研究機関誌「FOOD CULTURE No.21」世界の寿司のれん繁盛記
魅力満载な海外寿司事情叠搁滨颁蝉[前编]
既刊の本研究誌『FOOD CULTURE』No.12-14(2006-2007)に連載した「世界の寿司のれん繁盛記」ならびにNo.15(2007)「寿司の国際化」の続編を報告する。
私は2000年前半に北?中南米、アジア?オセアニア、そして欧州?中近东?アフリカなどを取材しこれまで报告してきたが、近年、富に势いのある新兴诸国(叠搁滨颁蝉)に注目し、当时最后に取材した南米ブラジルに加え、新たにロシア、インド、中国を访れたので、2回にわたり绍介する。
すし花盛りの东洋人街<ブラジル>
リベルダーテの东洋人街には、日本食品を売る店が轩を连ねている。サンパウロは今回で2回目だが、5年前の96年に来た时には见られなかったにぎりずしのパックが、冷蔵ケースに并べられていた。以前は巻きずしやいなりずしで生鱼のすしは无かった。
当时ちょうど开业したばかりだった「なんでもや」というポル?キロの店は「万珍谷食堂」という名に変わっていた。経営者が日本人から中国人に代わったのだそうだ。「ポル?キロ」というのは「キロ当り」という意味で、バイキングのように并べられた料理の中から好きなものを选んで皿に盛り、これを秤にのせて重さで料金を払うシステムになっている。食べ放题とは违って合理的で无駄が出ない。サラダ、ギョーザ、照り焼き、天ぷら、焼きめしなど日本料理が并ぶが、ここにも5年前にはなかったにぎりずしや刺身が加わっている。
それではサンパウロの「にぎりずし」の歴史は?
リベルダーデの外れにある人文科学研究所の森幸一研究员に话を闻いた。森さんはやはり5年前に『ブラジル食事情』の本を书いている。森さんによると、サンパウロで最初の日本レストランは1914年に始まった「上地旅馆」の食堂で、稲荷ずしはあったがにぎりずしは无かった。にぎりずしの登场は40年代半ばすぎの戦后になってからで、现在の巨大卸売市场「セアザ」の前身であるラッパ地区の市场の周りにあった店が、日本人の仲买人を相手に、にぎりずしを出していたという。
高野书店で貰ったサンパウロの街案内地図に、「日系最古のレストラン?日乃出」という広告が出ていた。そこでこの「日乃出」を访ねてみると、この店は35年前にオープンしたのだが、それ以前に「こけし」とか「えのもと」という店があったそうだ。「でもそれらが今はもう无くなってしまったので、结局ウチが今では最も古い店ということになっているんです」と「日乃出」の経営者は言う。
「こけし」は昨年クローズしたばかりだったが幸いにもそこの経営者だった八幡八朗さんに会うことが出来た。八幡さんは81才、1920年(大正9)に広岛の呉で生まれ、1才の时にブラジルに来たのだそうだ。ノロエステの商业学校で学んだ后、「ノロエステ民报」や「パウリスタ新闻」の印刷部门で働いた。そして1965年、新闻社を辞めて「こけし」を开いた。この当时すでに「翁ずし」「浜ずし」「ときわ」という店があり、また「こけし」の后に「えのもと」が出来たと八幡さんは言う。つまりサンパウロのすし屋の草分けは「翁ずし」や「浜ずし」ということになる。
八幡さんに开店当时に使っていたすし米について闻いてみた。今でこそ输入のカリフォルニア米や、以前(狈辞.15)にちょっとふれたブラジル、アルゼンチン、ウルグァイの3カ国にまたがる世界最大の水田地帯で穫れた日本米などが简単に手に入るが、昔はこうした米は无く「カテテ米でしたよ」と八幡さんは言う。カテテ米とはブラジル最南端のリオグランデ?ド?スル州(先の世界最大水田地帯の一部)にある稲作研究所「イルガ」が1930年顷に作り出したコメだ。在来のインディカ种に移民が日本から持って来た籾をかけ合わせて作ったのだ。普通に炊くとインディカ种の特徴でバラバラの饭になるが、炊き方によっては日本米の粘り気が出るのだそうだ。だから初めのうちは炊き方に随分苦労したと思う。
娘もサンパウロですし屋
1970年代になって日本から「サントリー」店がサンパウロに进出してきた。メキシコの海外1号店についてはすでに狈辞.12でふれたが、この1号店が现地で大成功したため、次はメキシコと似たような环境にあるブラジルが选ばれたようだ。それまでの日本レストランは、全て日本人移民が开业したもので客はほとんど日本人だった。だが「サントリー」店はブラジル人の上层阶级をターゲットとした。サンパウロの银座といわれているパウリスタ大通りのすぐ近くに最高级と言うに相応しい店を作った。ここならパウリスタに会社を构えている日本人驻在员がブラジル人の顾客を接待するのに便利だからだ。初めは日本人に连れられてやって来たブラジル人が、やがてブラジル人同士が仲间でやってくるようになった。ブラジルの日本食ブームの発端である。ただしこの时代、彼らが好んだのはすき焼きや天ぷらで、すしバーは设けていたもののすしは余り人気がなかった。
ブラジルのすしブームは80年代后半から始まった。アメリカのヘルシーブームがブラジルに伝わり、とりわけ「すしは健康食」という概念がブラジル人の间に浸透した。ブラジルの长距离バスの発着所「ティエテ」の隣に「ショッピングD」という大きなショッピングセンターがある。この2阶のフードコートにある「黒潮」という日本レストランを访ねた。あのパラグァイの「ニュートーキョー(狈辞.12后半に记载)」の滝本厳さんから「娘がサンパウロで日本レストランをやっているから、サンパウロに戻ったら是非寄ってみてくれ」と言われていたのだ。フラム移住地で生まれた娘の真実さんは、サンパウロでコンピューター技师をやっていた坂本宪司さんに嫁いでいた。だが结婚してしばらくして、宪司さんは会社を辞めることにした。コンピューターの味気ない仕事にいや気がさしたとのことだ。それで同じような悩みを抱えていた技师仲间と相谈し合い、共同で当时流行しつつあったすし屋をやることにした。ただし他の人と同じことをやっても面白くないので、それまで谁もやったことのないショッピングセンターの中に出店することになった。1994年のことだ。するとこの店が大当りで大繁盛したが、やがて宪司さんはこの店を抜け、独立して一人で别な场所で店を开けることになった。「黒潮」である。この时、前の店の开店当初からすしを握っていたブラジル人のマニエル君を连れてきた。このマニエル君は腕がよかったこともあって、「黒潮」も大いに賑わった。ショッピッグセンターは年中无休なので大変だ。宪司さん一人ではとても无理なので、真実さんも交代で店に出るようになった。真実さんは初めはすし屋に反対していた。パラグァイでお父さんが苦労しているのを目のあたりにしていたからである。だが店が繁盛しているので今は楽しそうに働いている。
鱼はセアザ市场で仕入れている日本人の鱼屋から买っているそうだ。セアザには近海のブリ、タイ、スズキ、平目、アジ、それにチリからのサーモンなどが集まってくる。マグロはサントスやリオデジャネイロの港から出た船が20日间くらいかけて获ってくるバチやキハダだ。しかし上质のものはアメリカや日本に输出されてしまうので、いいマグロの确保が大変だと宪司さんは言う。ところで売上げは3年前ごろがピークだったそうだ。日本に出稼ぎに行き、金を贮めて戻ってきた人たちが、すし屋は储かるらしいと続々と店を开いてきたからだ。この2001年当时、350轩の日本レストランに、「ポル?キロ」などの店を加えるとサンパウロですしを出すところは600轩を超えているのではないかと宪司さんは推定している。
ロシアの代りにウクライナ<ロシア>
ポーランドのワルシャワまで行った时に、本当はモスクワまで足を伸ばしたかったのだが、ロシアのビザをとるのは手続きが大変なので、行くのをあきらめた、という话は以前(狈辞.14)でした。しかし、すしブームといわれているモスクワを是非见てみたい。――だがビザが面倒だ!と堂々巡りで悩んでいるうちにふとひらめいた。
「そうだ。ウクライナがあるじゃないか」
ウクライナはロシアのすぐ隣で、1991年までは同じソ连邦だったのだ。そしてモスクワのすしチェーンの进出もあって、今はすしブームのたけなわだという。ウクライナは観光ならビザは要らない。ウクライナに行けばモスクワのすし事情も少しは入ってくるだろうと準备をしていたら、愿ってもない话が飞び込んできた。
キッコーマンの国际食文化研究センターが、ドイツのキッコーマントレーディングヨーロッパ社でロシアを担当している驻在员の泽野润一さんを绍介してくれるというのだ。泽野さんという人は频繁に、デュッセルドルフからモスクワに通っているというから、モスクワのすし事情を知るのにこれほど最适な人はいない。というわけで2010年9月末、まずブリュッセルに飞び「ベルギー竹寿司」から泽野さんに电话してウクライナの话を闻いた。ウクライナも泽野さんの担当なのだ。
「モスクワからは&濒诲辩耻辞;ヤキトリ&谤诲辩耻辞;&濒诲辩耻辞;プラネッタスシ&谤诲辩耻辞;&濒诲辩耻辞;タヌキ&谤诲辩耻辞;などがチェーン进出しています。地元のチェーンで一番大きいのは&濒诲辩耻辞;スシヤ&谤诲辩耻辞;です」
モスクワのすしについてはウクライナから戻ってじっくり闻くとして、ブリュッセルからワルシャワ経由でキエフに飞んだ。狈辞.14でブリュッセルからワルシャワまで列车で18时间かかった话をしたが、今回はあっ気なく着いてしまった。
キエフで一番にぎやかだといわれるフレシチャーチク通りのすぐそばに宿をとり、宿の近くにある「スシヤ」を访ねた。ところが宿で教えられた场所に行ってもすし屋らしき店がない。ファミリーレストランのような店はある。もしかすると、「スシヤ」はこの店に変わってしまったのか?もちろん看板が出ているがキリル文字なのでわからない。道行く人に访ねるが皆な首を振る。英语が通じないのだ。
ようやく若い学生らしい人が来たので闻くと英语を话してくれて、この店が「スシヤ」だと先程のファミレスを指すではないか。
恐る恐るドアを开けると「イラシャイマセ!」という日本语の声が重なって飞び込んできた。客が来ると若い女性のウェイトレス达の全员が一斉に声を张り上げるのだ。内装も本当にファミレスとそっくり同じである。ただ、すしカウンターが一段高い所にあってすしを作っている様子を见せているのが违うだけだ。板前はウクライナ人で、ネタケースは置いてあるがカウンターの前に席はない。すなわちこのカウンターは一种のショー的効果を狙ってのためだ。
メニューにはすしの美しい写真にキリル文字が添えられているが、その下に英语も书いてある。看板にも英语を书いておいてくれれば心配しなくて済んだのに。
にぎりはマグロ、サーモン、エビ、タイ、帆立贝、イクラなど种类は少ない。これは冷冻のきくすしネタを选んでいるからだろう。その代わり巻きずしの种类の多いこと。鉄火巻やかっぱ巻に始まって、いわゆる创作ロールが并ぶ。カリフォルニアロール、フィラデルフィアロール、アラスカロール、ドラゴンロール、エビ天ロール等々。値段はマグロが1かんで13グリヴナ(1ドル=约8グリヴナ)、サーモン8グリヴナ、イクラ15グリヴナとちょっと高いが、ロールは鉄火巻の1本13グリヴナからドラゴンロール75グリヴナの间の手顷な価格に収まっている。(后で食べた、マクドナルドのフィッシュバーガーのセットは40グリヴナだった)。店内を见回すとにぎりを食べている人はなく、ほとんどがロールずしを食べている。観光客ではない、全部地元の人だ。夕方だったので会社帰りの翱尝たちが连れ立って来ている。流行っている。
ホテルに戻ってロビーに置いてあったキエフ市内の観光案内誌を読んだら、レストランの页にこの「スシヤ」が市内に7店あると书いてあった。
モスクワからも进出
モスクワから进出してきたという「プラネッタスシ」は案内誌には4店载っている。フレシチャーチク通りの店を访ねてみた。ランチタイムだが客は谁もいない。メニューを见せて貰うと、「スシヤ」より高い。マグロ21グリヴナ、サーモン15グリヴナ、イクラ19グリヴナなどとなっている。すしダネは一括してモスクワからキエフのチェーン店に运んでいるのだろうか。それでこうした値段になっているのだろうか。これでは客はすぐ近くの「スシヤ」の方へ行ってしまう。
「ムラカミ」は「プラネッタスシ」のすぐ隣で地下の店だが、外の立看板にすしの写真と「村神」という汉字が书いてあるのですぐわかる。内装は高级だ。地下におりて行き、照明もちょっと落としているのでナイトクラブのような雰囲気だ。すしカウンターには4~5人の板前がいる。ここも全员ウクライナ人だ。やはりカウンター席はない。
マグロ、サーモン、タイ、トビコの4かんを注文してみる。実はこのトビコはイクラの卵のつもりで頼んだのだがトビコがきてしまった。「イクラ」はロシア语で「鱼の卵」という意味だからトビコでも间违いではない(同じ鱼の卵であるキャビアと间违えてくれればよかったのだが)。ちゃんとしたにぎりだ。それに値段もこの4かんで50グリヴナと「スシヤ」と、そう変わらない。案内誌にはこのチェーンが7店载っていたが、マネージャーに闻くともう10店を超えたと言う。つまり「スシヤ」を抜いたわけだ。キエフで今一番流行っているチェーンである。
「プレミアパレス」ホテルは、ウクライナで初めて5つ星を貰った最高级ホテルだ。この中に日本レストラン「スモウサン」がある。ここはすしカウンターの前に椅子席があって、お好みで食べられる本格派だ。しかし握っているのは日本人ではなくモスクワ生まれの韩国系ロシア人金(キム)さんだ。この店はキエフの他にロンドンとモスクワにもあり、いずれも最高级ホテルの中に入っていて、オーナーはドイツ人だと金さんが教えてくれた。金さんはモスクワ店に5年いて、それからここに来て5年になるという。またロンドンの店には日本人の板前が2人いて、交代でモスクワとキエフに日本料理の技术を教えて回っているそうだ。
さすがに値段は高い。マグロとサーモンが1かんで88グリヴナ、トロだと127グリヴナになる。ここには本当のキャビアがある。1かんが267グリヴナだ。ドバイで食べたキャビアを思い出す。
マグロは地中海マグロやボストンマグロをモスクワの店が输入し、その一部をキエフに送ってくる。ハマチは韩国からモスクワ、そしてキエフにも送ってくるそうだ。そうした费用にホテルの高いテナント料がかかるのだから、すしが高くなるのもやむを得ない。しかし店が続いているからにはこうしたすしの需要があるわけだ。もっとも地元の人ではなくビジネスや観光目当ての外国人客が相手だそうだ。
モスクワにはすし屋が1,000店
キエフからブリュッセルに戻り、「ベルギー竹寿司」で泽野さんに会う。デュッセルドルフからわざわざ出向いてくれたのだ。普通なら车で2时间ほどなのだが、この日は渋滞がひどくて4时间かかったという。申し訳ない。まあ「ベルギー竹寿司」もキッコーマンしょうゆを使っているお得意さんということで勘弁して貰おう。
モスクワのすしブームについては、新闻や雑誌などから様々な情报を得ていた。プーチン首相のすし好きから、わざわざ自家用机で来日し、银座のすし屋を贷し切りにしてすしを食べ、その日のうちに帰国したとか、やれモスクワでのパーティーのために日本から职人を连れ帰ったとか。まあマスコミだからこうした派手な话をとり上げるのはわかる。しかしもっと実情に即した话を闻きたい。
まずはその前にロシア语というかキリル文字について教えを请わねばならない。泽野さんは大学でロシア语を専攻したのだ。例の「スシ」だが、キリル文字では「СУШИ」と书くのだそうだ。「С」がアルファベットの「厂」、「У」が「鲍」、「Ш」が「厂贬」、そして「И」が「滨」で、「厂鲍厂贬滨」になる。それから「スシヤ」の看板には最后に「Я」という文字がついていた。この「Я」は「驰补」と発音する。それで「スシヤ」になるわけだが、私は例えば「トイザラス」のロゴのように、わざと搁をひっくり返しているのかと思っていた。
泽野さんに一番闻きたかったのは、新闻记事などに见る「モスクワにはすし店が1000轩」というのは本当なのか?ということだ。「500轩」と书いている记事もあるが、500はともかく1000という数字はどうしても信じられないのだ。
「本格的な日本料理店というかすし屋はほんの一握り、10轩ほどですが、〝ヤキトリヤ&笔谤颈尘别;や〝プラネッタ&笔谤颈尘别;がモスクワだけでそれぞれ50店、〝タヌキ&笔谤颈尘别;が20店、それと似たような店がいたる所にありますよ。モスクワではありませんが、サンクトペテルブルグには〝ユーラシア&笔谤颈尘别;という50店を展开しているチェーンも出来ています。それからイタリア料理や中国料理の店でもすしを出していますから、こういう所を入れたら1000轩は夸张ではないでしょう」
その本格的な日本レストランのひとつにロシア大统领府が运営している「美郷(みさと)」がある。ここの料理长の伴宗亲さんは优秀な料理人しか入会を认めない「シェフギルド」に、日本人として初めて入会を许されたという。泽野さんが「伴さんは&濒诲辩耻辞;美郷&谤诲辩耻辞;の前は&濒诲辩耻辞;セイジ&谤诲辩耻辞;にいたんですよ」と教えてくれたが、その「セイジ(诚司)」は2001年のオープンで、今ではモスクワで一番と言われている。鱼は筑地から直输入だそうだ。また、この店では一晩で10万円を使う常连客が150人は下らないというから凄い。
ところがモスクワのすし屋はもう饱和状态らしい。
「キッコーマンや日本大使馆が主催して、ロシア人シェフを相手に讲习会をやるんですが、最近はもうすしはいいから何か他の日本料理を教えてくれと言う声が多いんですよ」それでポスト?スシを狙ってうどん屋やラーメン屋が诞生しているそうだ。すし屋が下火になったというのではない。すし屋に加えてうどん屋などが増えつつあるということだ。
まあキッコーマンにとってはしょうゆを使う客が増えるので结构なことだと思う。
叠搁滨颁蝉中の滨颁(インド、中国)については[后编]として次号に掲载の予定です。ご期待ください。

1942年东京生まれ。东京大学农学部卒业。サッポロビール入社。1969年に退社后、ニューヨークへ渡る。レストラン「日本」の仕入れ係の仕事がきっかけで、鱼卸商に従事。1975年、ニューヨークで最初の寿司専门店「竹寿司」を开店。现在、「ベルギー竹寿司」経営のかたわら食文化研究家として世界各地を取材。着书に『お寿司、地球を廻る』(光文社)、『おいしいアメリカ见つけた』(筑摩书房)、『ニューヨーク竹寿司物语』(朝日新闻社)、『サムライ使节団 欧罗巴を食す』(现代书馆)、『ニューヨーク変わりゆく街の食文化』(明石书店)などがある














