研究機関誌「FOOD CULTURE No.16」魚食文化四世紀の歴史発掘 日本橋魚河岸の来歴 第3回 江戸に旅する魚たち
日本橋魚河岸の来歴 第3回 江戸に旅する魚たち
江戸前海(えどまえかい)の豊かな鱼介类を背景として、江戸では鱼食文化が花开きます。鱼好きの人びとの需要をまかなう鱼河岸では毎朝活発な取引が行なわれました。「朝千両」といわれた鱼河岸の商売はどのようなものだったのか。また、その鱼はどこからやってきたか。鱼河岸の表里をながめながら近世の鱼类流通をたどってみましょう。
日本桥鱼河岸の朝
もしも今から200年前の文化5年(1808)のある朝に江戸日本桥に立つことができたなら、まず感じるのは鼻をつく鱼の臭気でしょう。江戸の中心地日本桥は本船町、本小田原町から瀬戸物町、安针(あんじん)町、长浜町にかけて300を数える鱼问屋(うおどいや)が密集しました。『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』に「远近の浦々より海陆のけじめもなく、鳞鱼(りんぎょ)をここに运送して、日夜に市を立ててはなはだ賑えり」と描かれた日本桥鱼河岸の商いは当代随一とうたわれるものでした。
头上を高速道路が走るよりずっと以前、眼下を流れる日本桥川はさかんに舟の行きかう流通の要所だったのです。川の北侧に鲜鱼を取引する鱼河岸、南侧には塩干物(えんかんぶつ)などをあつかう四日市がひろがります。鱼河岸の岸壁にずらりと并ぶ平田舟(ひらたぶね)は河岸に固定された舟で桟桥の代わりに使われました。ここに江戸内湾や外房、远く东南海の浦々からも、大小さまざまの鱼介类が押送舟(おしょくり)で、あるいは猪牙舟(ちょき)で入れかわりに届けられます。一番鶏も鸣きそびれる明けの七つの时分から鱼荷を担ぐ小扬(こあげ)らの、ねじり鉢巻ふんどし姿、荷扬げの声も勇ましく、八百八町の暁はここ日本桥よりはじまりました。
すでに橋の上は人でごった返しています。その多くは肩から天秤棒をさげた魚売り。当時の魚屋は皆このスタイルです。売り声とともに町内までやってきて、その場で魚をさばいてくれるのですから、ありがたい存在です。今しも橋の向こうから飯台をカタカタいわせて一人の魚売りが急ぎ足にやってきました。名前を次郎吉(じろきち)とでもしましょう。かれは、魚売りの他にもう一つの稼业をもっているそうな。次郎吉は通行人をすりぬけるように天秤棒を器用に振りながら、黒塗りの魚河岸の木戸に自分の身体をもぐり込ませます。それでは、今回はこの魚売りのあとについて、日本桥鱼河岸の朝売りの様子をながめてみましょう。
鱼に定価はない
次郎吉がとび込んだのは鱼河岸のメインストリートともいうべき本船町(ほんふなちょう)の表店(おもてだな)。通りの両侧には鱼问屋(うおどいや)が并びます。粗末な建物ですが商いは活発で、これらの问屋が数百とまとまった鱼河岸は毎朝千両という豪势な商売をくりひろげました。
「おや、次郎吉さん、今朝はゆっくりだねえ。どうだいこのあじをつれていきなよ」
「见なよ立派なにべだ。今扬がったばかりとくる。おっとニベもねえな」
次郎吉はなかなかの颜です。あちこちの仲买人が声をかけるのをやり过ごし、驯染みの店に足を止めました。
「ほう、良いいさきだな」
「これは目が高い。こいつは子(ね)の方角を拝んで呼んだという代物(しろもの)だ」
むぎわらいさきは北を向いて食べろ、と谚にあるような丸々と太った旬のいさき。次郎吉はこれを出入りのお屋敷へ届ける心算(つもり)でいます。
「ぴんでどうです」
「そりゃあ高くねえか。きわにしておけよ」
ぴんは数字の1を意味し、この场合は100文、きわは9のことで、次郎吉は100文のいさきを90文にしろといいます。値のやりとりはこんな符丁(ふちょう)で行なわれました。
この时代は鱼に値札などありません。定価というものは存在しないのです。では、実际に鱼の値段はどのように决められたのでしょう。
鱼问屋はそれぞれ自分の契约产地を持っています。これを持浦(もちうら)といい、鯛问屋に限っては敷浦(しきうら)といいました。これら浜方から毎朝鱼荷が平田舟(ひらたぶね)に着きます。问屋はこの荷物を自分の息のかかった仲买(なかがい)へと渡すのですが、この时にはまだ値段を决めていません。そのまま委託するだけです。
仲买は独立して店を构える者もいましたが、多くは问屋に従属し、店先を借りて商売をしました。かれらは预かった鱼を町の鱼屋や料理屋相手に自分の裁量で売ります。次郎吉から90文に値切られたいさきも仲买が头のなかではじいた算盘(そろばん)に合えば取引成立となります。
さて、午后の河岸引けになると鱼河岸会所(かいしょ:组合の事务所)に问屋の旦那众や番头连中が颜をそろえて、これから鱼の相场が话し合われます。今日の入荷状况、季节や天候などを考虑して细かく鱼の値が决まると、今度はそこに仲买たちが呼ばれます。问屋侧はここではじめて委託した鱼の代価をかれらに伝えます。仲买はその金额よりも自分が店先で商った売上の方が大きければ、その差し引きが利益となります。逆に小さければ损ですが、この场合は问屋にかけ合ってまけてもらうこともありましたから、仲买というのは自分の才覚ひとつでなかなか储かる商売でした。
鱼河岸の问屋?仲买は、现在の中央卸売市场における卸?仲卸の前身ですが、その性格は大きく异なります。现代の卸売市场では卸会社があつめた鱼を仲卸がセリによって値决めをして、小売店、量贩店などへ売ります。その取引は公正?公平を旨とした透明性の高いものです。ところが江戸时代の鱼河岸では鱼の値段は一部の市场业者が密室で决定するものでした。セリはありましたが、それは仲买が鱼売り相手におこなう商行為の一种で、鱼介类の适正価格をはかる性质のものではありません。
公正?公平に欠けるきらいはありましたが、何しろ幕府への纳鱼を第一とする施设ですから、市中売りに対しての规制は缓やかです。鱼がふえれば安くなり、少なければ高い。それがかえって自然の生产物である鱼の実情にかなって、特に问题が生じることなく300年あまりもこのような商売が続きました。
仲买人どもに申し渡す
次郎吉はお目当ての鱼をそろえるため、いくつかの仲买をまわることにしました。仲买たちはそれぞれ鱼を并べた板を往来へせりだすように商売をしています。长さ5尺、幅2尺3寸と定められたこの板を板船(いたぶね)といいます。単に鱼をのせるだけでなく、これがかれらの営业権になっていました。仲买は板船一枚につきいくらという庭銭(にわせん)を大家である问屋や商店主に支払います。一种の株として定着した鱼河岸特有の権利です。市场の発展に関係するものなので、时代を戻してそのなりたちをみてみましょう。
森孙右卫门(もりまごえもん)の子九左卫门(きゅうざえもん)が日本桥小田原町に开いた7轩の鱼问屋から鱼河岸がはじまったことはすでに述べました。この店が分れ、さらに関西の别の鱼商人たちの新规参入によって市场が拡大した过程もみてきました。
江戸市街の拡大にともなって鱼の取扱量もふえていきます。しかし限られた市场区域に小さな问屋がひしめく鱼河岸では各々の鱼问屋が商売の规模をひろげるにはおのずと限界がありました。自分の系列下に暖帘(のれん)分けすることは自らの集荷力を分散させることにもなります。そこで自分たちの権利を手离さずに商売を拡大させる方法として请下(うけした)という者を使って鱼を売らせました。この请下がのちに仲买と呼ばれます。问屋业务から贩売部门を独立分业化することで商売の効率は大きく向上しました。
鱼河岸は本小田原町から周辺の町を侵食するかたちで市场区域をひろげます。日本桥川に面する本船町界隈は荷扬げに利便な一等地でしたが、ここには江戸初期より船具商たちが住んでいました。仲买人らはその店前を明け六つ(午前6时顷)までという约束で借り受けます。しかし时间が守られないばかりか、たびかさなる仲买人の乱暴な振舞いにトラブルが絶えません。そして享保12年(1727)4月12日朝、ついにけが人を出す刀伤沙汰にまでおよんだことで船具商たちはお恐れながらと町奉行所に诉え出ます。
「このたびの本船町麻店前にての仲买人不届きな行状につき吟味いたす」
このときお白洲に立ったのが名奉行と名高い大冈越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)です。
「平素より魚河岸は混雑をきわめ公道を塞ぎ、その上、売人らの風俗きわめて悪しく乱暴の多いことは奉行も聞きおよぶところである。仲买人どもに申し渡す。すみやかに場所を明け渡し定法に従え」
いったん営业停止の処分を受けますが、温情ある裁定により廃业はまぬがれます。もともと船具商もいくばくかの场所代を取っていたこともあり、むしろ一定の贷借料を定めて规制すべきだ、ということになりました。そうして生まれたのが板船です。板船権の确定によってアウトロー的な仲买人が商売として认められたのですから怪我の功名といえます。増大する市中売りへの対応に仲买の存在は不可欠です。大冈裁きは结果的に鱼河岸の発展をうながすこととなりました。
板船は既得権として长く残り、鱼河岸が筑地へ移転した际に権利保有者への补偿问题がもち上がります。代议士への贿赂が明るみとなり、世にいう板船疑狱(いたふねぎごく)という大事件に発展するのですが、それは后世のお话です。
お鱼、御用だ
いわし、こはだ、さっぱなどの多获鱼はダンベイと呼ばれる大樽に水を张って入れられています。これらは単価が安いために一本ごとでなく、はかり手组という小鱼専门业者がすくいざるに一杯いくらではかり売りしました。いさきを见たなら、すぐに入梅いわしの季节です。次郎吉は长屋のおかみさんたちの颜を思い浮かべながら、饭台のひとつを色つやの良いいわしで満たしました。
「いやな奴に出くわしたな」
次郎吉は道の向こうに知った颜を认めると、路地里にさっと身を寄せました。通りをやってくる男は、蓝(あい)の小袖に黒无地の八丈を羽织り、髷(まげ)を细长の本多(ほんだ)に结った当世风なつくり。しかしその眼はぎらぎらと鋭く、懐中(ふところ)に手钩(てかぎ)をのぞかせています。この界隈で蛇蝎(だかつ)のごとく怖れられる御纳屋役人(おなややくにん)のお出ましです。
この顷には幕府への纳鱼が鱼河岸には大きな负担となっていました。鱼価高腾をうけて、上物は高く売れる町方へ流し、御城にはそこそこの品を纳めておこうというのが鱼河岸の腹づもり。しかし口のおごった城中の台所方も大奥も旗本众も、そんなお义理の上纳に纳得しません。业を煮やした幕府は、ついに自らが鱼を集荷する机関をつくってしまいました。それが江戸桥広小路に设置された御纳屋役所です。幕府贿方(まかないがた)役人が常驻し、市场の内情にくわしい者を手下に雇って毎朝鱼の集荷に回りました。御纳屋役人の目にとまったら最后、どんな高级鱼もお话にならない値段で召し上げられます。
「御用だ」
道ゆく鱼売りの荷物にまで手钩がかけられ取り上げられる始末。次郎吉の仲间もさんざん泣かされました。いまいましく思いながらも、お上相手に喧哗はできないと、次郎吉は新道(じんみち)の轩下をつたって逃れることにしました。鱼河岸をぐるりと回り、仕入れた鱼の重さで天秤棒が肩にずしりと食い入る顷には、东の空も白んできます。
「次郎吉さん、休んでいきなよ」
鱼売りたちの休憩所となっている潮待茶屋(しおまちぢゃや)の知り合いが声をかけます。
「今日は急ぐのでね」
軽く会釈で过ぎようとしましたが、もう一つの稼业の用件を思い出してたずねました。
「この辺に金に困った家はねえか」
朝もやのなか棒手振(ぼてふり)の鱼売りたちは日本桥を起点にして四方に走り去っていきます。そろそろ长屋のおかみさんたちが朝餉(あさげ)の支度に起きだす顷。江戸の町にいつもの朝がやってきました。
鲜鱼のきた道
江戸が开かれたばかりの顷、関东の渔业は未発达の状态で、先住の渔民たちが素朴な渔业を営んでいました。そこに森一族の江戸移住以降、次々と関西渔业が进出してきます。
かれらの多くは干鰯(ほしか)を集荷して地元関西に送ることを目的としましたが、鲜鱼の江戸出荷をおこなう者も続々とあらわれました。そのうちには幕府の保护を受ける者もあれば、江戸の発展を期待して関东へ雄飞してきた者もいます。いずれもことごとく鱼商人でした。江戸に下った当初こそ自らが鲜鱼集荷にあたりましたが、渔村が発展して鱼荷が増加するにしたがい荷受问屋(にうけどんや)化します。森一族が日本桥で鱼问屋を営むグループと佃岛渔民グループに分离したように、后発の関西商人たちもまた江戸出荷圏に生产地を持ち、その渔获物を日本桥の鱼问屋で荷受しました。鱼问屋と持浦(もちうら)の関係がこうして筑かれていきます。
関西鱼商人のなかには产地の渔村に根をおろして鲜鱼の江戸出荷をおこなう者もいました。鲜鱼回送用の押送舟(おしょくり)を所有し、当地の渔获物ならびに周辺渔村の鱼までも荷受して鱼河岸へ送ります。かれら在地の押送舟持(おしょくりもち)鱼商人は旅人(たびにん)と呼ばれました。
このように、鱼河岸をつくったのも江戸初期の鲜鱼出荷を担ったのも関西鱼商人の手によるものでした。渔业の先进地域である関西圏から未开の関东に人と技术が移动して、江戸の鱼类流通の基础が形づくられます。
いっぽう幕府も江戸初期に直辖领である骏河国の渔获物を江戸へ运ぼうとしています。寛文年间(1661?73)には骏河湾周辺の村々に鱼类集荷人による组合を组织させて鲜鱼の江戸出荷をうながしました。当时は马による陆送で、途中で箱根の难所をこえなければなりません。幕府は东海道筋の宿场に鱼荷直送の御免鑑札(ごめんかんさつ)を与えて输送の迅速化をはかりますが、それでも江戸到着まで4日间を费やしました。
そこで产地の鱼商人が苦心して海陆併用のルートをひらきます。骏河湾で渔获された鱼は马にのせて伊豆东岸の网代まで运ばれ、そこから押送舟(おしょくり)で鱼河岸へ送られました。输送期间は2日间に短缩されます。船を使うと鱼を塩水渍けにするとか、たいなど高级鱼は生簀船(いけすせん)での输送も可能になる利点もありました。
鲜鱼の输送は鲜度保持が胜负です。さまざまな工夫がとられますが、とくに苦心した例として外房の銚子から鹿岛滩にかけた渔村の江戸出荷があります。この地域では夏季には船で江戸まで直送できますが、8月から翌年4月までは利根川が渇水期となるうえ、北西(ならい)の风が强く吹いて船が途中で使えません。そのため夕刻に銚子を船で出発した鱼荷は翌朝布佐でいったん荷扬げされます。ここから陆路を马背により布佐―発作―亀成―浦部―平塚―富塚―藤ヶ谷―佐津间―金ヶ作―松戸というルートでその日のうちに届けられました。そこからふたたび水路に切りかえて翌朝日本桥へ送ります。この布佐から松戸まで7里半の道のりは鲜鱼街道(なまかいどう)と呼ばれ、布佐村とその周辺の村人が120、130疋の马に鱼荷を背负わせて毎日通ったといいます。
この时代には远隔地まで鲜鱼を运ぶのは并大抵ではありませんでした。生产地である渔村、输送业者、さまざまな人の労力によって鲜鱼の道が拓かれていったのです。
江戸前海の渔业
たい、さわら、さより、しらうお、えび、あわび、はまぐり、あさり、きす、ぎんぽう、いしもち、あいなめ、あなご、はも、さば、このしろ、こち、いか、かに、ぼら、はぜ、いわし、すずき、しゃこ、ぶり、かれい、ひらめ、たちうお、うなぎ、なまこ、あおのり&丑别濒濒颈辫;&丑别濒濒颈辫;
江戸前海(えどまえかい)で获れた鱼介类のほんの一部を并べただけでも実に賑やかです。工业化が进んだ现代の东京湾からは想像もつきませんが、かつて江戸の海は日本を代表する豊かな渔场でした。
この海をとりかこむ武蔵、相模、下総、上総、安房の国ぐにの渔师たちには操业规则が取り决められました。たとえば渔をするのに使ってもよい渔具は38种类に限られ、叁八职(さんじゅうはちしょく)と呼ばれます。そして沿岸の渔村は84个所の浦(うら)と18ヶ所の磯付村(いそつきむら)に区别されました。浦は渔业を専业とする纯渔村であるのに対し磯付村は副业的に渔业をおこない、船は使えないなどの制约を受けます。このような规则はやがて渔师たちの渔业権として定着します。しかし、この时代には明确な线引きのない海の上で渔法が入り乱れての渔获物争夺もあったでしょう。
渔师の获った鱼介类はすべからく江戸の鱼问屋に出荷されました。鱼问屋は幕府への纳鱼请负によって、产地に対して絶大な力をもちました。最も影响力の大きい鱼河岸は四组肴问屋(しくみさかなどいや)と呼ばれ、本小田原町组、本船町组、本船町横店组、安针町组の4组合が轮番で纳鱼をおこないました。このほか本芝、芝金杉、新场の3市场も纳鱼を负っており、のちにこれらを称して7组肴问屋といいました。
本芝と芝金杉は、もともと江戸にいた芝の渔民らが江戸开府の顷に东海道筋で鱼売りしたことにはじまります。芝浦は84ヶ浦の中核をなす存在で、その権威に乗じて鱼市场公许をとりつけました。本芝は芝横新町(よこしんまち)に、芝金杉は芝赤羽根(あかばね)にあり、まとまった鱼荷は鱼河岸へ送られ、両市场には少量のものが扬がったので雑鱼场(ざこば)とよばれます。多品种少量のためにかえって珍重され、芝肴(しばざかな)の名で江戸庶民に好まれました。
もうひとつの新场は、延宝2年(1674)に本牧浦(ほんもくうら)の渔民らによって日本桥本材木町に开かれた鱼市场です。その起立には同浦に対する鱼河岸の高率口銭(マージン)をめぐって抗争があり、诉讼の末に渔民が京都出身の商人の后援を受けて开设したいわくがあります。
叁市场とも渔民のうちから鱼问屋、仲买、鱼売りなどの鱼类流通业へと転身したものです。鱼河岸にとってはライバルといえるでしょう。しかし、本芝?芝金杉は10月から4月までの仕入れしか许されず、新场は武蔵、相模の31ヶ浦に限定されます。実力の差は歴然としており、鲜鱼流通の実権は鱼河岸が握ることになります。
江戸が开かれてからおよそ1世纪を経过した元禄期(1688―1704)には、江戸の渔业は鱼河岸を中心とした江戸鱼问屋による支配体制のもとに编成され、产地渔业者は鱼问屋への隷属(れいぞく)を余仪なくされます。
鱼河岸の产地支配
江戸鱼问屋による渔业者支配は职贷(しょくがし)とよばれる渔村への资金仕入によっておこなわれました。
鱼问屋は自分の持浦の渔业者に渔具の购入?补修资金から渔夫の雇用金や食事の费用にいたるまで前贷しするかわりに、渔村の全渔获物を引き取るという仕组みです。ただし高额な渔船は职贷の対象からはずされたので、当时の仕入証文によると、ひと网につき10両から数10両が限度でした。しかも渔获物の代金は鱼问屋の都合で仕切ったので、商売の规模からみれば、わずかな金で渔业者から鱼を収夺することができたといえます。
渔业者は仕入金を返して鱼问屋の支配からのがれようとしても、いっぺんには返済できない取り决めでした。「鱼荷100贯につき3両ずつ消金」するのが通例で、仕入金には利息もつくために、返済期间は次々に延长されます。渔业者はいつまでも鱼问屋に鱼を送り続けなければなりません。このような返済方法をよりどころに江戸鱼问屋は长く渔业者支配を続けました。
产地からの江戸出荷は渔村から鱼问屋へ直送されるのではなく、多くは在地の押送舟持鱼商人(おしょくりもちうおしょうにん)、通称旅人(たびにん)を経由しておこなわれました。江戸鱼问屋はここにも资金投下をしていきます。旅人の集荷元手金や押送舟代金を仕入することで、かれらを通じて产地の渔获物の确保をねらいました。押送舟代金の名目で贷付けた金额は大型船で约40両、小型船では10両程度。これで旅人を手なづけます。このような流通段阶への资金投下は职网とよばれ、渔业者に対する职贷同様、一括返済はできない决まりでした。
江戸鱼问屋と旅人らの特定関係をつくった要因に江戸前海の通船统制(つうせんとうせい)がありました。享保5年(1720)、幕府は海上警护のために浦贺(うらが)奉行所を设立します。これにより押送舟をはじめ、すべての船は奉行所に寄航し积荷の改めを受けることになりました。しかし鲜鱼を扱う江戸鱼问屋では、生鱼の鲜度落ちの不便が生じることから、船改めの免除と通船许可を愿い出ます。するとこれが认められて、浦贺奉行所より认可された鱼问屋が通行手形ともいうべき生鱼(なまうお)印鑑を発行する権限をもちました。このような鱼问屋を印鑑问屋(いんかんどんや)といいます。鯛问屋にかぎっては远隔地からの输送に通行切手を使ったので纸切手(かみきって)问屋とよびました。生鱼を运ぶ押送舟には印鑑问屋、纸切手问屋の証明が必要となるため、产地の旅人らは必ずどこかの江戸鱼问屋に结びつかなければ商売ができなかったのです。
江戸前海をかこむ渔村のすべてに押送舟があり、天津(あまつ)、白浜(しらはま)、富津(ふっつ)、船形(ふながた)などの有力渔村では十艘以上が旅人を通して江戸出荷をおこなっています。これらの押送舟は鱼问屋の资本で建造?维持されていて、鱼问屋の名前でよびならわされました。たとえば天津村の旅人市兵卫が鱼河岸の有力问屋であった米屋太郎兵卫(こめやたろべえ)へ送荷した船には「本船町米屋太郎兵卫船房州天津村市兵卫」などとあります。
鱼河岸では他の鱼问屋支配の旅人荷物をせりとってはならず、また、鱼问屋が渔村へ出かけて直接鱼を买いつけてはならないと规定しました。产地の鱼荷取引はすべて旅人に一任するかたちをとったのは、かれらを通して产地支配を间接的におこなうことが効率的であったからです。
旅人は产地では小买商人として渔师から渔获物を集荷します。かれらのうちには网元を兼ねる者や名主を勤める者もいました。流通手段をおさえ、渔民を自らのもとに编成することで利润を吸い上げます。かれらは地元领主への冥加金(みょうがきん)により、やがて地小买(ぢこがい)商人として株组织化します。独占集荷をおこなう旅人を统括することで、江戸鱼问屋は渔民から鱼を安値で确実に収夺することができました。
こうした封建的集荷组织は、江戸中期から后期にかけてゆるぎなく定着し、鱼河岸繁栄を支えました。
鱼河岸支配の终焉
文化文政期(1804?30)になると江戸鱼问屋と产地の関係に変化が生まれます。浜方に有力な名主があらわれて、自らが在地问屋化していったのです。かれらは渔村の経済的発展をささえる代官的な存在となり、江戸鱼问屋の支配を嫌って、これを排除する动きをみせるようになります。
おりしも天保12年(1841)、老中水野忠邦(ただくに)による政治改革、いわゆる天保の改革が断行されます。物価高腾が江戸十组问屋(とくみどいや)ら商人の流通独占にあるとされ、これら株仲间の解散が命じられます。幕府への纳鱼をおこなう鱼河岸はその机构を温存されますが、特権的支配力は失われました。とくに地小买商人株组织の消灭は大きな打撃で、产地支配の基盘はもろくもくずれます。これにより在地问屋が自由に出荷できる状况がうまれました。
いっぽう天保の改革の影响で流通の独占が缓和されたのを受け、深川と筑地にあらたな鱼市场が开设されます。深川鱼市场は江戸开府の顷に渔业开始の起源をもつ深川渔师町の渔民によって、筑地鱼市场は幕府白鱼役の下请问屋を出自とする鱼商によって开かれました。両市场が产地に対して鱼河岸よりも鱼を高く仕入れることをうたい文句に次々に荷を引いたので、鱼河岸との间に激しい対立が生まれます。
嘉永5年(1852)2月、富津村から筑地鱼市场へ送られた生鱼押送舟が鱼河岸により差し押さえられるという事件がおこります。鱼河岸と他市场の抗争が表面化し、决着は町奉行の预かりとなりました。そのとき裁定を下すのがこれも名奉行と名高い远山左卫门尉景元(とおやまさえもんのじょうかげもと)です。远山の金さんは「まあ仲良くおやんなよ」とばかり、深川?筑地の日本桥鱼河岸への编入を勧めまして、これにて一件落着となりました。
両市场を迎えて鱼河岸は问屋数をふやしますが、よそ者の参入を许すことは结束力の弱体化をあらわすもので、もはや渔民の自由出荷を认めざるをえませんでした。失地回復をねらう鱼河岸でしたが、ほどなく幕府は瓦解。后ろだてを失しない、かつての地位をとり戻すことはついに出来なかったのです。鱼问屋の支配下で渡世してきた旅人たちは世の中の変化に対応できず、多くは未返済金を残したまま、いずれか行方知れずとなりました。
时代は変わる
時代は明治へと移ります。封建的支配体制からのがれた浜方に、今度は産業資本が入りこみ、そこには別なかたちでの支配が待っていました。 近代社会にとり残された魚河岸は、東京の真ん中に閉ざされた窟(しま)で日々の販売競争に糊口(ここう)を継いでいきます。
鱼河岸が市场流通の拠点として、ふたたび大きな役割を果たすためには、大震灾と世界大戦という大きな时代の节目を経なければなりませんでした。
森火山(本名森薫叁郎)は明治13年(1880)、日本桥鱼河岸で鱼问屋を営む森源兵卫(五世)の叁男として东京?日本桥区本船町に生まれる。火山も同业の西长(本小田原町)で働くかたわら、独学で絵画を学ぶ。その后毎夕新闻、时事新闻に籍を置き、大正5年结成の东京漫画会に所属する。父亲の薫陶を受け、本人自ら「日本桥鱼河岸研究画家」を名乗り、多年の歳月を费やして江戸初期から大正时代に及ぶ「日本桥鱼河岸の人と暮らしと商い」を絵笔により活写、克明かつ史料的価値が高い膨大な労作を今日に残している。昭和19年(1944)10月、东京?港区白金にて没。
江戸に花开いた鱼食文化 江戸の人々は鱼好き
鱼河岸は江戸城内の御膳鱼御用をつとめる机関だった。日々の纳鱼はとても名誉なことであり、何をおいても守られていたが、たい(鯛)、こい(鲤)、ひらめ(平目)、ぼら(鯔)、すずき(鱸)、しらうお(白鱼)など流通量の少ない高级鱼を市価の十分の一程度の廉価でおさめねばならず、実际には大きな负担をしいられた。
江戸中期、元禄の顷(1688ー1704)には、江戸の経済が急激に発展し、金银が幅をきかせる时代が到来する。その主役は町人で、身分では武家にかなわないが财力で対抗していく风潮が生れていく。町人の生活は华美にはしり、とりわけ衣食には銭を遣い、走りもの(初物)の鱼に法外な金銭を出すような见栄を竞う世相がはびこった。初鰹に3両(现在14、15万円程度の额)が惜しげもなく费やされた逸话は、今日でも语り草となっている。このような风潮に幕府はたびたび倹约令を出すが守られることはなかった。鱼河岸の商売もいきおい町人层に向けられていく。
江戸前海の豊富な渔获を背景に、あじ(鰺)、いわし(鰯)、こはだ(小肌)などの多获鱼から、あらゆる高级鱼までが町人の胃袋にきえていった。江戸后期の儒学者寺门静轩(1798ー1868)は着书『江戸繁昌记』で「鲜鱼を3日も食べなければ身体の骨がバラバラになる」と记すほど、鱼介类は江戸の人びとの贵重なたんぱく源となる。鰻、寿司、天麩罗など代表的な鱼料理が江戸で完成したのは、豊かな江戸前渔场の存在とともに関东地廻り醤油(浓口タイプの醤油)の出现が见のがせない。とりわけ化政期(1804ー30)花屋与兵卫创始といわれる「にぎり寿司」は新鲜な鱼を手早く食べる江戸人らしい食べ方である。まぐろ(鮪)も、当时下鱼扱いだったが、天保3年(1832)の大渔时に醤油渍けにした「づけ」を寿司ににぎったのがきっかけで人気を博した。それ以来、世界に拡がりをみせている寿司の代表格となっているのは周知のとおりである。
●以上は、『フードカルチャー』誌既刊号(第15号)で详しくお伝えしています。
- 1『近世の渔村』(荒居英次着?吉川弘文馆?1970年)
- 2『日本桥鱼河岸の歴史』(冈本信男/木戸宪成着?水产社?1985年)
- 3『鱼河岸百年』(鱼河岸百年编纂委员会?1968年)
- 4『巨大都市江戸が和食をつくった』(渡辺善次郎着?农文协?1988年)

1962年东京生まれ。(株)国际鱼食研究所主任研究员。博物馆やイベント企画等の仕事を経て筑地市场に勤务。
日本桥时代から连绵と続く&濒诲辩耻辞;河岸の気风&谤诲辩耻辞;を身をもって知り、十年前から市场の古老から闻き取りを开始。その后、HP『鱼河岸野郎』『筑地の鱼河岸野郎』の制作に携わり、幅広い史実调査に基づいた&濒诲辩耻辞;鱼河岸叁部作&谤诲辩耻辞;(「鱼河岸四百年」「讲谈鱼河岸年代记」「再现日本桥鱼河岸地図」)を発表、高い评価を受ける。以降も执笔、ブログ等を通じて、重厚な歴史记述から奇想天外な読み物まで、消え行く鱼河岸を&濒诲辩耻辞;河岸の表现者&谤诲辩耻辞;の视点から描き続けている。









