研究機関誌「FOOD CULTURE No.18」食文化を支える脇役たち-(叁)俎板(まないた)の歴史
食文化を支える脇役たち-(叁)俎板(まないた)の歴史
古い时代、我われの先祖は鱼介类だけではなく、肉类、野菜类の副食全てを「肴(な)」と呼んでいた。なかでも动物系だけは本格的な食べ物という意味合いで「まな(真鱼)」と言っていた。この「真鱼」を料理し、神前に供えるために用いた板や台が「まないた」で、字は「俎」、「俎板」、「まな板」となる。つまり「俎」の偏(部首)の「仌(ひと)」は肉を、つくりの「且(そ)」は神前に肉を供える台を意味している。
「俎板」は、私たちの调理に欠かせないものだが、その割にはわが国での生い立ちや由来について驯染みが薄い存在だ。今回、その歴史的推移を検証してみることにする。
中世期にみる俎板と庖丁
现在の「俎板」は平たい板が一般的だが、元来は厚みのある「台」が元の形であった。史料絵画に描かれているものの中に、厚みのある外形で表面が蒲鉾状に膨らんだものが登场するが、これが「俎板」の古い形と考えられている。
かつて朝廷の料理人は「切机」とも呼ばれる台を用いて、座机(机の前で正座する姿势)の様式で调理を行なっていた。このような姿势で分厚い肉や骨を切り刻むのはかなり无理があることは明瞭である。そこで、座った姿势でも庖丁に力が入るよう「切机」の中心部に蒲鉾状の膨らみをつけ、その稜线を巧みに使い、庖丁への力を一点に集中させて、平坦面では切りえない动物や鱼の坚い骨や筋を砕いたり、切り离すのを容易にしていたと推察することができる。
奈良时代の法典『延喜式』(927年)によると、天皇の御前を司っていた内膳司には、长さ3尺(约90.9センチ)、奥行1尺7寸(约51.5センチ)、高さ8寸(约24.2センチ)、厚さ8分(约2.4センチ)の俎板が16种も常备されていたという。それらは和え物、肴、鲜鱼、菜、菓子(唐菓子や栗、橘、柿等の木菓子)など7つの用途に分けられていて、座机の様式で使われていた。こうしたことから、「切机」と呼ぶこともあった。この様式は、平安贵族の宴会(饗宴)で鲤(こい)庖丁や雉(きじ)庖丁を演じる台(脚付の俎板)としても登场している。
それでは时代を追って、その时代に描かれた史料絵画を参考にして、俎板の形状と调理の方法などを観察してゆく。
最初に绍介するのは、史料絵画の中で俎板が登场する初期のものとして知られている『粉河寺(こかわじ)縁起?一段』(平安时代后半の作)の场面は、奈良时代后期の纪伊国(现在の和歌山県)である。猟师の家に脚の付いた大きな平坦面の俎板が据えてあり、猟师が获物の鹿を调理していることが分かる。男は左手に箸を持ち、俎板の右端には庖丁が置かれている。俎板の上で鹿を解体したのではなく、鹿肉の一部を调理しているのであろう。
次に绍介する絵では、表面が蒲鉾状の俎板が登场する。
絵仏师?大辅法眼尊智(たゆうほうげんそんち)作『松崎天神縁起?巻五』(鎌仓时代后期の作)で、铜细工师の家で口髭をたくわえた男が俎板の上で鱼を切り刻み、それを五徳の上に锅が置かれた囲炉里の縁に立てている。この俎板は表面が蒲鉾のように丸みをもっている。家族なのか、串を削る男と、囲炉里の火の番をしている子どもや、女性の姿も部屋の隅に描かれている。
高阶隆兼画の『春日権现験记絵?巻十叁』(鎌仓时代后期の作)では、粟田口(京都)の青莲院に稚児奉公する少年の自宅の厨房で使用人たちが调理中である。锅をかけた囲炉里の脇では、表面が平らな俎板の上に载せた莲根を直接手で抑え庖丁で切っている。これは、おそらく野菜専用の俎板であろうかと思われる。
その理由は、当时动物を手で直接触って调理することは不浄とされていたが、野菜类は関係ないという解釈からなのだろう。
沙弥如心(しゃみにょしん)画の『慕帰絵词(ぼきえことば)?巻五』(観応2年〈1351〉の作)には本愿寺叁世覚如(かくじょ)の屋敷の厨(くりや)の絵がある。多くの使用人や弟子たちが饗応の準备におおわらわである。一人は反った形で低い脚が付いた正方形の俎板の上で、まな箸と庖丁を使い鲤を捌いている。その様子は庖丁仪式の仕草と同じようにみえる。
庖丁师と庖丁式の出现
中世前期の武家社会になると鸟獣を调理する行為自体が仪礼化して定着した。そして、室町时代には庖丁师なる専门职人が辈出し、调理法も単に「割(かつ)」(切る)だけから、「割」と「烹(ほう)」(煮る)による调理へと拡がった。
この庖丁师による仪礼化の元祖といわれるのが、『四条流庖丁书』である。この书は、延徳元年(1489)に、四条中纳言藤原山荫(やまかげ)が定めた庖丁式を多治见备后守贞贤(たじみびんごのかみさだかた)が编纂したものとされている。これにより、调理が仪式的な作法により?切る様式调理&谤诲辩耻辞;だけではなく?见せる様式调理&谤诲辩耻辞;に変化したと考えられる。
そして派生する各流派の特徴は、作法や仕来(しきた)りのみならず、俎板の寸法にまで及んでいた。
例えば四条流は长さ2尺7寸5分(约83.3センチ)、大草流は3尺3寸5分(约101.5センチ)という具合である。この庖丁仪式は现代でも报恩寺(东京?台东区)で1月の「俎开き」行事などに継承されている。
伝?扫部助(かもんのすけ)久国『酒饭论(しゅはんろん)絵词』(室町?桃山时代の作)は、地位の高い武士层のための宴会の準备を描いたものである。
まず、俎板が叁つ置かれている。手前で作业している人物は、縁侧に腰掛けて平たい俎板の上で鸟の羽をむしっている。
部屋では二人の庖丁师が、脚の付いた俎板で宴会用の调理を始めていて、一人は鸟を、もう一人は鱼を调理している。庖丁师の脇には、内臓が取り出され鳞も削り取られて下拵えが済んだ鱼が容器に置かれている。
このように、食材の种类别(鸟獣、鱼、野菜など)に専用の俎板が使用されていたことが推测できる。
『豊国祭礼図』(17世纪初头の作)は、庆长9年(1604)の豊国临时祭を描いたものだとされている。野外に设営された幕の内で祭礼、もしくは饗宴の準备が行なわれている风景である。
そこで庖丁师が四本脚の俎板で鲤を调理している姿が描かれている。庖丁式が屋外で催されている例である。
次の絵は、様々な俎板の使用や调理の场面が一つの屏风(十曲一隻)に描かれている贵重な史料絵画としてご绍介する。
屏风全体では、俎板を使っている场面が9例も描かれており、いずれも宴席での料理を専门に扱う庖丁师が携わっているが、この誌面では、その一部分(2轩の板场での调理风景)について検証する。
川に面した游里の板场では、袄ひとつ隔てた扬屋への仕出しの準备に大わらわの料理人の様子が克明に描かれている。调理に携わっている人たちはだれも武士の装束をしていないことから、市井の専门职としての庖丁师たちであることが判る。
まず左の部屋の庖丁师は、长方形でやや大型の表面が蒲鉾型の脚付き俎板の上で、まな箸を使い鲤を调理している。切断された鱼の头は俎板の隅に作法通りに立てて置いてある。
右の部屋には二つの脚付き俎板が描かれている。そこで一人は大きな鱼を调理し、もう一人は根菜类と思われる物を切っている。
同じく右の部屋の片隅では、丸みを帯びた俎板らしき台が使われている。それは丸い台のようでもあり、现在でも中国料理の厨房で目にする木の切り株のようだ。その上で二人の男が素手で血だらけの鸟を捌いている。奇妙な光景である。
左の部屋の片隅には、擂鉢(すりばち)らしき器を素足でかかえながら练り物を调理している男や、白い角张った调理済みの料理をお盆に载せて运ぶ男、中央では水桶を运ぶ女性の姿や扇子を手に上半身を肌け、火の上の焼き物の焦げ具合を见守っている男がいる。一方、右の部屋の奥で、焼き物用の炭を扇子と火箸で火を炽(おこ)している姿などからも、この絵は江戸时代初期大坂の食の豊かさのみならず、庶民文化の逞しさなど多くのことを活写していることが判る。
江戸庶民文化と俎板
开府后の江戸の町は、京の文化とは异なる様相を呈することとなる。徳川家康による天下普请の大工事を皮切りに、全国から土木、大工などを中心とする様々な専门职人达の流入を促进させ、各种产业の勃兴と経済の発展を促した。
やがては江戸が百万を超す巨大消费都市へと変貌していくなかで、料理をはじめとする食文化の豊かさが大いに花ひらいていった。
その好例として、わが国初の料理本とされている『料理物语』(寛永20年〈1643〉の作)では、「庖丁きりかたの式法によらず」とあり、これは室町时代に出现した庖丁式や庖丁师の仕来(しきた)りを否定するものである。
そしてその后に出版された『女诸礼綾锦(おんなしょれいあやにしき)』(宝暦5年〈1755〉の作)や、『女寿蓬莱台(おんなことぶきほうらいだい)』(文政2年〈1819〉の作)では、それまで女性の庖丁师は皆无であり女性がまな箸を使って鱼を调理する姿もなかったが、この絵でもわかるように女性が庖丁とまな箸の使用をいかにも奨めるかのように描かれている。このような女性を対象とした料理等に関するハウツー本が多く出版される时代となった。
これまでは俎板の形状や寸法等を中心に絵を绍介してきたが、次に江戸町人が生活や仕事を通して身につけた俎板の便利な使用方法をご绍介する。下図は葛饰北斎の『东海道 彩色摺 五拾叁次 いしべ』(享和?文化期の作)に描かれた俎板である。この场面は琵琶湖に近い「石部宿」を描いたもので、女性が片膝を立て俎板の上で野菜の类(たぐ)いを调理している。下駄の歯のような形の脚付き俎板だが、その下には桶が置いてある。桶を使用する理由は、调理しやすい高さの调整なのかも知れない。
そして山东京伝の『四季交加(しきのゆきかい)』(寛政10年〈1798〉の作)の初鰹売りは、小振りで厚みも薄い俎板を篭に载せて持ち歩いている。商売上里长屋の狭い路地を行ったり来たりするには便利なように工夫を凝らしたものであろう。
法桥関月(ほうきょうかんげつ)の『日本山海名产図会』(寛政11年〈1799〉の作)でも、土佐の渔村で渔民たちが総出で鰹を调理している。彼らは桶の上に脚のない俎板を渡して动きやすい立ち姿で作业をしているのである。
また大蔵永常着の『日用助食 灶(かまど)の賑ひ』(天保4年〈1833〉の作)や渍物屋の主人が着したという『渍物早指南』(天保7年〈1836〉の作)では、ありふれた庶民の生活を表现したもので、下駄の歯のような形をした脚を付けた小型の俎板で调理をしている。これは今までの庖丁师が使用していたものとは比较にならないほど小型になっている。
新时代の俎板
脱亜入欧を旗印に、西欧化の道を突き进んだ明治政府は、国民の生活にも机?椅子の普及を推进させたのだが、明治の后半までは都市部であってもその大半は、いままで通りの正座式で俎板を活用していた。
それでも新时代は、(1)女性の家事労働の軽减、(2)卫生観念の彻底、(3)母から娘へ伝えられてきた调理から、学校などで学ぶ调理へと移行していった。いわゆる台所革命である。この波は大正、昭和の时代を迎えるとますます本格化していった。
つまり膳文化(本誌前号に记载)で见てきたとおり、一般家庭内でのテーブルや椅子などの普及により日本人の生活が、「座る」から「立つ」生活へと変化が起こっていた。
一方俎板は、今まで素材が木製のものが主役であったが、昭和40年代に入ると脚も厚さもなくなり、プラスチックを素材とする小型なものが主流となって今日に至るのである。
俎板进化论
现在、キッチンコーナーなどの売り场を注意深く観察してみると、最近では切った食材を手で掴まず、俎板から直接锅などに投入することのできる、折れ曲がる素材の「俎板」が登场している。
さらに、絵を描くときのパレットのような小型の「俎板」もある。そこに亲指を指し、豆腐などをこまめに切り分けてそのまま锅に入れてしまう。その光景は、割烹着の母亲が掌の上で豆腐を赛(さい)の目に切り、それを味噌汁锅に入れていた姿を彷彿とさせるものがある。若い主妇や単身者に评判が良いという。
最后に、「俎板の歴史」をまとめてみると、どんな料理にも食材を加工调理する段阶が必要となる。このときの道具が作业台(俎板)と庖丁である。
つまり庖丁を用いて食材を切るなど调理をする际、必ず台(俎板)上で切らなければ、目的通りの料理は作れないだろうし、ひいては満足な食生活を営むことができないだろう。しかしその一方で、调理するという行為の中で俎板だけが独立して存在するものではない。あくまでも庖丁と一体化して存在するものである。そのように考えると、私たちが満足のいく食生活を送るうえで、庖丁と共に俎板の存在は意外に重要な存在であることが判る。
たかが「俎板」、されど「俎板」なのである。
- 1『まな板』(石村眞一着、法政大学出版局、二○○六年)
- 2『日本絵巻大成』(小松茂美编、中央公论社、一九八六年)
- 3『続日本絵巻大成』(小松茂美编、中央公论社、一九九〇年?一九九一年及び一九九二年)
- 4『日本大百科全书』(小学馆、一九九四年)
- 5『世界大百科事典』(平凡社、一九八六年)
- 6『群书类従巻第叁百六十五「四条流庖丁书」』(続群书类従完成会、一九四二年)
- 7『料理物语』(平野雅章訳、教育新书、一九八八年
- 8『鱼食の民』(长崎福叁着、讲谈社学术文库、二〇〇一年)









