手に入る材料で、何とか故郷の味と香りに近いものを作ろうと努力したことであろう。
気候风土も、材料や设备も异なる地において、远来のポルトガル人がつくった料理をわが国の料理人たちが见よう见まねで伝え、数百年を経て残ったのが今日の南蛮料理ということになる。
しかも、ポルトガル人の足跡は、17世纪初头以来のわが国の锁国によって长い期间途絶えてしまい、キリシタンへの过酷な弾圧では、少しでもその気配のあるものはすべて禁止したはずである。この空白期间を挟んで今日までの気の远くなるほどの长い年月を経て、なおこのような南蛮料理や南蛮菓子が国民に深く爱されて今日まで伝わっているのである。
たしかに、どれもとても美味で、见た目も华やかで魅力的である。おそらく、これらの料理やお菓子が、よほどわが国の人々の口に合い、大众的に人気があったからであろう。

长崎のシッポク料理の中の南蛮料理。『ヒカド』(手前左)、イセエビの『フルカデール』と『カスドース』(手前右)、『パスティ』(奥中央の网目状)
カステラのルーツと思われるpão de ló
鶏卵素麺のルーツと思われるfios de ovos
衣に塩味をつけ、ぼってりとした厚い衣をつけて扬げる家庭料理『フリート』。タネは白身鱼、さつまいも、かぼちゃ、なす、さやいんげんなど。长崎てんぷらによく似ている。
街のフリート屋さん。鱼に衣をつけてたっぷりの油で扬げる様子は、まさに日本の『てんぷら』。语源は迟别尘辫别谤补谤という説がある。

ポルトガルから日本への経路

ヨーロッパ大陆の最西端にあたるポルトガルのロカ岬には碑があり、诗圣カモンイエスの有名な「ここに陆果て海始まる」の言叶が刻まれている。前方に広がる大海原のその向こうに、当时の人々があこがれてやまなかった黄金の国ジパング(日本)がある。
岬に立つと、过去の伟大な探検家、野心家そして宗教家たちのことが胸をよぎる。探検と放浪の旅に、あるいは异国を征服することを梦见て、一攫千金の富と栄誉を求め、キリスト教を未知の世界に広めて异教徒を帰依させることに使命感を抱き、彼らはそれぞれの思いで大海原に乗り出していったのであろう。
探検航海の强い推进者であったエンリケ航海王子(1394-1460)のもと、アフリカ沿岸と冲合の岛々の探検と征服と植民が进められ、やがて1498年にヴァスコ?ダ?ガマがケープタウンをまわってインドに到达。1510年にはアフォンソ?デ?アルブケルケがインドのゴアを占拠して拠点を建设し、以后ゴアは栄えて最盛期の16世纪末には人口20~30万人の大都市「黄金のゴア」へと成长する。
ゴアから先は、マラッカに、次いでマカオに拠点を筑くわけであるが、その间の1543年にポルトガル人が鉄砲を持って种子岛へ漂着し、続いて九州各地へのポルトガル船の来航となる。日本へは、やがて复数の大型船団による定期航路として、地図に见るように次のようなルートができる。

リスボン(ポルトガル)-ゴア(インド)-マラッカ(マレーシア)-マカオ(中国)-长崎(日本)


この寄港地のそれぞれにポルトガル系の食文化が持ちこまれ、现地の食材と伝统的な调理法がミックスして、さまざまな新しい食文化が生まれた可能性がある。
南蛮人がわが国の港に渡来した光景を描いた「南蛮屏风」が、いま世界に60点ほど现存しているが、その絵のなかには、白系のヨーロッパ人に加えて、従者や水夫として、なかにはコックとして、途中の港から连れてこられたのであろうアフリカ人、アラビア人、インド人、あるいはアジアの诸民族らしい有色の人たちの姿が描かれている。
こうしてみると、わが国の南蛮料理の形成过程には、ポルトガル本国からの影响よりも、その途中の寄港地で培われた食文化の影响がより强くあった可能性もみえてくる。

ポルトガルから日本(长崎)への南蛮船の主たるルートと寄港地

西洋と东洋の食文化が融合したクレオール料理

あの时代からすでに4世纪を経ているわけであるが、当时の寄港地のいくつかを、ポルトガルは现代に至るまでしっかりと手中にしてきたので、そこにはたえず本国からの食文化が直接持ち込まれてきた。
笔者は、縁あって长崎市に1970年から26年间居住し、锁国の间も海外への窓口として交流を続けていた长崎の食べもの文化を研究する过程で、日本と中国そして西欧との混血料理である、わが国の「南蛮料理」の魅力を再确认し、その延长上にマカオ、マラッカ、ゴア、东ティモールの各地にも日本の南蛮料理と同様の食べもの文化があるのではないかと考えた。
そこで、时间の许す限り各地を何度も访ね、そこに西洋と东洋の食文化がミックスして生まれた素晴らしい融合料理(クレオール料理)の数々を発见したのである。

①インド?ゴア地方 インド料理との融合

インドのゴア(现在はパナジ?パンジム市)にはポルトガルの影响が现在もなおさまざまな面で色浓く残されている。市民の约半数はポルトガル时代にキリスト教徒となった人たちの子孙か混血であるといわれ、パナジの町并みにはポルトガル风の洋馆や教会がみられ、焼き立てのポルトガル风パンを売る専门店もある。ここでは「ポルトガルの影响を受けたゴアの料理」の研究家にお会いして、実际にいくつかの料理を作っていただきながら、お话を闻くことが出来た。
インドでは数种类のスパイスを混合してすりつぶしたマサラ(ヒンドゥ语)が料理の基本となっており、各家庭の台所にはマサラ调整の石臼が置かれている。ポルトガル起源の料理も、ほとんどがマサラで风味が付けられており、スパイスがよく効いた料理になっていた。『カヴァラ?レシェアド』(鯖のマサラ詰め)もこの例の一つ。またゴアのソーセージであるチョウリソと、ポルトガルのチョウリソにもスパイスの违いがみられた。前者にはにんにく、こしょう、レッドチリ、クミンシード、クローブ、ターメリック、シナモン、しょうが、酢、椰子酒等が加えられており、后者よりもずっとスパイシイなソーセージになっていた。
もう一つの风味の违いの原因は、やはり材料にあると思われた。これはどこの地でも言えることであるが、外来の料理を取り入れるためには、その地で生产される食品や入手しやすい类似の食品で一部を代替することが行なわれている。ゴアの场合には、ココナッツミルクが牛乳の代わりに多く用いられ、アーモンドの代わりに现地产のカシューナッツが用いられている。食材は现地のものを取り入れ、料理名もポルトガル语と英语が混じったものが多く使われていた。

ゴアに残るヨーロッパ风の町并み
ゴアの『ガリニャ?カフェレアル』(鶏のスパイス炒め)。アフリカからポルトガル船によって伝えられた料理。
ゴアの『カヴァラ?レシアド』(鯖のマサラ詰め)をつくるマリア?ロドリゲスさん

②マラッカ独特の「クリスタン料理」

マレーシアのマラッカでは、まさにクレオール料理といえる「クリスタン料理」とその伝承者である颁.闯.マーベックさんに出会うことができた。「クリスタン人」と称するマラッカポルトガル人(16世纪のポルトガル人とマラッカの民族の子孙)で、ローマカトリック教徒であり、独自のクリスタン语を话す人々が伝えてきた料理である。
现地には名高い「ニョニャ?ババ料理」というマレーと中国の混血料理もあるが、それにポルトガル料理が加わったものが「クリスタン料理」である。料理名や调理法にポルトガルの影响が见られ、现地の食材とそれに合う调理法が巧みに组み込まれている。スパイシイ、ぴり辛い、甘い、酸っぱいの、微妙なバランスによる复雑な味覚に特徴がある、とマーベックさんは话してくれた。
『デバル』(デビルカリー)、『セムール』(ビーフシチュウ)、『パング?スシ』(ミンチ肉あん入りのサツマイモパン)、『クエ?タト』(パイナップルタルト)などの独特の素晴らしい料理や菓子に加えて、『チチャルー?ソイ?リマン』(アジのライム?醤油ソース)や『ガリーニャパイ』(チキンパイ)などは、日本の南蛮渍けやパスティととてもよく似ていて、日本に伝わったのはこれではないかという思いを强くした。

マラッカの中心地区にある教会。
マラッカの『デビルカリー』。材料は鶏肉 、じゃがいも、玉葱、しょうが、シャロット、キャンドルナッツ、ターメリック、唐辛子、タマリンド、醤油など。
マラッカの『ガリーニャ?パイ』(チキンパイ)。鶏肉と野菜を煮てスープごと深鉢に入れ、パイ生地で覆ってオーブンで焼く。长崎の『パスティ』によく似ている。
マラッカの『チチャルウ?ソイ?リマン』 (鯵のライム?醤油ソース)。南蛮漬けにそっくり。

③マカオ 中国料理との融合

东西文明のクロスロードであったマカオでは、ポルトガルと中国の食文化が交流し、さらに、アフリカ、インド、东南アジア、ブラジルなどからやってきた食材とスパイスが加わって复雑な融合料理が生まれていた。
ポルトガルの血を引く「マカイエンサ」と呼ばれる人たちの家庭では、ポルトガル风マカオ料理が伝承されている。マカオ市内には、家庭的な雰囲気のマカオ料理を味わえるレストランがあり、日替わりメニューはポルトガル语と中国语の両方で书かれている。主妇达が持ち寄った『ポルトガル鶏』『カーリー鶏』『ミンチ』などの料理はやさしい家庭料理の味がした。
ポルトガル系レストランには、ポルトガル料理と并んで『アフリカンチキン』や『カーリー蟹』があり、中国系の店では『血鸭』『达粗(タッチョ)』などの融合料理を味わうことが出来た。また、コロアネ岛のザビエル教会近くの菓子店では、ポルトガル风のパンやポルトガル菓子の『エッグタルト』が市民の人気を集めていた。

マカオの『カーリー蟹』(蟹カレー风味)。
マカオのポルトガル菓子『エッグタルト』と『パン』。

④東ティモール おいしいポルトガルレストラン

1997年夏に、东ティモール(当时インドネシア)を访问した。400年近くポルトガルの植民地であったために、食文化への影响はかなりあるはずだと考えたからである。首都ディリの市内には数轩のポルトガルレストランがあり、现地の材料による华やかで美味しいポルトガル料理を味わった。やはりここでもポルトガルよりもスパイシイな味付けがされていた。
その2年后、ディリの町は戦乱の巷となり、出会った人达の安否を案じていたが、知人からの情报では、2002年5月の独立后いくつかのポルトガルレストランが復活しているとのことである。

东ティモールのポルトガルレストランの『イスカス?コン?バタタ?フリータ』(レバーとフライドポテト)

まとめ クレオール料理の魅力

ポルトガルの影响があった地には、日本の南蛮料理と同じように、それぞれ新しいクレオール料理が生み出されており、それは、东洋と西洋の良さを见事に取り入れた、すっきりとおいしく、味わい深い料理であるといえよう。

参考文献

『南蛮料理のルーツを求めて』片寄眞木子(平凡社)1999