糖心原创vlog

研究機関誌「FOOD CULTURE No.16」食文化を支える脇役たち 箸(はし)

监修:宫内庁御用达(株)箸胜本店

食文化を支える脇役たち 箸(はし)

日本の「食」は、中国をはじめさまざまな国の食文化を受容し、融合し合いながら独自の文化として発达し、现在にいたっている。
そして食文化を构成する要素は食材だけではない。その発达を支えたのは调味料や调理道具であり、食具や什器类にいたる脇役たちの存在を疎(おろそ)かにすることはできない。
今回は、「箸」を取り上げ、そのルーツをたどりながら日本の食文化を探ってみる。

中国と日本の箸の起源

箸の起源については、正确な発祥年を确定することはできない。その中で、もっとも古い箸とされているのが、约3400年前の中国殷朝の都だった殷墟から発掘された青铜製の2本の箸である。これは日常の食生活に使用されたものではなく、祖霊に供え物をするときの礼器と考えられている。
中国で箸が生まれた背景は、卫生面や热い料理を取る道具としてのほかに、儒教の経典の中からも探ることができる。来客や目上の人の前で食事をするとき、手づかみでご饭を丸めて口に入れるが、どうしても多めにご饭を取ってしまう。すると、あいつは多く食べていると思われ、一度に多く取れない食具が必要であった。そのように箸の起源を记した内容が、儒教経典『礼记(らいき)』に记されている。
こうして生まれた箸は、その后、长い间王侯贵族の宴席で使われたようだ。それが大众へと広まったのは、纪元前100年前后の前汉の时代である。『礼记』に「おかずは箸、饭は匙(さじ)を使うこと。具のない吸い物も箸は使わない」と、箸使いのマナーが记されている。箸は匙の添え物として使われていたようだ。唐の时代になっても、ほぼ同じような使われ方をしていた。
中国で箸が必须の食具となるのは、麺类が普及した10世纪の北宗以降である。麺类は匙よりも箸のほうが扱いやすいことから、麺类とともに箸が庶民へと広がったようだ。その后、江南を拠点に天下统一を果たした明代になると、长江周辺で食べられていた粘りのある米饭に箸が最适で、ジャポニカ米の普及と并行して箸は匙の添え物ではなく、独立した食具として中国全土に普及した。
当时、中国は横向きに箸を置くのが普通だったようだ。それが今日では縦向きに置く场合が多くなっている。いつごろ置き方が変わったのだろう。
唐が灭び混乱の五代十国时代(907?960年)、北方から游牧骑马民族やシルクロードからほかの民族が侵入し、汉民族の风俗习惯に大きな影响を与えた。食事の面では、羊肉をはじめとする肉食を中心とした料理となり、ナイフを必要とした。そのナイフでけがをしかねないことから、ナイフの先を体の反対侧に向けるように置くようになり、箸も縦向きに置くようになったと考えられている。それがやがて作法として定着していったという。五代十国时代后の宋の时代(960?1279年)になると、箸を縦向きに置くのが一般的になり、今日まで伝わっている。
ちなみに、中国や韩国の箸の先が细くなっていないのも、同様に体を伤つけないためであり、凶器として使わせないと考えられている。これは、フォークとナイフを使う西洋の食事マナーと共通する点だ。また、箸と、中国ではチリレンゲ、韩国では匙を合わせて使い、箸はおかずを摘む补助的な食具としての役割が大きい。
その箸が日本に伝来するのは、弥生时代末期の3世纪中顷に伝わったという説や、552年ごろの钦明天皇の代に百済の圣明王から仏像や経典などと共に伝わったという説もあり、日本における箸の始まりも定かではない。その中で、箸食を朝廷の饗宴仪式に採用したのが圣徳太子であるとされ、それは推古天皇によって遣隋使として派遣された小野妹子が中国から持ち帰った作法だとされている。

『礼记』(京都大学附属図书馆所蔵)
放牧民の箸:紫檀、鮫皮、七宝、象牙、鳖甲などに细工を凝らしたゴビ砂漠の游牧民のもの(文化出版局刊『银花第39号』より転载。写真提供:小林庸浩)

神様と人间の桥渡し役を担ったハレの箸

日本における箸の由来が诸説あるなか、物的証拠として今に伝わるのが平城京の大内里である平城宫跡から発掘された数百膳の杉?檜製の箸と、正仓院宝物として残されている银製の箸である。これらの遗品から、日本で箸が使われ始めたのは7世纪顷からで、8世纪顷からは平城宫内においても使われるようになったという説がある。
その一方で、同じく正仓院の宝物の中から発见された鉄製のピンセット状の挟子(かなばさみ)を箸の起源としている説もある。神に供える酒や食物である神饌と共に神様に供える祭器として使われたとされる。
神に捧げる御箸は神の依(よ)り代(しろ)となり、人间と共に食事をすると考えられている。この神箸(かみばし)の形状は、古代からピンセット状の竹の折り箸、もしくは白木の中太両细の両口箸である。
竹の折り箸は、弥生时代から奈良时代にかけて神事、仪式に用いられたようだ。白木の中太両细の両口箸は、神が箸に宿り人间と共に食するために作られた。片方の口で人间が食し、もう片方の口で神が共に食すると考えられて作られたものだ。この箸は、奈良时代から明治时代まで主流だった。なかでも両口の柳箸は、王朝时代の饗宴、室町时代の本膳料理、江戸以降の冠婚葬祭などで正式の箸として使われた。このハレの箸は、割り箸と同様に1回使えば捨てられる。
白木の両口箸に使われる柳は、古代から邪気と不浄を祓う霊木とされている。また、立春后にいち早く芽を出す「めでたい(芽出度い)」縁起木でもあることから重用され、今日でも结婚式や正月の祝い膳には欠かせない。
神の依(よ)り代(しろ)として考えられてきた箸に対する日本人の独特な概念は、それを使う神や人の霊魂と生命力が箸にも宿る、とされる古代信仰の名残りだと考えることができよう。今日の食生活にも、それとなく息づいているのは确かである。
中太両细の両口箸は、平成2年11月に行われた大尝祭で使われた神饌用具の中にも见受けられる。

古代の「折り箸」(文化出版局刊『银花第39号』より転载)
白木で中太両细の「両口箸」(文化出版局刊『银花第39号より転载)

箸と共に発达した日本の料理文化

平安时代になると、箸を商う箸商人が现れた。纪长谷雄(きのはせお:845?912)が着した『白箸翁序(しらはしのおきなのじょ)』の中に、「白箸を売る翁は(中略)市の门に住みて常に白箸を売りて」という记述がある。御所の东门の前にあった东の市で箸屋を営んでいたという。
この时代、贵族阶级の间で行われた饗宴で出されたのは大饗料理である。もっとも古い日本料理の形だといわれ、皿に盛られた生物(なまもの)や干物を手前に置かれた四种器(ししゅのもの:塩?酢?酒?醤<ひしお>)で好みに味付けして食べたようだ。食具は、箸と匙が膳の手前に置かれている。この顷はまだ匙も使われていたことが分かる。
调理法は复雑なものではなく、材料の切り方が料理人の腕の见せどころだった。『今昔物语集』の中に、藤原家成という贵族が崇徳天皇(在位1123?1142)の勧めによって鲤料理を披露し、その鲜やかな包丁さばきに一同が见入った、という话が収められている。调理人は、高贵な人が召し上がる素材に触ってはいけないとされ、包丁と真鱼箸(まなばし)でさばいたと考えられる。真鱼箸は平安时代に登场し、包丁で鱼や鸟を割いたり切ったりするだけでなく、盛りつけるために使われた。当时は、主人が竹を削って真鱼箸を作り、客の前で包丁さばきを披露してもてなす习惯があったようだ。
この习惯が后に形式化され、四条流、大草流、进士流などの流派を生み、切る?见せるを基本とした日本独自の调理法ができた。现在でも调理时には、竹や金属製の真鱼箸が使われている。さらに、食材自体の香りが移らないように、野菜用には菜箸が使われる。
鎌仓?南北朝时代に入ると、中国から帰国した学僧达が持ち込んだ肉食の秽れを嫌う思想とともに精进料理が普及した。同时に物流が発达し、各地の名产物が京都に入ってくるようになった。なかでも虾夷地(えぞち:今日の北海道)から入ってくる昆布と、坚鱼(かたうお:现在の鰹节の意)が使われるようになったことで、出汁を基本とした日本料理の基础が作られ始めた。その后室町时代に本膳料理として完成する。
安土桃山时代には、本膳料理の形式と料理法を受け継ぎ、精进料理の影响も受けた懐石料理が登场した。懐石料理を创り出した千利休は、茶会の日には赤杉の四角い箸材を取り寄せ、客の数だけ小刀で削って箸を作ったという。その箸は、両端を细く丸みをもたせ、中心部は平たく持ちやすい中平両细の形をしていた。现在も「利久箸」として伝えられている。「利休」ではなく「利久」と书くのは、商いをする人间が「利を休む」ことはいけないという考え方に由来するという。

大尝祭で使われた神饌用具一式。取り箸以外は柳の木で作られている。右から両口箸、杨枝、匙、口细箸、杓子、饭杓子、竹の取り箸(〈株〉箸胜本店所蔵 写真:井口 匡)
奈良県吉野熊野山系の檜林:杉や檜の间伐材は建材として使用された后?その端材は割り箸の材料として再利用されているのは、江戸期と同じである(写真提供 〈株〉箸胜本店)

江戸で开花した日本の食と箸文化

江戸时代になると、江戸に集った単身者のための外食产业が発达した。寺社の门前や名所、祭り?縁日、盛り场など、人が集るところに屋台や店が出て天ぷら、蕎麦、寿司、鰻の蒲焼などを売った。また、江戸市中には居酒屋や一膳饭屋が并び、庶民の胃袋を満たした。一方、庶民には縁远い高级料理店も轩を并べ、会席料理を売り物にした。前の时代から受け継がれた本膳料理や懐石料理も、确実に根を下ろし、今日の日本料理の础を筑いた。
そのような社会状况のもと、江戸初期には、涂り箸が考案された。若狭涂がもっとも古く、贝殻などを埋め込んで涂りを重ねた高级品として、大名や武家の间で使われた。その后、轮岛涂、津軽涂、秀衡涂、会津涂、飞騨春庆涂など、漆器の产地で作られるようになった。こうした高级品の涂り箸が一般に普及するのは、明治中期以降のことである。
もう一つ、江戸时代中期に考案された画期的な箸がある。木や竹の割裂性を利用した便利さと清洁さを併せもち、自然の木目の美しさをそなえている割り箸だ。この时代の割り箸は「割りかけ箸」もしくは「引裂(ひきさき)箸」と呼ばれる竹製のもので、とくに江戸の鰻屋で珍重された。その后、吉野杉で作る酒樽の端材で作る割り箸が考案された。涂り箸と违い、この端材から生まれた割り箸は1回使っただけで捨てられるものだったが、リサイクルの発达していた江戸社会ではそんなもったいない使い方はしなかったようだ。
まず、割り箸以外の上等な箸は使用済みになると、「箸処」と呼ばれていた箸屋に集められる。箸屋ではこれを削り直し、白木の丸い箸に仕立てて蕎麦屋などの店に再贩する。この使用済みから再生された箸は、蕎麦屋などで使用されて后、再度箸処に集められる。最后は漆を涂られ并品の涂り箸として、一膳饭屋などに売られる运命をたどる。庶民が使ったであろう并品の割り箸は、3度の命を与えられていたことになる。

江戸?浅草の蕎麦屋の様子(『金草鞋』より。叁树书房蔵)

日本の箸文化の精神が地球环境を守る

日本は国土の约7割が森林である。この环境が日本の箸文化を、竹や象牙から箸を作った中国、金属製の箸を作った韩国と违う方向へと导いた一因でもあるだろう。とくに、近世における割り箸の登场は画期的だったといえる。
その割り箸も今日では、使い捨てにされる点、国产より输入製品が占める割合が高い点において、环境保护运动を展开する団体や有识者からの非难の原因にもなっている。割り箸は中国の砂漠化を进め、东南アジアの国々の森林を破壊しているという。たしかに、现在使われている割り箸の9割以上が输入であるという调査もある。その一方で、国产の割り箸の消费量は伸び悩んでいる。日本の割り箸のほとんどは、杉、檜、白松、えぞ松、しなのき、竹などで作られる。たとえば杉や檜は、间伐材を建材として柱や板などに製材し、そこで出てきた端材を割り箸の材料として使う。この製法は、割り箸が考案された江戸期の製造方法と同じである。端材までも生かして新たな命をそそぐ。木の文化の中で育まれてきた日本の箸文化の精神が受け継がれ、息づいているという訳だ。
また国产の割り箸を使うことは、日本の森林を守ることにもつながる。健全な森林を守るためには、优良木の邪魔になる木を间引きしなければならない。そのときに出た间伐材を利用して作る割り箸は、山を守り、森林を守るためにも贡献している。吉野杉を使った割り箸を考案し、割り箸の発祥の地として有名な奈良県吉野郡下市町では、山を大切にする心が受け継がれている。吉野の山々の美しさは、木の文化を守り育ててきた职人达の心の表れでもある。

日本製?外国製の箸のつくり方
取材协力

宫内庁御用达(株)箸胜本店

参考文献
  1. 1『江戸の料理と食生活』(原田信男?编小学馆)
  2. 2『和食と日本文化』(原田信男着小学馆)
  3. 3『箸(はし)』(一色八郎着保育社)
  4. 4『世界地図から食の歴史を読む方法』(辻原康夫河出书房新社)
  5. 5『银花』(1979?第39号「箸のはなし」本田総一郎着)
  6. 6『日本料理技术选集箸の本』(本田総一郎着柴田书店)