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研究機関誌「FOOD CULTURE No.17」魚食文化四世紀の歴史発掘 日本橋魚河岸の来歴 第4回消えゆく魚河岸

執筆:冨岡 一成

日本橋魚河岸の来歴 第4回消えゆく魚河岸

家康公の江戸入りと共にやってきた小田原町の鱼问屋たちは、幕府御用のプライドと経済力により、江戸庶民文化のパトロン的役割を果たす「江戸ッ子」でした。
一方、魚河岸でも若い衆らは「いき」と「はり」に男をみがく侠気(きょうき)の輩(やから)。空威張りの「江戸ッ子」の象徴的存在ともいえるでしょう。江戸ッ子の二面性を兼ねそなえた魚河岸の人びとの動向は良しにつけ悪しきにつけ、それなりの社会的影響力をもっていました。 魚河岸は江戸庶民史にどのような役回りを演じたのでしょうか。人と事件をながめながら当時の雰囲気を感じてみましょう。

助六と鱼河岸

「&丑别濒濒颈辫;&丑别濒濒颈辫;小田原町は所谓(いわゆる)江戸ッ子にして、江戸役者をほめ、市川団十郎を贔屓(ひいき)にするも此ゆえなるべし&丑别濒濒颈辫;&丑别濒濒颈辫;」
これは文化7年(1810)、新春の中村座颜见世兴行につめかけた鱼河岸连中の総见(そうけん)の様子を赏嘆する大田蜀山人(しょくさんじん)の一文です。蜀山人は、号を南亩(なんぽ)といい、寛延2年(1749)生まれ、70俵5人扶持(ぶち)という軽辈の御徒众(おかちしゅう)ながら、戯作者、狂歌师として江戸の市井风俗を映しました。かれは鱼河岸の旦那众が団十郎を大いに贔屓するのを、さすが江戸ッ子だ、と褒め讃えているわけです。ここで鱼河岸の団十郎びいきというのは、とりもなおさず市川家の代表演目「助六(すけろく)」に対する后援を意味します。
「助六」は関东に伝わる仇讨伝説の人気者曽我五郎(そがのごろう)のお话に、大坂の「千日寺心中」という竹本义太夫をとり込んでつくられました。ところが二代目市川団十郎が寛延2年(1749)に演じた「助六」によって、民间伝承剧は江戸町人の実像を映した権力への抵抗剧として生まれ変わります。すなわち江戸町人の代表たる主人公助六が、いっぽうの敌役である髯(ひげ)の意休(いきゅう)に対し、啖呵(たんか)を切り、骂詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせ、彻底的にやっつける、その荒事(あらごと)に江戸庶民は酔いしれ、喝采を送りました。超人助六の活跃ぶりは、江戸庶民感情の浄化作用を果たしながら、幕末まで実に百年にもわたり正月の江戸叁座颜见世兴行を饰ることとなります。その「助六」狂言を后援する鱼河岸こそ江戸ッ子だと蜀山人はみました。
「助六」と鱼河岸のかかわりは、一説には曽我五郎になぞらえた主人公の花川戸助六のモデルが、持ち前の男気から人の身代りに牢死した鱼问屋ともいわれます。しかし、定説となっているのはむしろ、助六が河东节にのって花道を踊る场面――これが大きな见せ场になるわけですが、この河东节を创始した十寸见河东(ますみかとう)が鱼河岸出身という由縁からのようです。「助六」を河东节でやる限り、鱼河岸の承诺を得なければならないという不文律がいつからか生まれました。歴代団十郎は、助六上演の际には必ず鱼河岸に挨拶に出向いたといいます。
鱼河岸の旦那众も立派な引き幕を赠り、初日には総见し、助六が花道で见得を切るところでは鱼河岸连中のお手を拝借してシャンシャンというのがしきたりとなります。また、火事などで芝居小屋が焼失の忧き目に遭えば、これを再建するために资金を融通することもありました。芝居は江戸人の最大の娯楽でしたが、とりわけ鱼河岸の入れ込みは相当なものでした。旦那众ばかりでなく、若い者や娘子供まで芝居见物は何よりも好きで、「芝居の初日に出かけるような娘は嫁にするな」などと、江戸の町众のあいだでいわれたものですが、鱼河岸の娘たちはそんなことにはおかまいなしだったといいます。

「江戸时代には、夜の明けないなかに支度して、提灯をつけて家を出て芝居见物に行く」(森火山谈)(东京鱼市场卸协同组合所蔵)
「见得に芝居の引幕をよく出す。役者も鱼河岸の文字のある幕が幅がきく」(森火山谈)(东京鱼市场卸协同组合所蔵)

江戸ッ子にふたつある

江戸ッ子といえばよく、「宵越しの銭は持たない」気风(きっぷ)の良さや「はらわたのない」さっぱりとした性分を挙げます。言いかえるなら、銭も贮められない、大した分别も持たない连中。落语の熊さんや八つぁんのようなその日暮らしの下层庶民を指しているのでしょう。ところが江戸ッ子がみんな浮草のような存在かというとそうではないようです。なかには経済力を持ち、洗练された文化生活をする根生(ねお)いの江戸ッ子というべき大町人も多数いました。いわば実力派の江戸ッ子です。西山松之助氏は『江戸ッ子』の中でこうした江戸ッ子の二重性を明らかにされています。江戸の大半は诸藩の武家屋敷。人口のほとんどは地方人でした。そこに流れついた素性の知れない自称「江戸ッ子」が空威张りするなかで、根っからの江戸人は「おらあ江戸ッ子だ」と言わないけれど、江戸生まれを夸りとし、庶民文化に対する造诣の深さと、时にパトロン的にそれを育んできた人びとだったのです。
江戸开府以来の日本桥鱼问屋たちはまさにそのような実力派の江戸ッ子といえるでしょう。団十郎びいきはそのひとつですが、游び好きの旦那众は吉原でも、蔵前の札差(ふださし)ばりの派手な振る舞いをしますし、信心にかこつけた物见游山(ものみゆさん)も盛んで、伊势诣、大山诣、成田诣など、各地の寺社には鱼河岸寄进のものが残されています。また、かれらのうちから后世に残る文化人も多く辈出されました。その代表として、松尾芭蕉の门人として有名な杉山杉风(すぎやまさんぷう)と宝井其角(たからいきかく)について见てみましょう。

杉风と其角

『奥の细道』で知られる俳人松尾芭蕉は、寛文12年(1672)江戸に下り、日本桥鱼河岸に草鞋(わらじ)を脱いだことは前にみました。

鎌仓を生きて出でけん初鰹

初鰹(はつがつお)の景気を咏んだ気持の良い句です。鱼河岸の荒っぽい活気も好ましく感じていたのでしょうか。芭蕉が身を寄せていた鱼问屋というのは、小沢仙风の俳号を持つ鲤问屋杉山贤水(すぎやまけんすい)宅でした。その长男にあたるのが、芭蕉の支持者であり、芭蕉十哲の一人として名をはせた杉风(さんぷう)です。
杉风は师に対する経済的な援助を通じて最大の功労者といわれています。家业の鲤问屋が鱼河岸でも大変に羽振りが良かったことが芭蕉への庇护を可能にしたのでしょう。鲤屋では鲤を囲っておくための生簀(いけす)を深川に持っていました。その番小屋を改造したのが芭蕉庵で、その名も生簀に植わっていた芭蕉からつけられたともいわれ、「古池や蛙飞び込む水の音」の有名な句も芭蕉庵で咏まれたと伝えられます。

ゆく春や鸟啼き鱼の目はなみだ

元禄2年(1689)3月27日、芭蕉庵を出て舟で隅田川をさかのぼり、千住で送别の人たちに别れを告げます。「おくのほそ道」への旅立ちです。そのとき芭蕉は长年世话になった杉风に対してこの句を咏みました。杉风は芭蕉の北行にあたって、春先の寒さを案じ、その出発をとどめたといいます。互いのあたたかい心の通じ合いがこのような留别(りゅうべつ)の句を咏ませたのでしょう。あるいは鱼という一文字には、自らが鱼河岸で过ごした若き日への决别の念がこめられていたのかもしれません。
杉风は、正保4年(1647)幕府鲤纳入御用问屋の长男として生まれました。通称鲤屋市兵卫、または鲤屋杉风と称し、宝井其角(たからいきかく)、服部嵐雪(はっとりらんせつ)とともに芭蕉门下の代表的俳人で、流行を追わない着実な作风は、人柄とともに芭蕉のもっとも信頼のおく门人でした。

顽なに月见るやなほ耳远し
影ふた夜たらぬ程见る月夜かな
がつくりとぬけ初る歯や秋の风

最初の句にもみられるように杉风は聋者で耳がひどく远かったといいます。同门の粋で鸣らせた其角(きかく)は、杉风は耳が闻こえぬから世间に遅れている、などと揶揄(やゆ)しましたが芭蕉はひどく机嫌を损ねてたしなめたといいます。また、杉风は俳谐以外にも絵画を狩野(かのう)派に学び、その笔致はきわめて写実的。かれの手になる「芭蕉像」は多くの肖像のなかでも最も信頼されるものとしてのちに大英博覧会にも出品されました。
杉风と师芭蕉とのこまやかな心情のやりとりを伝えるものとして、芭蕉が杉风に送った遗书をご绍介したいと思います。

「杉風へ申し候。久々厚志、死後迄忘れ難く存じ候。不慮なる所にて相果て、御暇乞ひ致さざる段、互ひに存念、是非なき事に存じ候。彌 (いよいよ)俳諧御勉め候ひて、老後の御楽しみになさるべく候」

杉风に申します。长い间亲切な志をたまわりましたことを死んでも忘れません。思いがけない所で命果てることとなり、お别れを伝えに行けないことが、互いに心残りですが、これも仕方ありません。あなたはこれからも俳谐に力を入れて、老后の楽しみになさってください。
杉山杉风と并ぶ芭蕉の代表的门人の宝井其角は、もとは医师でした。のちに问屋株を买って鱼问屋となることから鱼河岸出の江戸ッ子俳人とみてよいでしょう。

鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春
夕凉みよくぞ男に生まれける
越后屋にきぬさく音や更衣

洒落者、其角には軽妙で庶民的な江戸情绪をたたえた作风とともに、数々のエピソードが残されています。なかでも讲谈などで有名なのが、赤穂浪士讨ち入りの前夜、大高源吾との両国桥での别れです。
时は元禄15年(1702)12月13日、舞台は江都(えど)両国桥。其角が桥詰にかかると、向こうからやってくるみすぼらしい笹売りにふと足をとめました。

「お前は子叶(しよう)ではないか」

はっと上げたその颜はまさしく其角の俳句の弟子である大高子叶こと源吾。はて、その格好はさても困穷してのことであろうと察し、それには触れないで様々な世间话などした后、别れ际に其角が

年の瀬や水の流れと人の身は

と上の句を咏むと、源吾がただちに

あした待たるるその宝舟

と返しました。
其角は源吾の「その宝舟」とつけたその真意を知らず、かれの身を哀れみ、きっとどこかへ仕官でもしたいのだろう、などと胜手な解釈をしました。その翌日、其角は赤穂浪士讨入りの报せを受けます。あの笹売りの姿こそ吉良邸密侦のために源吾が身をやつしたものだったのです。其角は己の无知を大いに耻じ入りました。
翌元禄16年2月4日、鶯の鸣く静かな春の日。大石良雄以下46名の赤穂浪士は自刃します。家で一杯饮(や)っていた其角は、この突然の报に、

うぐいすに此芥子酢(からしす)はなみだかな

と咏み、はらはらと涙を落としたといいます。

鱼河岸の喧哗仕法

鱼河岸の旦那众が根生いの江戸ッ子であるなら、店の若い众(し)は空威张りの江戸ッ子の象徴的存在です。「いなせ」という言叶は、この连中の髷(まげ)のかたちが鱼のいな(鯔<ぼら>の幼鱼)の背に似ていることから生まれたもので、鱼河岸の若い众といえば侠気を地でいく江戸ッ子の鑑(かがみ)でした。何しろ朝だけで千両もの金が动くといわれた売场。ものすごいスピードで売买が行われます。あつかうものが鲜鱼ですから、手早さが胜负というわけで、かれらの言叶は、大変にぞんざいで乱暴でした。

「おい、その鯛(てえ)と鰈(かれい)はいくらだ」
「3枚で口明けだ。安くまけて4贯だ、ナニ、3贯にしろと、何を寝惚けてゐやがる、颜を洗って出直して来ねえ、鉄の草鞋(わらんじ)はいて河岸中探してもありやしねへ、いやなら、よしねへ、何だと、目が赤くなってゐる、と、马鹿も休み休み言ひねへ、今しがたまでハネクリかへってゐたのだ、人间だってこの东风ぢゃあ、のぼせて目も赤くならあ、ヤイヤイ気の短けえやつだ、エゝ呉(く)れてやれ、持っていきねへ」

まるで喧哗でもしているかのようなやりとりが鱼河岸流の商いです。
実际に血気さかんな鱼河岸の连中にとって喧哗は日常茶饭事。江戸?明治?大正と300年以上を通じて、鱼河岸は喧哗に明け暮れました。それも小さな小竞り合いから歴史的な大喧哗までさまざまです。
まず小さな喧哗などは毎日起こります。何しろ河岸の若い众の娯楽といえば博打と喧哗。ことに喧哗となれば、これが饭よりも好きときています。
「おう、これからひとつ喧哗をしに行こうじゃねえか」と、他の町内に繰り込みます。兴がのりますと「今日は神田の青物市场(やっちゃば)へ行こう」、「浅草をやっつけよう」「吉原へ殴りこもう」など10人、20人が群れをなして喧哗の远征に出かけました。
のちの筑地市场の大立者といわれる田口达叁氏の自伝『鱼河岸繁盛记』によれば、大正时代に白木屋で、気の荒い连中向けに「鱼河岸の帯」などというものが売り出されたといいます。まず前も合わせられない身巾のせまい単衣(ひとえ)ものをはおり、そこにこの帯をうしろから巻いて前で结ぶと、これが喧哗装束となります。なぜこんなおかしな格好をするかというと、喧哗した相手の方が强くて分が悪くなったとき、后ろから捕まえられても、パッと帯を解けば、そのまま素っ裸で逃げ出せるという寸法です。
「谁が手前なんかに捕まるかい!このバカヤロウ!」と叫びながら、ふんどし姿の马鹿野郎が日本桥通りを走って逃げる光景が见られたそうです。
もっと大袈裟なものになりますと、町内総出の大喧哗に発展します。これがたいそう血沸き肉踊る行事でした。记録によると幕末は文久年间。日本桥本材木町にある新场(しんば)の鱼市场へ芝の雑鱼场(ざこば)から大挙して攻めてくるという噂が流れました。どこかの鱼问屋が胜手に他人の持浦(もちうら:产地)を分捕(ぶんど)ったとかいうことが原因ですが、理由など何でも良い。日顷いまいましく思っていた相手と一戦交えるわけですから、新场の连中はわっと沸き立ちます。
「おう手前ら、ここはひとつ俺っちに命をあづけてくんねへ」アニキ分が言うなり、白襷(しろだすき)に后ろ鉢巻、勇み肌の连中が、それぞれマグロ包丁に竹枪、目つぶし、筋金入りの棒などを获物に、庇(ひさし)に上がって「さあ来るもんなら来やがれ」とばかり、敌が押し寄せてくるのを今か今かと待ちかまえております。いっぽう女房连中は炊き出しに身支度の手伝いと、かいがいしく働きながら、「お前さん、芝(ざこ)なんかに上手取られるんじゃないよ」などとハッパをかけます。
この噂が江戸市中にぱぁっと広まると、物见高い江戸ッ子たちが大挙してやってきます。木戸銭なしのほんものの芝居见物と洒落(しゃれ)こみまして屋台店は出る、かわら版売りは出る、一日の行楽としては最高の舞台となりました。

「サーどっちが胜つかねえ!」
「まあ、ねばり腰のザコバ、势いのシンバってえとこでしょう」
「どっちみち血を见なけりゃ済まねえ続柄だねぇ。こりゃあ楽しみだぁ」

结局この事件は双方の颜役の仲裁により手打ちとなりますが、何しろ鱼河岸连中の気组(きぐみ)の荒さは后々まで语り草になりました。しかし、その最中にも八丁堀の同心たちは见て见ぬふりをしたといいますから、やはり娯楽の一种だったのでしょう。
ところで、日本桥鱼河岸は幕府纳鱼の义务を负っていましたが、その重责に耐えかねた鱼问屋たちは次第にお义理の上纳をするようになります。それに我慢ならない幕府は、寛政4年(1792)、江戸桥际に御纳屋(おなや)役所を设け、强制的に鱼を取り上げることにしました。これが大変な事态を引き起こすことになりまして、鱼河岸诞生以来の大喧哗がおこります。以下、この事件を実録讲谈风に追ってみましょう。

御纳屋役所の取立ては、峻厳(しゅんげん)过酷(かこく)きわまりて、问屋?仲买?小売商、泣きの涙に暮れました。河岸の事情に通じる者が取立人に雇われて、御用御用の乱用で、役人风を吹かせます。懐手(ふところで)にして手鉤(てかぎ)持ち、店のなかまでかき回す、小売の饭台(はんだい)取り上げる、どこの问屋に入荷があると、闻けばすぐに飞んでいき、すべてを分捕る凄まじさ。我が物颜で阔歩(かっぽ)する、取立人の横暴に、さても商い成り立ちがたしと、进退穷(きわ)まる鱼屋の、一计案じて取るすべは、浜から届くお鱼を、右から左に隠しては、つづら长持ち仕舞い込み、箪笥(たんす)の中に秘匿(ひとく)する。ひどい时には雪隠(せっちん)の、鼻をつまんだ隠し事。问屋の店先鱼なく家の中では生臭い、まったくもって逆さまのおかしなことになりました。
鱼河岸では取立人との丁々発止(ちょうちょうはっし)が长く続き、疲れ果ててしまいました。お上に「何とかして下さい」と泣きつきます。そこで役所と鱼河岸の间に「建継所(たてつぎじょ)」というものが设けられることになりました。これは问屋が浜から鱼を仕入れる际に仕切金の百分の一を积立て、役所からの支払が鱼の値段に见合わない场合はそこから不足分を补充するという制度。言ってみればみんなで苦労を分け合おうという妥协的なものでした。これが功を奏して一时は騒动も収まりかけますが、长続きしません。それというのも、建継所を运営する行事连中が次第に横柄な行动に出たからです。
建継所の行事らは、我こそお上の代理人、官僚気分にふんぞり返る。役人らには良い颜し、鱼屋风情には屁の河童。御用鱼の取り立ては、厳しくあたる一方で、助成金を出し渋る。お定まりは袖の下、自らうるおす、お手盛り役目。あげくの果ては役人と、一绪になって问屋连、绞るありさま惨たらし。何のことない以前より、ひどいことになりました。
このままでは鱼河岸に将来はない!
もはやすべての元凶の、建継所をば打ち壊し、活路を开く他なしと、ついに我慢の限界に、达した河岸の兄(あに)ぃ连、すなわち河岸のなかでもとびきりの、男の中の男を自认する、

西宫利八(にしのみやりはち)
伊势屋七兵卫(いせやしちべえ)
神崎屋重次郎(かみさきやじゅうじろう)
佃屋彦兵卫(つくだやひこべえ)
伊势屋亀太郎(いせやかめたろう)

血気盛んな5人の男、大包丁を振りかざし、暁のなか建継所、いざ出阵と踊り込む。かれらの决死の突撃に、色めき立ちます鱼河岸の、喧哗のことなら饭よりも好き。よその騒动(いざこざ)买って出る、血の気の多い连中だ。常々憎きは建継所、その不満は爆発し、手鉤(てかぎ)、包丁、得物を持って、五人众の后を追う

「かれらに怪我をさせるな!」
「役人に化けた泥棒を打ち杀せ!」

皆口々に叫んでは、上げた拳(こぶし)を下ろさない。いつのまにやら桥詰めは、百人を越す大群众。鼻息荒き连中がぞろりと囲んだ建継所。心强き助っ人の热狂声援背に受けて、はやる心の5人众、头にカーッと血が上り、はじめは胁しのつもりでいたが、ついには包丁振り回し、相手に怪我を负わせてしまった。さあこうなると大事件、ただでは済まぬお定めだ。罪人、下手人(げしゅにん)、さらし首、下手すりゃ鱼河岸取り溃し。问屋?组合?お伟方、血相変えて駆けつけて、何とか事を治めたい。割って入ってみましたが、顽(がん)と动かぬ五人众。ここでこの手を引いたなら、我らの行动无駄になる。いざとなればこいつらと、刺し违えて死ぬ覚悟。役人たちの咽喉仏、二尺五寸を突きつけて、一歩も引かぬ心意気。これでは生きた心地もせぬと、音を上げたのは役人だ。命ばかりはお助けを、河岸の群集証人に、この建継所を取り溃す约束交わす起请文、泣きの涙で书きました。
公仪の役人向こうに回し、大立ち回りの鱼屋风情。まこと天晴(あっぱ)れ鱼河岸の勇み肌なら天下一。その男気を知らしめた5人は江戸中の评判になりました。こうして鱼河岸を苦しめた制度は一扫され、ふたたび平安が戻ってまいりました。しかし、これだけの騒动を起こしては、お咎(とが)めなしとはいきません。即刻5人は召捕られ、残念なことに吟味が済む前に5人とも牢死してしまいます。鱼河岸の人びとはかれらの冥福を祈り、両国回向(えこう)院境内に石造の五轮塔を建てて手厚く供养しました。
これが歴史に残る鱼河岸の大喧哗「建継事件」の一幕です。

「名物は喧哗で市场に日には五ツも六ツもある。心中却て毒なく义に富む。これが江戸时代から明治になって自由竞争、个人主义、利己主义が盛んになり江戸ッ子気质は亡びて行く」(森火山谈)(东京鱼市场卸协同组合所蔵)
鱼を隠す。御纳屋が来ると客と商売でない话しをし、御纳屋が通り过ぎると、客を台所へ连れて来て鱼の商売の取引をする(东京鱼市场卸协同组合所蔵)

江戸防卫军始末记

鱼河岸の若い众の侠気に富んだ行动力は、江戸の市民からは誉められますが、いっぽう支配阶级から见れば喷饭(ふんぱん)ものに映ったことでしょう。西山松之助氏が『江戸ッ子』のなかで高级幕臣である村山摂津守(むらやませっつのかみ)の着『村摂记』をとりあげ、「江戸子(えどっこ)と唱へる日本桥芝等の鱼河岸から鳶(とび)の者杯(など<ママ>)、甚だ危険だからで、中々鼻张りの强き者多く、ちと煽动したらすぐだからです(ルビ笔者)」という下りに、支配者が江戸の町人を见下していたことを明らかにしています。鱼河岸や鳶などは危ない连中だから、煽动すればすぐ兵队として使えるというのです。
时は庆応4年(1868)、会津?桑名を主力とたのむ1万5千の幕府军は鸟羽伏见の戦いで败れました。势いづく官军は江戸に向かって东进してきます。それでも江戸には徳川の旗本8万骑は温存され、起死回生の戦ができるはずでした。しかし、300年もの太平に惯れてしまった幕臣たちに戦意乏しく団结力も持ち合わせない体たらく。なかには江戸を后にして、逐电(ちくでん)するは卑怯者。尻をまくってハイ左様なら――という事态に幕府は、町奉行所を通じ、何と鱼河岸并びに鳶の连中に町兵として江戸防卫にあたるように命じました。威势を张った鱼河岸の喧哗好きもここに极まり、ついに锦の御旗を相手に悲愴の大立ち回りを演じることになったのです。
鱼河岸问屋?仲买の、すべての颜が集って、评议をはじめてみたものの、奉行所からのお达しをきいたとたんに一同は、水を打った静けさに、黙りこくるは思案颜。さしもの威势の良い连中も、今度ばかりは荷が胜ちすぎる。互いに颜を见合わせて、ただただおろおろするばかり。
このとき、鱼河岸総代をつとめる相模屋武兵卫(たけべえ)、といえば全身刺青(いれずみ)をまとい男気で鸣らした大立者。ぐっと腹に力をこめると、「皆の者、心して闻いてもらいたい」と口火を切ります。
我らは元和庆长(げんなけいちょう)の、古き御世(みよ)より将军様の、お鱼御用をつとめてまいった。长きその间さまざまの、紆余曲折はあらばこそ、なおも鱼の商いを、続けられるはお上のおかげ。今こうして我々に、援助の力を请うてきた。町奉行より直々に、助力を请うてきたものだ。今こそ我らが恩返し。お江戸直参鱼屋の、心意気をば见せようぞ。
「だいいちだよ、萨摩だ、长州だのと、とんだイモや叁ピンの官军の名を借りた纸屑拾いに、この日本桥を渡らしたら、それこそ江戸ッ子の名折(なお)れじゃねえか。こいつぁな、沽券(こけん)にかかわることなんだぜ」
武兵卫の热のこもった弁舌に、訳もないまま感激し「そうだ、その通りだ」「やろうじゃねえか!」皆、口々に叫んでは立ち上がり、腕を振るのでありました。
无谋といえば、あまりに无谋。引くに引けない河岸の気风が、ただいたずらに駆り立てられて、时代の波の真っ只中に突き进んでまいります。
数万の幕府军を打ち破った官军に対し、町人が立ち向かうなど、まるで自杀行為にも等しきもの。しかし、いったん火のついた鱼河岸连中を止めることなど、谁にもできやいたしません。さっそく武兵卫総大将に鱼河岸会所を本阵に、準备万端ぬかりなく、防卫军を组织します

一 集合?离散には 太鼓鸣り物合図とし 単独行动すべからず
一 いざという时 仮病にて 逃避したるは 以后一切 市场商い差止めのこと
一 军役の名をば借りての 上纳品おこたることを固く禁ず
一 合言叶は「舟」と言えば「水」と答えること

いかにも素人丸出しの军令?规律取り决めて、连日鱼河岸会所で军事会议を行うなど、準备怠りなくやっておりましたが、毎日皆で集まって、炊き出しもあれば酒もある。酒が入ればいつもの通り、気ばかりどんどん大きくなって
「あんな田舎侍なんざ犬(いん)の粪よお」などとすっかり良い気分になっています。
そうこうするうちに、西郷吉之助を大将とする官军が品川あたりに迫っているとの町方筋の急报に、一気に色めき立ちます。
さそくに太鼓打ち鸣らし、いざ出阵のトキの声、飞び出しましたる防卫军。威势ばかりは立派だが、いくさ装束见てみれば、サシコ半缠、股引きに、草履ばきやら地下足袋と、头に巻いた手ぬぐいに染め抜いたるは鱼河岸の文字。获物といえば包丁に、手鉤(てかぎ)、鳶口(とびくち)、商売道具。どこを见ても军队というより田舎の小芝居の一座の门出と相成りました。
それでも日本桥の际、数百人の者たちが终结するは勇ましき。各町内の月番が队伍号令整えてぞろりと揃った兄ぃ连。
敌がこちらに向かってきても、うかつに出てはいけねえよ。奴(やっこ)さんには大砲や鉄砲やらがたんとある。我らに胜机はただひとつ。敌のスキつく接近戦。肉弾戦に持ち込めりゃ、刀よりもゲンコツだ。弾丸(たま)より気组みの势いだ。
我らの力を存分にぃ、奴らに见せて、あ、しんぜやしょうかぁ!!などと大见得を切って、さあこれから一世一代の大喧哗。いざ出阵、というその时でした。

「&丑别濒濒颈辫;&丑别濒濒颈辫;やめ?やめだと?」
「やめってそりァ、どういうことでい?」

この日、2月の14日、胜海舟は高轮に、官军参谋西郷の吉之助をば访のうて膝詰め谈判2日间。男と男が腹を割り江戸城无血の明け渡し、一身かけての约束を、まことをもって取り交わす。これによりて江戸市中、戦火にまみゆることもなく政権交代、平和裡に行われたのでございます
幕府の危机を见过ごせず、身体を张っての戦いを决意した心意気は评価できるものの、もしも官军が市中に攻め入ったならば、惨剧が起こらなかった保証はありません。たった一人の怪我人も出さなかったのは幸いといえるでしょう。

そして鱼河岸は消えた

こうして幕府は瓦解(がかい)。文明开化の世を迎え徳川の后ろ盾を失くしてしまった鱼河岸の运命はどのようなものであったでしょうか。水产业には产业资本が入り込み、江戸以来の产地支配力を失った鱼河岸には、集荷と贩売に血道をあげるよりほかありませんでした。狭い市场内での过当竞争に明け暮れ、东京市の人口急増による需要増によって命脉を保つものの、近代日本に取り残された鱼河岸は、前时代的伏魔殿(ふくまでん)として孤立します。新东京の真ん中に生臭い市场は迷惑だとばかり、何度も移転命令が下ります。そして大正12年(1923)、関东地方を袭ったマグニチュード7.9の関东大震灾の袭来。市内各所で上がった火の手は鱼河岸にも迫ってまいりました。必死の防火に努めるも、どうにもなりません。船を持っている者は日本桥川を东京湾へと逃れようとしますが、火は川面をなめるように渡ってくると、人びとを容赦なく焼きつくしました。大自然の猛威になすすべもないまま、江戸以来300年の歴史ある鱼河岸は灰烬(かいじん)に帰してしまったのです。

现在の筑地市场に鱼河岸の残滓を见ることはできます。しかしその文化的気风は江戸ッ子らのものであり、今は懐古の物语となりました。関东大震灾后、あたらしい秩序のもとに筑地市场が生まれて70年余。筑地鱼河岸3代目たちが现れるまでのお话は、いずれ稿を改めたいと思います。拙文読了、まことに有难うございました。(了)

大正12年(1923)9月1日、関东地方を袭った大震灾による火の手は、同日夜半に鱼河岸を包みこんでいった(东京鱼市场卸协同组合所蔵)
日本桥鱼河岸のハテナ?コラム
江戸の繁栄の下で鱼河岸は日に一千両の独占的な商売を夸っていたが、天保の改革による规制缓和で幕府の后ろ盾を失い、大きな転换期をまねく。

鱼河岸というのは、かつて日本桥のたもとにあった鱼市场のことをいう。
さかのぼること400年前、摂津国佃村の名主森孙右卫门を笔头とする渔师30余名が家康に従って江戸入りし、江戸前海での渔业を许されるとともに、そこで获れた鱼を御城に纳め、そのあまりを市中に売ったのが商売の鱼河岸のはじまりとされている。
日本桥は江戸の発展と共に商业の中心地として繁栄をみるが、そのなかにあって鱼河岸はとりわけ活况を呈すことになる。「千両は朝のうち」といい、江戸では日に叁千両という金が动くが、そのうちの千両は朝の鱼河岸で动くといわれた。ほかに昼に芝居町で千両、夜は吉原で千両、都合叁千両である。江戸市民にとって鱼介类は贵重なたんぱく源。ことに鲜鱼を3日食べなければ骨がバラバラになると自认するほどの鱼好きであったから、その供给元の鱼河岸はたいそうな繁盛をみるのである。
江戸前海の豊富な渔获物を背景に繁栄を続ける鱼河岸であったが、それは日本桥鱼问屋が产地の渔业者であることによって成立するものであった。鱼问屋らは自分の持浦(契约产地)の渔业者に対し、渔具の购入?补修资金から、渔夫の雇用や食事の费用まで前贷しをして、そのかわりに渔村の全渔物を引き取る。このときに渔获物の代金は鱼问屋の都合で决められたため、鱼问屋は少额の仕入金で渔业者から鱼を収夺することができた。しかも、产地での集荷は在地の鱼商人が仲介するため、さらに効率的な集荷を可能としていた。一方で渔业者は鱼河岸支配からのがれたくても、いっぺんに仕入金を返済することができない仕组みになっており、いつまでも鱼问屋に隷属することを强いられる。
鱼河岸の产地支配は、天保の改革によって流通の独占が缓和されたことで大きくゆらぐこととなり、さらに时を経ずして幕府は瓦解。后ろ盾を失った鱼河岸は、明治以降、近代社会のなかにとり残されながら、日々の贩売竞争に明け暮れていくことになった。
●以上は『フードカルチャー』誌第16号で详しくお伝えしています。

挿絵画家森火山について

森火山(本名森薫叁郎)は明治13年(1880)、日本桥鱼河岸で鱼问屋を営む森源兵卫(五世)の叁男として东京?日本桥区本船町に生まれる。火山も同业の西长(本小田原町)で働くかたわら、独学で絵画を学ぶ。その后毎夕新闻、时事新闻に籍を置き、大正五年结成の东京漫画会に所属する。父亲の薫陶を受け、本人自ら「日本桥鱼河岸研究画家」を名乗り、多年の歳月を费やして江戸初期から大正时代に及ぶ「日本桥鱼河岸の人と暮らしと商い」を絵笔により活写、克明かつ史料的価値が高い膨大な労作を今日に残している。昭和19年(1944)10月、东京?港区白金にて没。

参考文献
  1. 1『鱼河岸百年』(鱼河岸百年编纂委员会?日刊食料新闻社?1968年)
  2. 2『江戸ッ子』(江戸选书1?西山松之助着?吉川弘文馆?1980年)
  3. 3『鱼河岸盛衰记』(田口达叁着?いさな书房?1962年)
  4. 4『鱼河岸百年余闻』(叁浦暁雄着?日刊食料新闻社?1968年)
  5. 5『日本桥鱼市场の歴史』(冈本信男/木戸宪成着?水产社?1985年)
  6. 6『江戸の夕栄』(鹿岛万兵卫着?中公文库?1977年)