糖心原创vlog

研究機関誌「FOOD CULTURE No.22」日本の食をアメリカに伝えた日本人移民(北米编)

早稲田大学移民?エスニック文化研究所 招聘研究員 小嶋 茂

日本の食をアメリカに伝えた日本人移民(北米编)

海外在住の日系人と接すると、はっとさせられることがある。日本人である自分が、日本らしさやその伝统について、日系人を镜としてあらためて考えさせられるからである。ある日系二世が「おかげさまで」という言叶と出会い、感谢の気持ちを大切にする日本の文化を是非次の世代に伝えたい、とインタビューで语った时の、発见に似た感动は今でも忘れられない。

异文化とくに多文化の中で生活していくことは、自文化を意识し自覚的に维持していくことである、とはよく言われることだ。移民とは确かに、异文化と対峙し自文化を意识して伝える努力を重ねてきた人たちである。そうした移民とその子孙、日系人から学ぶことは决して少なくない。19世纪の末からおおぜいの日本人が移住したアメリカやブラジルには、かつて日本人町や日本町などと呼ばれた日本人集住地があった。今でもその面影を残しているところがいくつかある。サンフランシスコやロサンゼルス、サンパウロなどがそうだ。そこでは日本食レストランや雑货店、书店などが轩を并べている。その一つサンフランシスコの日本町では、今から百年以上前の1904年の时点で、以下のような职业が记録されている。

官吏?銀行?新聞雑誌?学校教員?医師?歯科医?美術雑貨店?食料品商店?料理店?西洋料理屋?床屋?旅館業?靴工?写真屋?運送屋?桂庵?小間物屋?花屋?洗濯屋?書籍店?時計店?通弁?果物?青物?菓子店?射的場?玉突場?湯屋?洋服店?掃除業(『日米年鑑』1905年 161-162頁)

そこにはまさに日本の町があった。その一方、日本人町としての姿は消えてしまったものの、いくつかの店舗がその痕跡を残しているところもある。万屋(よろずや)や和菓子店などがそうした店舗の好例だ。中には数十年から百年に及ぶ歳月を経て、今なお営业を続けているところもある。

サンフランシスコ日本町

万屋(よろずや)の世界

万屋とはよく言ったものだ。より一般的には雑货店と呼ばれたり、食品が中心となって食品雑货店と呼ぶことも多い。しかしそれではその実态が十分に言い表せない。食品のほかにも、実に多种多様な商品を扱い贩売している店があるからだ。台所用品?陶器类?文房具?清扫用品?入浴用品?衣类?神仏具?土产物?雑誌や书籍?楽器や颁顿から装饰品、趣味の品々まで、およそ日常生活で必要とするものはほとんどすべて揃う。そしてそれだけではないのだ。様々なチラシやポスターなどが掲示板に贴られ、情报の集积场所となり、コミュニティのイベント情报、职の绍介から冠婚葬祭、诸事に亘る里表の最新情报まで、いち早く集まる场所でもあった。桂庵、现在でいうところの职业斡旋所を兼ねることも多かった。「よろず」とはまさにこのことである。移民にとっては、いわば日本の生活のすべてがそこに凝缩されており、その场に漂っている。日本人移民以外の部外者にとっても、そこに来れば日本の生活やその香りに出会える场所である。
そして今日、万屋では时空を超えた世界も広がる。日本においてならば现在では见られないような文房具や道具を始めとした生活用品、过去に日本で流行していたとおぼしき品々、どこか懐かしさを感じさせるモノが见つかるのだ。まるで宝探しのようだ。そしてそこにはたいへん兴味深い食品も置かれている。「いなりずしの素」という名前を冠した缶詰である。そう、缶詰なのだ。よく眺めてみると、もっとある。「ちらしずしの素」や「巻きずしの素」「すきやきの友」「福神渍」などの缶詰である。

「いなりずしの素」缶詰

缶詰をとおして受け継がれる日本の食

これらの缶詰に出会った场所はアメリカのオレゴン州ポートランド。安全商会という日系雑货店である。1905年创立というからすでに100年を超える时代を生き抜いてきた万屋だ。现在の社长は四代目で、まさに歴史を刻んでいる。今ではもうこのような店舗はなかなか见当たらない。店内を见て歩くだけで楽しい、まるで「生きた博物馆」だ。
冷蔵技术やレトルト食品、输送手段が进んだ现在、缶詰に入った各种「すしの素」や渍物は、タイムスリップしたいかにも别世界の代物のような印象を受ける。しかしそこには十分な存在理由がある。「さっき来たあのアメリカ人は、毎月一度ポートランドの母亲のもとにやってきて、その帰りにここに立ち寄るんだ。そして日本食の材料をまとめて买っていく。4时间かけてここに来る」。现在のオーナー、ヒロシ?マツシマ氏がそう解説してくれた。安全商会に买い物に来るのは、地元ポートランドやオレゴン州の人たちだけではない。远くはモンタナ州などからも注文が来ていたそうだ。年に数回买い出しに来て、段ボールのケース単位で购入していく人もあるという。お得意さんは农家の人で、一か月か二か月ごとに来て米?醤油?缶詰などをまとめて买っていく。1ケース24缶か48缶の缶詰を何ケースかもっていく。ポートランドまで来ることができない人たちからは、手纸が届いて宅配便で送るサービスも行っていたそうだ。简単には入手できないこともあり、短期间での消费ではなく长期保存できることが重要なのだ。送っていたのは缶詰のほか醤油そして雑誌や书籍なども扱っていたという。数人がグループとなってまとめて注文することも多く、「花嫁さん」と呼ばれた戦争花嫁や帰还军人の家族など、日本人や日本での生活体験のある人たちによる注文が主となっていたらしい。そういう话を闻いているあいだにも、店内には日系人女性に寄り添い日本语で冗谈を飞ばしていく年配のアメリカ人男性や、非日系の若者男女そして亲子连れが日本米や和菓子などを买い求めて、出入りしている。そしてもちろん、そのほかにもかつては重要な顾客がいた。キャンプで働いていた日本人である。

安全商会外観
「础狈窜贰狈」の看板

キャンプ生活と日本食

ここでいうキャンプとはいわゆる収容所のことではなく、テントを張って野宿することでもない。ヒロシさんの兄で3代目のオーナー、ヨウジ?マツシマ氏が教えてくれた。キャンプ生活をしていたのは製材所や鉄道敷設の仕事に従事していた人たちで、貨物列車の中で生活していたという。多い時には百人を超える日本人労働者が同じ場所でキャンプ生活を送っていた。彼らはギャング(gang, 一群の労働者の意味)と呼ばれ、例えば鉄道の仕事をしていた労働者は鉄道ギャングと言っていた。貨物列車には食堂車があり、コックもいて調理をしていた。労働者は貨車の中で寝泊まりして、ある地点での作業を終えると貨車ごと次の仕事場所へと移動していたという。
安全商会は1905年松岛商店として设立され、のちに帝国商会と改めたそうだが、そうした日本人労働者向けに、鉄道会社をとおして缶詰や野菜を卸していた。そこで扱った量は半端なものではなかったはずだ。会社とは别に、个人に対しては食べ物ばかりではなく、着る物や靴なども贩売し、宿やチケットの手配まで行っていた。つまり、生活のほとんどすべては日本人経営の雑货店をとおして日本から输入したもので贿われており、アメリカにいながらアメリカ人が使い食べるようなものはあまり消费していなかったのである。

帝国商会広告
(『北米年鑑』1936年)

日系人の食事

こうした状况はキャンプのギャングに限った话ではなく、ポートランドにいた日系人も同じだったという。ヨウジさん自身の记忆でも日本から取り寄せたものをよく食べ、アメリカ人が食べるようなものはほとんど食べていなかったそうだ。朝はコーヒー?トーストに卵ということはあっても、昼食や夕食はごはんに麺ないしは味噌汁で、缶詰をよく食べた。チキンやハンバーグは、野菜と炒めて醤油を使って食べていた。その当时、みりん渍や红白かまぼこの缶詰がよく売れていたという。子どもたちは大きくなるとパンや牛乳そして肉を食べたが、小さい时は日本食だった。ヒロシさんの话でもパンはあまり食べず、ごはんをよく食べたという。ビーフは高いこともあり、あまり食べなかった。缶詰や日本人の鱼屋から买った新鲜な鱼がおかずだった。缶詰は福神渍やかまぼこをよく食べたらしい。おでんを作る时でも、缶詰のかまぼこを使い、コンニャクは谁かが时々作ってくれた。鱼は黒鯛やサケを焼いたり炊いたりして、醤油をかけ野菜といっしょに食べた。酢のものやタクアンなども作っていた思い出があるそうだ。そうした食事はアメリカ人一般とは异なるものだったため、小さい时は周りのアメリカ人から鱼臭いといってからかわれたり、タクアンの匂いが敬远されたという。

「かまぼこ」缶詰ラベル(Homer Yasui所蔵)

日本食输入とタクアン贸易

こうした日本人移民向けの日本食を中心とした食品や日用雑货を、日本から输入した事业をタクアン贸易と呼んでいた。古くは19世纪に官约移民と呼ばれハワイへ渡った日本人が、日本酒を日本から输入した记録が残っている。しかしその中心は保存がきく醤油や味噌をはじめとした调味料や乾物だった。そして食品であるタクアンまでも输入していたことから、いつしかタクアン贸易と呼ばれるようになったらしい。その特徴のある匂いが注意を引いて代名词となったのか、あるいは现在のように多彩な食材がまだ存在しない时代、タクアンは日本人にとって象徴的な食べ物であったのかもしれない。
松岛商店が开业して5年后の1910年には、ハワイを除いたアメリカ全体で日系人の食料品商店が242店、贸易商店が21店、豆腐屋42店、菓子屋36店、鱼屋35店、醤油醸造所2店、麺类製造所4店などがあった。これらの店舗数はその后も伸びて、例えば日本食料品及び雑货店は1914年には273店、1917年には305店へと増えていった。输出入贸易商も1908年の6店から1917年には34店へと増加している。ポートランドには1908年、松岛商店の他に食料雑货店が9店ほどあった。
オレゴン州を本拠としていた伴商店は、今日でいう総合商社のように幅広い事业を営んでいた。1892年シアトルに本店を开いていた古屋商店は、タクアン贸易の先駆けだった。バンクーバーにも支店があり、日系人のあいだではよく知られていた。现在アメリカの太平洋岸北西部最大のアジア食品输出入商店として知られる宇和岛屋も、1928年ワシントン州タコマに开かれた蒲鉾や萨摩扬げの店として始まっている。ポートランドから百キロほど内陆に入った町、フードリバーには安井兄弟商会があり、その商品概目が残されている。これを见ると、小さな町においてもいかに多様な商品が取り揃えられていたかがよく分かる。その当时のポートランド市における日系人口は约1千3百人。隣州ワシントン州のシアトルは、日系人口约7千4百人。输出入商や雑货店はおよそ40店あった。つまり日系人口百人から二百人あたり1店の割合で何がしかの商店があった计算になる。强制収容を経た戦后の记録でも、1948年の时点でポートランドに10店の商店、サンフランシスコに17店の输出入商、シアトルにも9店の贸易商と8店の商店、22店の食料品店があった。

伴商店広告
(『日米年鑑』1910年)
古屋商店広告
(『日米年鑑』1910年)
安井兄弟商会商品概目(Homer Yasui所蔵)

横浜とタクアン贸易

在米の日系人雑貨店や万屋が日本から食料品や雑貨を輸入する上で、そうした仕事を専門とした貿易商の多くが横浜や神戸に店を構えていた。輸入する側があれば、それを送り出す輸出側がある。とくに横浜には本店や支店を置くタクアン貿易関連会社がたくさんあり、そうしたパイオニアの一つが駒田商店だった。駒田商店の設立年ははっきりしないが、創業者の駒田常三郎が初めて渡米したのが1890年で、サンフランシスコを拠点として、食料品や日本雑貨の輸出入事業を行っていた。横浜開港資料館に保管されている「駒田家文書」(駒田家関係資料)を調べてみると、駒田商店は日本国内の酒造会社や醤油会社、缶詰会社と取り引きがあり、サンフランシスコやシアトル、ポートランドの日系商店などに商品を卸していたことが伺える。1900年代のことで今から百年以上前のことだ。さらには北米貿易株式会社(North American Mercantile Company, NAMCO)を設立して、タクアン貿易の重要な担い手となっていく。このNAMCO印の缶詰は、新聞広告にもよく見られ、相当出回っていたと推測される。駒田家文書には、タクアンやごもくの素といった缶詰のラベルが含まれており、まさにタクアンそのものが缶詰で送られていたことや、ごもくの素といった缶詰が少なくとも1930年代から存在しておりこれもまたロングセラーであることが伺える。

驹田商店広告
(『日米年鑑』1905年)
北米贸易株式会社広告
(『日米年鑑』1909年)
「ほまれ沢庵」ラベル(横浜开港资料馆所蔵)
「ごもくの素」缶詰ラベル(1937年)
(横浜开港资料馆所蔵)

生き残る缶詰

缶詰の话に戻ろう。冒头で绍介した缶詰「いなりずしの素」や「ちらしずしの素」「巻きずしの素」「すきやきの友」「福神渍」は、现在も贩売されている缶詰だ。このほかにも「五目の素」やタケノコやフキといった野菜、しらたきや板コンニャクといった食材も缶詰で売られている。そしてそう远くない过去に遡れば、豆腐や小イモもたくさん缶詰としてアメリカに渡っていた。前述のヨウジさんの记忆では、缶詰の中でよく売れていたのは、タケノコや福神渍、奈良渍だったという。その福神渍は今でも缶詰で売られているロングセラーらしい。日系人に寻ねてみると、今でも家でよく食べるという叁世に出会う。日本の赤い福神渍とは异なり、醤油がたくさん使われていて、甘く黒い色をしている。おそらく现在の日本人の味覚からすれば、少し甘すぎる感じもするが、アメリカの日系人には惯れ亲しんだ味なのであろう。ウナギの缶詰もかつてよく出回っていたという。现在では真空パックが主流でなかなか入手できないが、日系人の中にはこの缶詰のウナギを好む人も多いという。その味に惯れていることと、真空パックよりは固くて巻き寿司に入れるのに适しているかららしい。タケノコとウナギの缶詰は日系人であれば间违いなく谁もが食べていた、とヨウジさんは付け加えた。
このほかにも、日本缶詰協会が収集し保存している多数の缶詰ラベル(社団法人日本缶詰协会监修『缶詰ラベル博物馆』2002年発行)などを調べてみると、その実態がよく理解できる。表記には全く日本語が使われていないか最小限で、デザインも日本趣味のものが多い。サケやカニを始めとしてカツオやタコ、ホタテ、ハマグリといった水産加工物から、タケノコ、フキ、小イモといった野菜、そしてみかんやパイナップル、白桃やあんずといったフルーツまで、その種類は実に多様だ。そのほかにも、スキヤキやカレーライス、Chop Suey(八宝菜)や昆布巻きなど、日本人には馴染みが深い食材や料理が缶詰で輸出されていたことが分かる。なかには横浜の帝国社製「豚肉の浜焼」などというものもある。そして興味深いのは、例えば東京漬に見られるような、日本では聞いたことのない漬物名や煮物名である。今、同協会所蔵缶詰ラベルから確認できた名称を、すべて列挙してみると、以下のようになる。

〔筑前煮?骏河煮?清水煮?东海煮?土佐煮?富士见煮?时雨煮?大和煮?甘露煮?水煮?甘煮?大渔煮?平和煮?五色煮?五月煮?鰹野菜煮?文化煮?万福煮?みやこ煮?千鸟煮?みかど煮?福録煮?常盘煮?高砂煮?スポーツ煮?富国煮?高尚煮?福神渍?东京渍?常盘渍?越路渍〕

このうち半分以上は、その调理法や味付けがどのようなもので他とどんな违いがあるのか、着者にははっきりしない。あるいはその道の専门家の方々はご存じかもしれない。いずれにせよそこには日本の味を届けようとして、様々な工夫や努力が払われた跡が伺える。
こうした缶詰の中身を见てくると、まさに日本人の食生活や食文化の伝统というものを反映していることが分かる。鱼や野菜、寿司そして渍物をよく食べていることが伺える。

「ちらしずしの素」缶詰
「巻きずしの素」缶詰
「すきやきの友」缶詰
「福神渍」缶詰
「五目の素」缶詰ラベル(藤田缶詰所蔵)
「たけのこ水煮」缶詰ラベル (藤田缶詰所蔵)
「ふき水煮」缶詰ラベル(藤田缶詰所蔵)
「しらたき水煮」缶詰ラベル (藤田缶詰所蔵)
「板こんにゃく」缶詰ラベル (藤田缶詰所蔵)
「豆腐」缶詰ラベル(藤田缶詰所蔵)
「小いも水煮」缶詰ラベル(藤田缶詰所蔵)
うなぎ缶詰広告(年代不明)
(海外移住资料馆所蔵)
「东京渍」広告(1957年)
(海外移住资料馆所蔵)

移民向けの缶詰製造

ではこうした缶詰は日本のどこで作っているのだろうか。缶詰ラベルに现れる製造所の住所を见るかぎり、北は北海道から南は四国まで、かつては様々な场所で作られていたようだ。しかしその需要が减ってきている现在では、ごくわずかな工场でしか製造されていない。様々な注文に器用に応じていかなければならず、交通や水の便などもよいところでないとなかなか対応できない。
そうした会社の一つが、京都の市営中央卸売市场の近くにある藤田缶詰だ。こちらも现在の社长?藤田全弘氏は四代目で、创业者の藤田政次郎は庆応3年生まれというから歴史のある缶詰会社だ。终戦后まもなくの昭和26(1951)年顷、同社は缶詰製造を再开するが、仕事もない何もない时代だった。缶の统制が撤廃になったことで、输出品の需要があり、1ドル365円という為替にも助けられて始めた。
その后、1971年のドルショックが起こるまでは全体の约45%は海外向けに製造していたが、现在では20%程度にまで落ち込んでいる。商品は1ケース48缶(4ダース)が基本で、注文が多い时には一度に100ケース、年间で800ケース程度输出したという。総数にして缶詰4万缶弱、他社も存在することを考虑すれば、少なく见ても年间10万缶は消费されていたと推测される。しかし现在では発注の间隔は短くなった一方で、2ケースのみという注文も多く、たくさん出てもせいぜい50ケースだという。送付先はアメリカや台湾そしてヨーロッパで、かつては南洋にも送っていた。
アメリカに関しては、日本人観光客も多いせいかハワイでの消费量が多く、7月8月の発注が一番多い。そのほか日系人関係ではロサンゼルスやオークランドのほか、シカゴやバンクーバー、东海岸にも送っている。製造品目も以前は70种类程度扱っていた。タクアンや奈良渍、福神渍の缶詰も作っていた。しかし现在では30种类ほどに减っている。小芋(サトイモ)のように冷冻ものが出回るようになったことや、豆腐のように日本の大手公司が现地で生产を始めて、缶詰が売れなくなったためである。しかし现在でも、コンニャクや油扬げなどは製造が続いており、油扬げは台湾やアメリカ、コンニャクはアメリカで消费されている。油扬げ、つまりいなりずしの素は、きつねうどんやそばでの需要も多い。
藤田缶詰は大手の贸易会社2社からは毎月発注があり出荷しているが、一年に2?3回の取引の会社も数社あるという。こうした贸易会社の担当者からは様々な情报が届き、製品の品质改良や新商品开発に结び付いている。藤田社长によれば、五目の素などはもともと労働者の昼食用に手軽でおいしく食べられるものをという趣旨で作られたそうで、まさに鉄道ギャングのために开発されたことを伺わせる。现在でも日系人以外にヒスパニック系アメリカ人労働者の昼食用として利用されているという。ちらしずしの素も、五目の素だけでは贩売が伸びず、ほかに何かできないかということで考案された。ライスビネガーを使ったものならアメリカでも受け入れられる、ということで製品化に至った。そして今では寿司屋でガリの代わりに出しているところもあるらしい。もちろん现在に辿りつくまでには、紆余曲折があった。酸っぱすぎるとか、これではだめだという苦情が届き、试行错误を繰り返して现在に至った、と藤田社长は振り返る。

藤田缶詰の藤田社长と工场

新闻広告と食

缶詰が日系人の生活に果たした役割は、海外で発行されていた日本語新聞の広告からも伺える。サンフランシスコで発行されていた「日米タイムズ」(1946年創刊)に掲載された新聞広告の鉛版が横浜の海外移住資料館に保存されている。その1950年代から1970年にかけての広告内容を調べてみると、食に関するものが一番多いことが分かる。中でも醤油や日本酒、茶や米そして缶詰の広告が群を抜いている。さらにはそうした食品を扱っている貿易会社の広告ともなっている。これらの会社はタクアン貿易の流れをひく会社であり、主として日系人を顧客とする商売の系譜をひくものだ。西本貿易株式会社や細田兄弟商会、共同消費会社、太平洋共同商事会社、太平洋貿易株式会社などがある。太平洋貿易株式会社は日本食品株式会社(Japan Food Corporation)とともにキッコーマングループに加入して、現在JFCインターナショナルの一翼を担っている。ここにたいへん象徴的な写真がある。JFCインターナショナルの社史解説に掲載されている写真で、写真上にこう記してある。

〔待望兹に拾四年、樱正宗を満载してゼネラル?パーシング号拾二月丗一日深夜豪雨を衝いて桑港に入港。波止场に於いて各地より参集の得意先と社员総掛り荷役の光景。昭和九年一月元旦午前一时记念撮影。太平洋贸易株式会社〕

大晦日の深夜、それもすでに年を越して元旦となったサンフランシスコの港。そこに遥々到着した日本酒を出迎えるべく、待ちわびた各地の日系人とともに荷捌きに向かうタクアン贸易会社社员、计10数名。晴れ晴れしさと安堵の表情が伺えて非常に印象的だ。日本から届く品物がいかに待ち远しかったかがひしひしと伝わってくる。
こうした贸易会社の広告には、各々の会社で开発していったブランドも注意を唤起する。ブランド名には、贬滨惭贰や惭础顿础惭、骋贰滨厂贬础や厂础碍鲍搁础、贬础狈础驰翱惭贰などアルファベット表记が使われているものの、そのロゴはすべて和服姿の日本女性となっている。そのほか军舰や侍そして牛若丸や藤娘などのデザインもあり、伝统的な日本のイメージを使い日本への郷愁や爱着を诱う内容となっていることが分かる。
安全商会は自社で直接日本から商品を取り寄せることもあったが次第に割に合わなくなり、闯贵颁や横浜の岩上商店、神戸のクラウン贸易株式会社などから仕入れるようになった。横浜や神戸には従来、海外の日本人移民と関係する施设や店舗が多数见られたが、タクアン贸易に関する会社も多数存在した。

太平洋共同商事広告(1955年)
(海外移住资料馆所蔵)
西本贸易株式会社広告(年代不明)
(海外移住资料馆所蔵)
闯贵颁広告(年代不明)
(海外移住资料馆所蔵)
太平洋貿易株式会社 荷役の光景
(闯贵颁インターナショナル所蔵)
闯贵颁ブランド広告
(『全米日系人住所録』1965年)
クラウン贸易「贬础狈础驰翱惭贰」印缶詰ラベル
(クラウン贸易所蔵)

日本人の食と移民

移民が異国の地に渡っても、日々の食事は一朝一夕には変えられない。食と日本人の関わりを伝える興味深い記録がある。日本人の海外渡航が可能となる1866年の数年前のできごとである。アメリカとの修好通商条約批准書交換のため、万延元(1860)年遣米使節団77名が日本人としては集団で初めて海外へと渡航した。長旅に向かうにあたり護送船咸臨丸に醤油や味噌、香物や梅干し、茶や野菜乾物類を大量に積み込んでいたという記録である。とくに醤油に関しては一人一日 5勺(約90ミリリットル)の量を見込んでいた。さらには旅の途上サンフランシスコに立ち寄った際、そこで賄い方が中国人の店から豆腐や油揚げを購入し、食事に出したことからたいへん感激したと報告にも残っている。食に関する嗜好とその必要性について、なるほどと思わせるエピソードだ。数年後に渡った初期移民も事情はほとんど変わらなかったろう。もし食材がなければ何か代用品を探す。そして様々な工夫を凝らす。それでもだめならば、あるいは余裕ができれば、日本から輸入することになる。
醤油?味噌に関しては、日本人移民の歴史が一番古いハワイにおいて、1891年には醤油醸造が始められ、1906年には布哇醤油株式会社が创立された。1920年代に入ると味噌の製造も试みられ、神田糀味噌がその草分けの一つと言われ、1930年代に事业化されている。アメリカ本土でも、1910年に2店あった醤油醸造所は、1948年末でワシントン州のみで豆腐店、鱼店と合わせて10店の记録がある。
安全商会のヨウジさんによれば、第二次世界大戦以前からキッコーマン醤油がアメリカに入っており、太平洋贸易株式会社が独占的にキッコーマン醤油を扱ってきていたという。『キッコーマン株式会社八十年史』(2000年)には、明治末期から海外邦人むけに输出されていたと记载がある。アメリカでは戦时中、日系人が财产を夺われた上に强制収容所に送られ、抑留生活を强いられていた。その日系人に対し、国际赤十字が仲介役となりキッコーマンが醤油を送った话はよく知られた话だ。キッコーマンの取缔役名誉会长茂木友叁郎氏もその着书『キッコーマンのグローバル経営』(生产性出版、2007年)の中で触れられている。しかしその恩に报いるかたちで、日系人を中心として、戦后日本へ粉ミルクや毛布など救援物资を送る『ララ物资』(アジア救済公认団体の略称)と呼ばれた运动が始められたことはあまり知られていない。その记念碑がゆかりの地である横浜みなとみらい地区の埠头に建てられている。醤油と移民そして日本を结ぶ象徴的な史実だ。
第二次世界大戦中は日本からの输入が途絶えたため、ハワイでは醤油や味噌の製造が非常に発达したと言われている。ポートランドの安全商会もまた日本の品物は入らなかったので、戦后はサンフランシスコから醤油を买った。味噌は戦争中カリフォルニアからソルトレークに引っ越した藤本味噌から、ハワイからもアロハ醤油と顿颈补尘辞苍诲醤油が入ってきた。ポートランドでも戦前、叁阳醤油という小さな醸造所があり地元だけに贩売していた。小さな醸造所は各地にぽつぽつとあったという。その后、时の経过とともにこうした多くの日系人商店や会社は姿を消していく。ごく例外的に和菓子店や雑货店が残っている。
和菓子店はポートランドにこそ残っていないが、ロサンゼルスには叁河屋と风月堂があり、ともに百年以上の歴史を夸っている。そのほかサンフランシスコに勉强堂、サクラメントに大阪屋がある。和菓子店がたくさん残っている理由は何だろうか。それは日本人の食とともに社会习惯とも関係がありそうだ。叁河屋には「もちアイスクリーム」というヒット商品があるが、和菓子が爆発的に売れているわけではない。しかし正月の饼から冠婚葬祭の赠答など、四季折々そしてコミュニティの付き合いに、日本人は和菓子を自ら食べ知人に赠る。饼や红白馒头には确たる客层があるという。健康食ブームも追い风となった。

叁河屋
风月堂

日本の食への関心

こうした日本の食への関心はどのようにして広がっていったのか。最初は、日本人移民が持ち込み、日本食は日系人の必需品や望郷品として需要が続いた。そして日系人以外の人たちへと広がりを见せるのは、ようやく戦后になってからのことである。戦前には日本人で洋食店や中华料理店を営む者もおおぜいいたが、日本食レストランが一般アメリカ人にも受け入れられるようになるのは、スキヤキの名のもとに日本料理が知られるようになる戦后のことだ。ヨウジさんの记忆では、アメリカ人が客として来るようになるのは1960年代半ばで、その多くはスキヤキ目当てで、ウエイトレスが目の前で调理して见せてくれるのが评判を呼んだという。
日本食への取っ掛かりがスキヤキであった。そして次が天ぷらやしゃぶしゃぶ、さらにラーメン、寿司。アメリカ人が日本食に亲しんでいく顺番である。ポートランドの场合、1960年代に开店したある日系レストランは、スキヤキを看板料理として一晩に四百人客が入っていたそうである。もちろんこれらすべての料理には醤油が使われている。そして実はこれと并行して、戦后にはもう一つの大事な流れがあった。戦争花嫁と呼ばれた人たちである。

戦争花嫁と日本食の伝播

太平洋贸易株式会社のある関係者によれば、日本占领时代の进驻军関係者や戦争花嫁がアメリカに帰ったことで、それに伴い北米各地へと醤油が広がったという。そして给料日には戦争花嫁の多い地域で醤油がたいへんよく売れていたと分析している。闯贵颁インターナショナル现社长で北米での経験豊富な榎本博行氏もまた、给料日に醤油や日本食が売れたことを确かに実感として感じられている。榎本社长によれば、闯贵颁の支店にどのようにしたら日本食が买えるかという问合せがよくあり、日系人の多い西海岸からは远く离れたアラバマ州やミシシッピ州にも商品を届けたと记忆されている。日本人初期移民が持ち込みそして输入した日本食を、次なる段阶では戦争花嫁や进驻军関係者によりアメリカ各地に伝播し、それと并行してスキヤキなどがじわりじわりと広げていったのである。

インスタントラーメン、寿司、刺身、そして驻在员

そして戦后の次なる大きな変化はインスタントラーメンである。アメリカに入って来たのはやはり1960年代半ばで、1袋10~20セント程度で売っていた。现在では日系食品雑货店のみならず一般スーパーにおいても必ず重要な一角を占めている。
安藤百福が発明したインスタントラーメン(そしてのちのカップヌードル)は、确かに日本の食への関心と需要を広げた。寿司や刺身が受け入れられるのはこのあとで、いわゆる『マクガバン报告书』(1977年のアメリカ上院栄养问题特别委员会报告书)により、日本食とくに寿司が健康食としてのお墨付きを公的机関から得たことが大きく影响したとされている。この报告书の影响は少し时间をおいて南半球にまで及んでいる。
1960年代から始まる海外出张や出向の増加、そして1970年代から増える海外勤务の影响からいわゆる驻在员や邦人を対象とした需要がジャンプとして伸びてくるのは、こうした时期と重なる。しかしこのジャンプは戦前移民、戦争花嫁というホップとステップの素地がなされたあとのことである。

日本食の行方 正调と创造のはざまで

寿司や刺身をはじめとして、日本食が日本人や日系人以外の人たちにも広く受け入れられるようになってきたことは歓迎すべきであろう。日本の食文化をとおして、日本文化へのさらなる関心を広めている侧面も十分に注意に値する。しかしその一方、课题も生れている。人気を博し利益が上がることから多くの参入者やライバルが现れたことである。それだけではない。いくつかの厄介な课题も现れた。
一つは日本人移民ないしは日系人との関わりである。アメリカの事例ではないが、笔者がその场にいて直接体験した出来事を绍介する。南米のある国に赴任した日本国総领事が地元の日系人主催のパーティに呼ばれた。その时は日系人有志が调理したスキヤキが提供された。この総领事にはそのスキヤキがお気に召さなかったらしい。「こんなものは锄焼きとは呼べない。今度公邸で本当の锄焼きを食べさせてあげよう」と言い放ったのである。これは锄焼きではないと言われた日系人の心情はいかほどのものであったか。しかしその场にいた一人の二世が现れこう返答した。「これはわたしたち日系人のスキヤキです」「公邸(日本)と同じ材料は揃いません。ですから同じようにはできません。そして味覚や嗜好も私たち日系人は、おそらく日本人とは违っていると思います。日本の锄焼きではなく日系のスキヤキなんです」。このエピソードから私たちは何を学ぶべきだろうか。食に限らず日系人という存在を考える上で、たいへん示唆に富む出来事だった。
もう一つの课题は、日本人や日系人以外の人たちによる日本食の乱造や创造である。バンクーバーやロサンゼルス、サンフランシスコといった日系人そして邦人が多い所では、非日系のオーナーが経営している日本食レストランもたいへん多い。どのような専门コースか详细は分からないが、2か月程度の速成コースで寿司职人や日本食料理人の「资格」を得た调理人もいるという。日本におけるその道のプロと比较のしようもないのは当然のことだ。日本食に人気があることから、日本食をメニューに入れるべく日本人の高级寿司职人や调理人を良い条件で契约し、ノウハウを吸収すると契约を解除する、といったような话もよく闻かれた。速成による乱造である。しかし问题はそれでも売れ、客が付くということだ。それゆえまたそうした店が広がっていく。そうなると本家としての沽券に関わり、格付けや认証といった必要性が検讨されるのもよく理解できる。
本家として正调としての日本食を维持すること、それは重要なことである。しかしその一方で、日系人のスキヤキのように日本以外の地に根付きそこで育まれた、いわば変容していった日本食も、日本食の范畴に入らないとは言いきれないように思う。よく例に引かれるカリフォルニア巻きのように本家日本においてもその评価を得ているものがあることを考えると、一概には判断できない。たいへん难しい问题だが、本家?正调としてのレベルや品质を広く普及させることが第一で、本流から外れていくものに対してもある程度は寛容の精神で见守り、时间の判断に任せることではないかという结论に到达せざるを得ない。その中で生き残っていくものも出てくるであろうし、それには一定の価値があるということなのだろう。
まだカリフォルニア巻きのような大ヒットは闻かれない。しかしアメリカ版日本食やブラジル版日本食の新种が现れてもおかしくない。というよりも现れてほしい。ちょうど日系人の中に日本人に似て日本人にはあらず、しかし日本と外国のエッセンスを微妙に织り交ぜ、日本の伝统も受け継いでいる、まさにオリジナルで魅力的な人物がいるように。

参考文献
  1. 1日米编集局『日米年鑑』(日米新闻社)第1巻(1905年)、第5巻(1909年)、第6巻(1910年)
  2. 2井上源之丞『北米年鑑』北米时事社、1936年
  3. 3籾井一剣『全米日系人住所録』新日本新闻社、1949年
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  5. 5永井松叁『日米文化交渉史 第5巻 移住编』洋々社、1955年
  6. 6加藤新一『米国日系人百年史』新日米新闻社、1961年
  7. 7松本延昌『しょうゆ物语』キッコーマン醤油株式会社、1976年
  8. 8社団法人日本缶詰协会监修『缶詰ラベル博物馆』2002年
  9. 9宫永孝『万延元年の遣米使节団』讲谈社、2005年
  10. 10茂木友叁郎『キッコーマンのグローバル経営』生产性出版、2007年
  11. 11宇治田宪彦『アメリカに日本食文化を开花させたサムライたち』灿叶出版社、2008年
  12. 12陈天璽、小林知子编『东アジアのディアスポラ』丛书グローバル?ディアスポラ1、明石书店、2011年
谢辞
この文章を执笔するにあたり、以下の方々(五十音顺、敬称略)から贵重なお话や情报をとおしてご支援いただき、たいへんお世话になった。これらの方々の証言なしにはこの文章は书けなかった。心から御礼を申し上げるとともに、そうした証言をまだ十分に生かし切れていない责任は笔者にある。今后さらに调査を重ね、研钻に努めて、移民の方々の歴史を発掘し记録していきたい。
榎本博行(JFC インターナショナル)、角野陽一(クラウン貿易株式会社)、藤田全弘(藤田缶詰株式会社)、Hiroshi Matsushima(安全商会), Yoji Matsushima, Homer Yasui, Yuka Yasui