研究機関誌「FOOD CULTURE No.17」麺類ではじまるわが国の粉食史(二) 牛飼いも所有していた挽臼
麺类ではじまるわが国の粉食史(二)牛饲いも所有していた挽臼
禅僧らが中国から持ち帰った麺类製造技术は、いち早く日本の禅林で饂飩(うどん)や冷麺(ひやむぎ:冷麦)に工夫国产化されて、たちまちのうちに修行僧の胃袋を満たすことになる。小麦が重用される最中に、切断法をとる絰帯麺(てったいめん)からは雑穀(黍<きび>?粟<あわ>?蕎麦<そば>)なども叁雑麺として禅林で製造されていた。やがてはその中の蕎麦が主流となり、その后の隆盛を江戸期に见ることとなる。
加えて栄西、道元らが导入して半世纪も経ぬ挽臼(磨臼<まうす>)が、鎌仓期には庶民の生活にも幅広く普及していたことから、わが国に粉食文化が着実に定着した痕跡を史料から検証することが出来る。
『禅林小歌』の点心献立
饂飩の初见记録は、1352年(正平7)の『嘉元记(かげんき)』であることを前回触れた。そして戦胜祝の赠物の中に「サウメム一折敷数六」も併记されていた。本来ならば、饂飩も索麺(そうめん)も、麺类すべての初见记録が鎌仓时代の禅林内から発见されていいのだが、见つかっていない。しかし、この空白期间を涂りつぶしてくれる格好の麺类记述がある。前回でも触れた浄土宗僧侣?了誉圣冏(りょうよしょうげい)(1341?1420)の着した『禅林小歌(ぜんりんこうた)』である。彼は常陆の国(茨城県)に生まれ、20代のころ、诸国を遍歴して、真言、具舎(ぐしゃ)、唯识(ゆいしき)、禅などの学问を极め、さらに神道や和歌など、広い分野にわたって学问を积んだという。
晩年の1415年(応永22)には、江戸の小石川に浄土宗无量山寿経寺を开山した。といっても诸堂伽蓝の整った寺院ではなく、ごく小さな草庵を建ててここに移り住み、布教活动を行い、ここで逝去している。后の1602年(庆长7)8月29日、徳川家康の生母?於大の方が京都伏见城で逝去した折に、家康は小石川の寿経寺を再兴し、传通(でんづう)院殿(於大の方の法号)の菩提寺とした。これ以后、无量山传通院寿経寺となるのである。
禅宗を揶揄(やゆ)した『禅林小歌』は、彼の修业时代の20代の后半、梦想础石の『浄土小乗论』や日莲の『念仏无间説』を批判しているころと同时期に书かれたものではないかと思われる。学问上の禅宗知识に加えて、実见记録ともいえる记述となっている。ここで、彼の见た禅林の点心(てんじん)记録を引用してみる(ルビ引用者)。
「各着座次第、最初ニ汤ヲ受ケル。先ズ点心ノ次第ハ、水晶包子(包子ハ小麦ヲ以テ作ル也。アルヒハ葛ヲ以テ作ル也)。驴肠羹(字ノ如シ)。水精红羹。脊羹(字ノ如シ)。猪羹(猪ノ肝ニ似ル)。甫羊羹。(羊羹。羊ノ肠)。寸金羹(金色方寸。黄金色形)。白鱼羹(俗ニイフシラウオ)。骨头羹。都芦羹。羹ノ数差差也。乳饼有リ(小麦ヲ以テ作ル也。其ノ形乳房似ル也)。茶麻菓。馒头。巻饼。温饼等。饂飩。ムラヒ。柳叶麺。桐皮麺。絰帯麺。打麺。叁雑麺。素麺。薤叶麺。冷麺。更ニ互ニ之ヲ诬フ。菓子ヲ取リテハ&丑别濒濒颈辫;&丑别濒濒颈辫;。」
一読通り、この点心记録は、极めて中国色が浓厚である。馒头を除き乳饼、巻饼、温饼等、あるいは柳叶麺、桐皮麺、打麺、薤叶麺等は、この记録以后の禅林记録には皆无である。点心に出される汤は集香汤(しゅうかとう)といい、苦参(くじん)?肉桂(にくけい)?甘草(かんぞう)?蜀黍(もろこし)を粉にして混ぜた汤で、食欲増进薬である。羹(あつもの)は元来が中国料理で、肉や鱼を野菜と煮込み、葛でとろみをつけたもので、寺院ではもちろん肉でなく小麦粉で作られた「もどき」である。『嘉元记(かげんき)』にある毛立(けだち)がこの羹で、法隆寺では禅林の点心献立を模倣したものと推察している。
了誉圣冏の见た点心献立の内容は、时の経过に伴って禅林内で取捨选択が行われ、応仁の乱(1467?1477年)を境に大きく変化している。导入时から継承してきた点心献立内容は次の记録で终息する。
「御点心之様子。一番集香汤、叁峰膳、砂糖、羊羹、驴肠羹。馒头。索麺。茶子七种。御茶」
この记述以降、点心の膳组から集香汤がはずされ、羹もはずされる。
「御点心 馒麺茶菓如恒」
と、中国色は一扫され、日本的な点心献立に姿を変えてしまうのである。
以后の点心は、饼类は馒头のみ、麺类は索麺のみと定まるのである。こうした経纬から判断すると、了誉圣冏の点心记録は、献立内容の取捨选択のなされる以前、渡来时の鎌仓时代の点心内容であったと推定できるのである。
鎌仓时代に诞生する饂飩、冷麺
『禅林小歌』には索麺(そうめん:素麺)、饂飩(うどん)、冷麦(ひやむぎ)が登场する。この国产物の叁麺は、索麺导入时、鎌仓时代にいち早くわが国の禅林で诞生した麺类と考えられる。
『居家必用事类全集(きょかひつようじるいぜんしゅう)』の索麺製造法には二通りの製法がある。油混入法と油不入法である。油を入れて练った麺は细く引き伸ばしても水分の蒸発がなく、限りないほど细めることができる。しかし、油を入れずに引き伸ばすと、细くする前に切れる。切れる直前に引き伸ばしを止めたものを、わが国の禅僧たちは「冷麺(ひやむぎ)」と名付けた。さらに太い段阶で引き伸ばしを止めたものを「饂飩(うどん)」と名付けたのである。ちなみに、前回掲载した『七十一番职人歌合』の画面には、
「索麺売 これはふとさうめむにしたる」
とある。これが油不入の索麺(そうめん)で、禅僧たちは、これを冷麺(ひやむぎ)と名付けたのである。
油混入の索麺は、その油気を抜くために乾燥と保存が必要であるが、油不入の索麺、つまり冷麺や饂飩は製造してすぐに食することができる。この利便性が日々の禅林の食生活に必要であった。とりわけ饂飩は、製造の容易さと腹持ちのよさで、日常の禅林の食生活に欠かせぬ麺となり、挽臼(ひきうす)の普及とともに庶民の间に真っ先に浸透して行く麺であった。饂飩の本来の姿は今日のように包丁で切断されるものでなく、索麺同様に引き伸ばして作られる麺なのである。この饂飩製造法は现在も健在で、秋田県の稲庭饂飩(いなにはうどん)であり、五岛列岛の五岛饂飩がそれである。
了誉圣冏の観察通り、禅僧自らが麺类を作るという伝统は、室町期の相国寺にも引き継がれている。相国寺内の云顶院が饂飩と冷麺の製造を担当している。
「胜定院御成。先ズ昭堂ニ於テ御焼香。(略)。来ル二十五日御斎之后。饂飩有ルベキ之由命ジラレル」
この饂飩は、六代将军义教(よしのり)が室町御所での会席に饂飩を持ってくるよう荫凉轩主に命じたもので、荫凉轩主は云顶院に命じて饂飩を作り期日通り御所に运ばせている。
「今晨云顶院ニ於テ冷麺ヲ调エ始メル也。ケダシ恒例也」
と、冷麺は毎年4月14日顷から製造されるのが云顶院の恒例のようだ。このころには、技术と习熟と広い场所を必要とする索麺製造は、禅林を离れて町方の职人の手に移っている。そうめん屋の诞生である。
「一、さうめん屋よりさうめん出候、百文计候也」
建仁寺では近隣の人々に索麺製造は引き継がれ、永平寺では麓の丸冈に索麺製造を担当する人々が现れている。
雑麺とはどのような麺か
さらに、了誉圣冏は叁种类の雑麺(ざつめん)を禅僧たちが作っているとも书き述べている。この雑麺とはいかなるものであろうか。
「米山薬师十二ヶ月断物、自能登万福寺来。正月牛蒡、二月葱、叁月茶、四月葱蓐、五月雑麺、六月木瓜、七月芋、八月大根、九月栗、十月酒、十一月豆腐十二月柊。右一月头比分断之、则众病悉除」
能登の万福寺から『越后米山薬师断物(たちもの)日记』が荫凉轩に届けられた。この日记には3年间の断ち物の记録が记述されており、1年目の5月の断ち物は索麺。2年目の5月も索麺。そして右に记述した3年目の5月の断ち物は雑麺となっている。
雑麺とは、明らかに雑穀から作られた麺である。雑穀とは五穀から外れた穀类をいうのだが、奈良、平安时代の五穀を通説に従って挙げるならば、「稲(米)、粟、黍、大豆、麦」である。ところが、鎌仓初期の五穀は、
「稲(米)、胡麻、大麦、小麦、菉豆(りょくとう)」
「稲穀(米)、大麦、小麦、菉豆、胡麻」
である。
鎌仓期の五穀は前代の粟、黍(きび)が落ち、麦は大麦と小麦とに细分されて胡麻が加わっている。このように麦が大麦と小麦に明确に区别されるということは、大麦と小麦の各用途が少なくとも僧侣の间では明瞭に认识され、小麦による粉食が行われるようになったと考えられる。したがって、鎌仓时代の雑穀とは粟、黍、これに蕎麦を加えた叁种と考えるのである。
われわれの念头には、雑穀といえば粟、黍、稗(ひえ)があるだろう。しかし鎌仓时代に入ると、稗が落ちて蕎麦が入ってくる。蕎麦が栽培され、畠地子として领主に纳める记録が现れてくるのである。详细は后に譲るとして、代表的な文书を见ておこう。
延暦寺僧の借上(かりあげ:米銭を贷し付ける金融业者)法心(ほっしん)の书いた彼の家财一式の食料の记録(『高野山文书之七』〈1291年?正応4〉)の中に、
「米二一石五斗(日吉大行事彼岸米、米十石叁斗、籾五石八斗)、麦种十石(大麦七石、小麦叁石)大豆叁石、小豆二石二斗、蕎麦一石五斗」
とあり、蕎麦の种を农民に贷し付けて、収穫时に、その何割かを受け取る仕组みになっていた(网野善彦着『中世再考』)。また、1324年(元亨<げんこう>4)の『上久世御年贡公事用余事』には、
「一秋畠蕎麦代五石九升五合」
とあり、これらの文书から判断して、蕎麦は挽臼の普及により粉食に最适な穀物として认知され、需要が唤起されたのである。了誉圣冏(りょうよしょうげい)が见た禅僧たちの作る叁雑麺とは、粟、黍、蕎麦で作られる麺を指摘していたのである。
江戸期の麺类研究家、新岛繁氏は『蕎麦史考』で、天明7年(1787)板、『七十五日』と题されたうまいもの店の蕎麦所、山中屋又兵卫の品书きを绍介している。その品书きに、
粟切 小舟五枚入 四匁ヨリ ひえ切 大舟十枚入 七匁五分ヨリ
と、雑穀による麺を売る店のあることを述べておられる。
挽臼があれば、雑穀も粉にしてみようと试みるのは当然の成り行きで、禅林の僧侣たちは、小麦同様、粟、黍、蕎麦の雑穀で麺を作っていた。时代を経て叁雑麺のうちの蕎麦が胜ち残り今日に至るというわけなのである。
挽臼の普及
道元が帰国してから8年后、1235年、后に东福寺の开山(1243)となる円尔弁円(えんにべんえん:后の諡号<しごう>、圣一国师)が入宋(にっそう)している。6年后に帰国した円尔弁円について、白石芳留氏の『禅宗编年史』は、
「帰国后、博多の承天寺、横岳の崇福寺を建立、満田弥左卫门はシナの织物を伝え、博多织?博多素麺、また圣福寺の喝食(かっしき)菊庵之を作り、后の伊予素麺の起因となる」(ルビ引用者)
と述べておられる。
円尔弁円に同行した満田弥左卫门が素麺製法を持ち帰り、圣福寺(1241年开山)の喝食(かっしき:有髪の小间使いの童子)菊庵が素麺製造法を四国の伊予に伝えたという。
私自身は确証を得られないものの、これを否定することはできない。大いにありうることと考えている。
円尔弁円は粉食に不可欠な挽臼の磨(挽臼、すりうす)に强い兴味を示し、彼の地に水车を动力源にした水磨の详细なスケッチを持ち帰っている。この水磨が造られたか否かは不明だが、この「水磨の図」は、今なお东福寺に现存している。
1976年(昭和51)12月9日、『読売新闻』に、韩国冲の沉没船を引き上げたところ、青磁や白磁にまざって、穀物用の二対の挽臼が発见された。この船の所有者は东福寺であった、と报道されている。
さらに鎌仓中期の挽臼の普及状况が推量できる贵重な一文书がある。『力王丸田畠家财譲状』である。力王丸とは、仁和寺の牛饲いの童で、牛车を牵く牛の面倒をみる者のことである。当时子供には牛を操る霊力があると信じられていて、牛饲いは成人しても童姿のままで、名前も子供のころの「丸」を成人してもそのまま附けている。この力王丸が、この名を継ぐ息子の力王丸と昆沙丸の2人の子供に、二つあるものは一つこれをとれ、という书き出しで家财を书き并べている。(カッコ内引用者)。
「右、力王丸、毘沙王丸ニ限永代、二あらん物ハ、一可取之、田一反、畑二反、わるき牛一疋、立臼一、するす(磨臼)一、水桶二、かなわ(金轮、五徳のこと)一、かま(釜)一、石なへ(锅)一、かなゝへ(鉄锅)一、酒つほ(壷)一、やふれたるさうやく一、たれつほ(垂壷)一、へいし(瓶子)一、すへいし(素瓶子)一、とはち(砥鉢)一、ふるひさけ(古提子)一、ちゃわんのはち(茶碗の鉢)一、つきなはち(捣菜鉢)一、からかさ(伞)一、御牛はたくるかたな(刀)二、わるきからうと(唐柜)一、ひしゃく(柄杓)一、七斗纳かま(釜)一、たかつき(高坏)一」
京の都に住む一市民の力王丸が、挽臼の磨(するす一)を持っている。
今から20数年前、私は鎌仓时代の挽臼を捜し求めて、中世史研究家の故网野善彦先生宅にお伺いした。挽臼の史料を探している経纬を一通りお话しすると、先生は廊下にぎっしりと积まれた书籍の中から、いとも简単に3枚ほどのメモ用纸を取り出された。そのときの一文书がこれであった。私にとっては、今でも忘れることのできない惊きと感激の一文书なのである。この文书は京都大学に保管されていたが、现在は『鎌仓遗文』(鎌仓遗文研究会?竹内理叁编纂)に収められ、谁でも手にすることができるようになっている。
そして先生は后年出版された『中世再考』の中で、この文书について、こう述べておられる。
「このきわめて豊富な什器?雑具の中に、磨臼がみられるということは、かなり重要なことで、粉食のためには磨臼がなければいけないのですが、それが现れている」
と、挽臼の存在と、その现れた时代の重要性を强调されている。
さらに、1332年(元弘2)6月5日の『花园院宸记(はなぞのいんしんき)』には、各种の茶を饮み分けて胜负を竞う茶会が催されている。公家の世界では茶磨(ちゃま)が行渡り、景品を赌け、茶の产地名をあてる讨茶(とうちゃ)が行われるようになっていた。
鎌仓时代の挽臼の存在を示すわずかな文书ではあるが、麺类史を追い求めている私にとっては、『力王丸田畠家财譲状』は、先生のご指摘通り、きわめて重要な问题を孕(はら)んでいる。栄西、道元が磨臼を持ち帰って半世纪も経ぬ时期に、京に住む市民の间では、挽臼の磨(ま)をもち、粉食が行われていたという事実を示しているからである。
室町时代に入ると、市民、百姓の家财に関する文书は、わずか3通しかない。『中世再考』によると、その2通目が、1425年(応永32)、山城国上野荘の百姓?兵卫二郎の财产目録で、
「舂臼一、杵叁、磨臼一、犂一、马锹一、锹一。釜叁、锅大小叁、金轮一」
とある。そしてほかの一通は1450年(宝徳2)、若狭国助国名の名主泉太夫の财产目録で、
「舂臼二、磨臼一、犂一、茶臼一、茶碗二、金轮一、油壶一、锅叁大小」
とある。
3通のうち2通の文书に磨臼(まうす)があり、若狭国の名主?泉太夫は茶磨(ちゃま)も所有している。挽臼の目覚しい普及振りである。室町时代に入ると畿内ばかりでなく、各地に挽臼が普及していると考えられる。これは、とりもなおさず粉食(麺类)の普及度の速さを示していると考えられる。
- 1『つるつる物语』(伊藤汎着?筑地书馆)
- 2『居家必用事类全集』(京都松柏堂刻本)
- 3『高僧伝六栄西明日を创る』(平田精耕着?集英社)
- 4『典座教训ー禅心の生活ー』(篠原寿雄着?大仓出版)
- 5『読売新闻』(昭和51年12月9日)

1938年 东京向岛に生まれる
1963年 庆応义塾大学商学部卒业
现在、寺方そば「长浦」の二代目当主。
「寺方そば」とは、尾张一宫の妙兴寺に伝わる覚书をもとに復元したそば料理のことである。着书に、『つるつる物语』(筑地书馆刊)がある。
先代の収集した全国各地の名刹に残されている史料や日记等から、近世日本の「食」のあり様を研究。本业のかたわら、その事実解明をライフワークとしている。
爱知県妙兴寺に叁笠宫様がご临席された际に、自らが练った妙兴寺そばを献上した経験がある。







