研究機関誌「FOOD CULTURE No.17」食文化を支える脇役たち(二)お膳(食卓)の起源と変迁
食文化を支える脇役たち(二)お膳(食卓)の起源と変迁
日本の「食」は、中国をはじめさまざまな国の食文化を受容し、融合し合いながら独自の文化として発达し、现在にいたっている。
そして食文化を构成する要素は食材だけではない。その発达を支えたのは调味料や调理道具であり、食具や什器类にいたる脇役たちの存在を疎(おろそ)かにすることはできない。
今回は、「お膳」を取り上げ、古代から今日までの変迁をたどりながら、日本の食文化を探ってみる。
「膳」の文字は神话から
まず「膳」の文字の初出は『日本书纪』である。
『日本书纪』によると、第12代景行天皇が皇子?日本武尊の东国平定の事绩を偲び、安房国(现在の千叶県南部)の水门(みなと)に行幸された折に、侍臣の盘鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)が、弓の弦で钓った鰹と、浜辺で採った白蛤を膾に仕立て献上したところ、天皇は大いに赏翫(しょうがん)されて、その料理の技を厚く赏され、盘鹿六雁命は膳大伴部の名を赐ったことが、盘鹿六雁命の子孙高桥氏の「高桥氏文」に书き残されている。
またこの功により、盘鹿六雁命は若狭国と安房国の长と定められ、以降代々子孙に「膳の职」が引き継がれている。
また宫中の醤院(ひしおつかさ)では、磐鹿六雁命を大いなる瓶(かめ=べ)に例え、醤油醸造?调味料の神「高倍(たかべ)神」として祀っている。醤(ひしお)には、穀物を塩渍けにして発酵させた穀醤(こくびしお)、野菜を塩渍けにして発酵させた草醤(くさびしお)、鱼などを発酵させた鱼醤(ししびしお)があった。
今でいう、味噌?醤油、渍け物、塩辛であるが、これは日本料理の基础をなすものであり、磐鹿六雁命が料理の祖神とされる由縁である。
汉字の「膳」は大和言叶で「かしわで」と読んでいた。これは古代に柏の叶に食物を盛ったことの名残りだが、汉字の「膳」が伝来した折には「かしわで」と読む训があてられたのである。
后世になると、この训は廃(すた)れ使われなくなり「膳」の音読みだけが、以下の要领で使われ続けてきている。(1)箸をはじめ食器や饮食物を载せる台(食膳)の総称として、(2)食物を供える、喰う、食たべる行為に、(3)一の膳、二の膳といった料理の种类や豪华さの象徴として、(4)食器に盛った饭の数や一対の箸の数、そして(5)「お膳を用意する、お膳を片付ける、配膳をする、お膳を跨(また)がない、お膳をひっくり返す」などの生活の所作や、さらに(6)「上げ膳」や「据え膳」、「お膳立て」などの言叶にいたっては、社会生活全般に欠くことのできない惯用句となって、今日でも幅広く使われているのである。
高坏(たかつき)の登场と手食
わが国でも箸食が普及する以前に、手食(食物を指で摘んで口にする方法)の习惯があったと考えられる。弥生期(3世纪の初头)邪马台国の女王卑弥呼の时代。中国(西普时代)の陈寿という人物により3世纪末顷に书かれた文献『魏书东夷伝』の本文中に、当时のわが国の先人たちの生活の一部を垣间见ることができる记述がある。
「倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。屋室(おくしつ)もあり、父母兄弟は寝たり休息をとったりする场所を异にする。饮食には高坏(たかつき)を用い手で食べる」とある。时代は弥生时代の后期で、住まいは高床式であったことから、板张りの床に直にあぐらをかいて座り、高坏に盛ったであろう饮食物を指で直接口に运んでいたものと思われる。
『魏书东夷伝』にある高坏は奈良时代までは土器が主体であり、他の坏(つき)や皿や碗と同様に食器であった。その坏に高い脚を付けた高坏が大陆から伝来したところから、わが国のお膳や食卓の歴史が始まった。少しでも床から高い位置に置くことによって卫生的になることもさることながら、高いことが権威や礼仪を表すようになり、尊重されるようになったのである。
その一方では、奈良时代に食器を载せる板だけの方形の「板折敷(いたおしき)」なるものが出てきて、平常の食事に用いられた。おそらく卫生的、利便性などから考えだされたのであろう。その様は春日光长が描いたと伝えられる『病草纸』に见られるが、后世のお盆のような物と见てよい。板折敷は檜(ひのき)の削木(へぎ:薄い板)で作り、食器が落ちないように板の周りに縁を付けた。语源については、古代において柏などの木の叶を折り敷いて食器としたところから「折敷(おしき)」という説と、食し物を载せる敷物(しきもの)という意味の「食敷(おしき)」という説がある。形状は、四角な「平折敷(ひらおしき)」、四隅を切った「角切(すみきり)折敷」、后代の膳のように脚の付いた「足打(あしうち)折敷」(木具<きぐ>膳)などがあった。当然ながら脚の付いた物は目上の人に用いていた。
そして、このお盆のような折敷はやはり高い脚を求めてか、土器の高坏に载せられて、「折敷高坏(おしきたかつき)」となった。『紫式部日记絵词』(伝藤原信実)には中宫彰子の室の、面が朱色で脚は黒涂りの台盘(だいばん)叁脚の上の「折敷高坏」や「御盘」が描かれている。「台盘」とは今でいうテーブルか机のような物で、そのうちの一つの台盘の上に白木の「折敷高坏」2台、もう一つの台盘の上に白木の「御盘」3台が载っており、食べ物が高盛りになっている。こうした高坏に折敷を载せただけの折敷高坏はやがて一体となって木製高坏や涂高坏となり、これが主流となっていく。それらは『信贵山縁起』(伝鸟羽僧正)にある四角い漆高杯のように、普通は上面が朱漆涂、外侧と脚は黒漆涂りであった。『春日権现记絵巻』(高阶隆兼)第十叁の、勧修院寺晴雅律师の実家の厨房にも四角の高坏に料理を盛ってある。また『伴大纳言絵词』(常磐源二光长)下巻では大纳言家の漆涂りの「円高坏(まるたかつき)」を描いているので、高坏には円い坏と四角い高坏があったようである。
他にも、『慕帰絵词(ぼきえことば)』(沙弥如心)の巻二では、浄珍僧正の室に料理を盛った白木の「衝重(ついがさね)」が2个并んでいる。巻五では、覚如の家の厨房は饗応の準备に大わらわだ。巻六では、北野社の拝殿の诗歌の会の宴での酒肴を盛った白木の悬盘(かけばん)が见られる。巻八では、大原の往生极楽院(现在の叁千院)に隣接する胜林院の厨房の棚に様々な食器が并んでいる。衝重というのは、白木で作った方形の折敷に削木板(へぎいた)を折曲げた台を付けたものをいう。四方に穴のあいた「四方(しほう)」や、叁方に穴のあいた「叁方(さんぽう)」も「衝重」の一种であるが、现代でも寺社で一般的に使われている。「悬盘(かけばん)」は、盘を台の上に载せた物という意味であり、これも食器を载せる台である。なお、当时は「悬盘」が「衝重」より高级调度品だった。
また、『年中行事絵巻』巻五「内宴」では、仁寿殿における献诗被讲の场面に朱涂りの「台盘」が描かれてある。台盘は四脚横长の机のような物で、幅広の縁が付いていて、表面は朱漆涂りである。『宇津保物语』、『源氏物语』(须磨の巻)、『栄花物语』などにも登场し、大きさ120センチの一人用の「切台盘」、大きさ240センチの二人用「长台盘」、その中间の180センチの「弘台盘」があったが、いずれも仪式用であり、普段は「折敷」、「高坏」、「叁方」、「悬盘」だけが用いられていた。
こうした食器を載せる台は、公家は漆製、寺社では白木製を使っていた。また銘銘で使用する物ではあるが、その際は一人一台とはかぎらず、一人の前に数台置くこともあった。 これら高坏、三方、懸盤など食器を載せる台は、当時すでに台盤やあるいは仏事関係の立派な机のような物が存在していたにもかかわらず、全て薄い板を使っていた。その理由は、さらに古代において薄い柏の葉一枚が膳だったころの名残だといわれている。
ともあれ、このような食器を载せる台は檜などの薄い削木板を折り曲げて作っていたのを総じて「曲物(まげもの)」または「檜物(ひもの)」と言い、それを作る职人を檜物师(ひものし)と称していた。しかし、次の时代には替わって挽物师(ひきものし:木地师<きじし>)、指物师(さしものし)たちが登场することになる。
膳の登场
质実刚健さが新时代を切りひらく原动力となった鎌仓时代、その武家たちの食事は简素なものであった。宗教にあっては、简明実行的な新仏教、とくに禅宗が好まれたが、それは修行によって心身を锻练するという厳しいものであった。とうぜん食事を作ることも、顶くことも修行とされ、内容は一汁一菜に香の物というのが基本であった。
ただ客膳料理は、その枠をこえた饗応が行われたのであるが、そこから现在の日本料理の芽生えともいえる「精进料理」が生まれた。その特色は、动物性食品を用いず、蛋白质源に大豆製品や种実类を多用するが、食器を载せる台は前代と変わらぬ物が使われていた。
『酒饭论絵巻』(伝扫部助久国)は、酒好きの男と、饭好きの男、そして酒も饭もほどほどに好む男の3人が、酒?饭についての持论を展开するという有名な絵巻であるが、ひとつの场面では、僧侣と稚児が畳敷の间で食事している。白木の叁方に载せられている赤い食器は漆涂りで、ご饭は大盛りだが、食材に生臭いものはなさそうである。おそらく精进料理だろう。漆器の鎌仓彫はこのころから始まったが、この时代の食器は木製で、挽物(ひきもの)师(轆轤<ろくろ>师、木地<きじ>师)と呼ばれる职人が作っていた。
続く足利氏は京に都をおいて文化の高扬につとめたため、料理法や食事作法、配膳などが进展していき、食器も変化あるものが多くなってきた。そして南北朝期になると饗応料理としての「本膳料理」が确立した。前述の『酒饭论絵巻』のもうひとつの场面である武家の书院座敷では、白木の膳に朱涂りの椀、そして「本膳」の両脇に「脇膳」が并んでいる。この本膳料理は仪礼的な侧面からの食膳であるため、歴史に残る场面を伝える膳が几つかある。
その一つが、明智光秀の谋反の远因とも言われている、天正10年(1582)に织田信长が安土城で徳川家康をもてなした本膳から五の膳までの饗応料理である。二つ目は、徳川家の権威と権力が确立したとされる、寛永3年(1626)の后水尾天皇の二条城行幸のときの献立などが広く知られている。そこでは白木あるいは胡粉で涂られた「木具(きぐ)膳」や、「四方」、「叁方」、「饗応膳」が用いられていた。「四方」、「叁方」は穴があいた物、「饗応膳」はまったく穴のあいてない物である。本膳料理が完成するこの时代、料理そのものも「膳」と称したが、食器を载せる台も「膳」と呼ばれるようになる。
一方では、このころから「折敷(おしき)」、「高坏(たかつき)」、「叁方」、「悬盘(かけばん)」などの曲物(まげもの)を作る檜物(ひもの)师に替わって、食器を作っていた挽物(ひきもの)师や、家具を作っていた指物(さしもの)师が膳の类を作るようになっていった。挽物とは、挽物师(木地师)が栃や栗の木を轆轤(ろくろ)で挽いて作った物である。当初は「丸膳」とか、「木地膳」と呼ばれていたが、これが食器を载せる膳の始まりである。今までの削木板(へぎいた)を使った曲物とは异った台が登场してきたのである。大きさは、直径36センチ、高さ12センチの物に、内朱外黒に涂った。高级品には紫檀(したん)、黒柿(くろがき)もあった。指物とは、欅(けやき)や杉、檜などの材を组み合わせて作った四角い物に、漆を涂った物である。指物には「四足膳(よつあしぜん)」、「両足膳」、「平膳」、「箱膳」などがあった。
「四足膳」には、祝仪用の「蝶足(ちょうあし)」(内朱外黒涂りの物)、略式用の「银杏足(ぎんなんあし)」(黒涂りの物)、同じく略式用の「猫足」(黒涂りの物)、客用の「宗和足(そうわあし)」(茶人の金森宗和が好んだ内外ともに朱か黒涂りの物)、召使いや下人用の「胡桃足(くるみあし)」の物などがあった。いずれも、28.5?36センチ平方、縁は1.5?3.6センチ、高さ6.6?10.5センチの大きさであった。
「両足膳」は、盘の両侧に板を付けた膳であり、格狭间风(こうさまふう)の窓をあけることもあった。大きさは、30?33センチ平方、縁は1?3センチ、高さ3.6?28センチ、欅に朱の透涂(すかしぬ)りが多く、地方の农村では客用や男膳に使われた。「平膳(ひらぜん)」は、足がない膳、「オシキ」とか、「ヘギ」などとも呼ばれた。大きさは、25?30センチ平方、縁は6ミリ?1.5センチ、高さ1.5?2.1センチ、朱と黒の漆涂り、または朱の透涂りが多く、农村では女膳、あるいは下人用とされた。
「箱膳」は、大きさ30センチ平方、高さ10?20センチの盖付きの箱様で、抽斗(ひきだし)を付けた物もあり、中间や奉公人用として使われた。
こうして、食器を载せる台に様々な物が出揃い、江戸时代になってからは公家は伝统の「折敷」、「高坏」、「衝重(ついがさね)」、「悬盘」、武家は「叁方」、「蝶足(ちょうあし)」を、町人は「蝶足」、「足折(あしおれ)」、「宗和(そうわ)」など、身分の低い武家や町人は新しい膳を用いる倾向にあり、またそのなかでも上司や主人は足の高い物、部下や使用人は足の低い物を使った。
ふりかえると、武家の时代になってから日本食は、「精进料理」、「本膳料理」、「懐石料理」、「会席料理」と変迁していき、そこで膳が段々と使われ始めたのであるが、江戸时代になると経済力を身につけた町人たちも日常において膳を使うようになった。そして、江戸后期になるとこれまでの料理に异国料理が加わった。中国料理には黄檗(おうばく)宗の精进料理(普茶<ふちゃ>料理)と庶民の中国风日本料理(卓袱<しっぽく>料理)があり、南蛮料理の最初はポルトガル人の食事であった。これら外国料理が伝わることによって、曲物や膳など铭铭の台を使う风习のわが国に座式、椅子式を问わず、几人かが食卓を囲んで食事のできる「食卓」が入ってきたのであった。
ちゃぶ台そして食卓?テーブルの时代へ
これまで见てきたように、平安时代から明治までの「曲物」の时代は千年と长く、そのため形の変迁も経て、「折敷」、「高坏」、「衝重」(叁方)、「悬盘」と种类も多かった。そうした歴史を踏まえたうえで江戸时代から新しい膳が浸透していった。だが、曲物にしろ、膳にしろ、われわれ日本人が爱用してきたのは?铭铭&谤诲辩耻辞;に使用する、いわゆる「お膳」であったことにかわりはない。
ところが、文明开化と呼ばれた时代に、?共有&谤诲辩耻辞;するという异质の文化をもつ食卓が入ってきたのである。そこであらためて世界の人々の食事様式を见てみよう。おそらく次のように分类できるだろう。
(い)床に座って食べるか、(イ)それとも椅子に腰掛けて食べるか。
(ろ)铭铭に配膳してあるか、(ロ)それとも共有の物を分けて食べるか。
(は)食べ物は全て并べてあるか、(ハ)それとも食べる顺に出てくるか。
日本人の场合は、基本的には(い)(ろ)(は)の食事様式であった。この様式のなかで铭铭の曲物や膳を使用してきたのである。
そんなところへ共有の座式食卓などが入ってきて使われ出しても、一般的には(い)(ろ)(は)の食事様式が崩れることはなかった。明治中期から昭和30年代ごろまで使われたちゃぶ台にしてもそうであった。ちゃぶ台というのは折りたたむことのできる脚が付いた飯台のことである。語源としては、中国語の「茶飯=cha-fan 」「卓袱=cho-fu」→チャブとされているが、ちゃぶ台そのものは日本の発明であり、挽物の技術に洋風家具の様式が加わっているため、横浜近辺で生まれたとされている。
当初、日本人はちゃぶ台も前代の膳と同じように使うたびに持ち出し、使わないときは片付けていた。したがって、私たちは曲物、膳、ちゃぶ台のことを今も「お膳」と総称しているのは、使用しないときは常に片付ける物という性格からくるのである。
しかし、共有の食卓を知るや、われわれはそれを日常的に备え付けるようになった。つまり畳から床へと住宅构造が変化するのと相まって、食堂にテーブルを设置するスタイルに変えていったのである。こうして、日本伝统の「たたむ文化」は膳を初めとしてすべての物を追放した。それが戦后の高度経済成长であった。
ただし注目すべきことは、日本人は、柏の叶&谤补谤谤;土器&谤补谤谤;曲物?刳物&谤补谤谤;膳&谤补谤谤;ちゃぶ台&谤补谤谤;テーブルへと変化しても、先に述べた(い)(ろ)(は)の食事様式や箸や饭碗は固有のものという日本古来の食文化は守り続けているのである。このことは夸るべきことであろう。
- 1『古事记』(仓野宪司校注?岩波文库)
- 2『日本书纪(二)』(坂本太郎?家永叁郎?井上光贞?大野晋校注?岩波文库)
- 3『新订魏志倭人伝?后汉书倭伝?宋书倭国伝?隋书倭国伝』(石原道博编訳?岩波文库)
- 4『めし?みそ?はし?わん』(宫本馨太郎着?岩崎美术社)
- 5『日本食生活史』(渡辺実着?吉川弘文馆)
- 6『台所?食器?食卓』(芳贺登/石川寛子监修雄山阁)
- 7『时代思想?制度を反映するお膳と食卓』、『日本の料理』(平野雅章着?淡交别册)
- 8『図説日本のうつわ』(神崎宣武着?河出书房新社)
- 9『和风たべかた辞典』(小野重和着?农文协)
- 10『世界大百科事典』(小野重和着?平凡社)
- 11『日本大百科全书』(小野重和着?小学馆)
- 12『式内社高家神社』(高家神社奉賛会)








