研究機関誌「FOOD CULTURE No.14」世界の寿司のれん繁盛記
魅力満载な海外寿司事情~欧州?中近东?アフリカ编
前号のあらすじ
前号では、アジア?オセアニアの寿司事情について报告した。まずアジアでは、すしのご先祖様とも言える「なれずし」が今も食されているのを见闻した。お隣の韩国では「シッケ」、台湾は山岳民族のタイヤル族が造っている「トワメ」、そしてミャンマーにも昔から「ンガ?チン」なるものが食べられている。共通するのは、どれも自宅で手造りできるもので、すしと比べればはるかに安くつくれることだ。
香港そして中国本土(上海?北京?広州)にもすしロボットや回転カウンターを导入している店が多い。高级店、大众向け薄利多売の店あり、饮み放题?食べ放题の看板も目に付く。すし文化が着実に定着していることはたしかである。上海は、1980年代后半にヤオハンが初めて日本料理店をオープンしてからで、今では200轩を数える势いだ。
タイやマレーシアはすし文化が着実に根付いているが、それ以上に、东南アジア全域に新鲜な鱼介类を供给できる巨大基地に成长していた。
一方、オーストラリアにもすし文化が定着を始めている。ハンバーガーのように立ち食いできるすしを开発した进藤さんや、生鱼でフランス料理と日本料理のフュージョンを成功させ世界各国からのグルメをうならせている和久田さんが、「オーストラリアの食文化を変えた男」と赏賛されている。「生鱼は料理を知らない野蛮人が食べるもの」と言った西洋人、そして「火を通したものでなければ絶対に食べない」と言う中国人が、今では竞ってすしを食べる时代になったことが分かる。
花のパリかロンドンか
ニューヨークとベルギーで寿司店を経営した私の体験からすると、ヨーロッパのすしブームはアメリカより大体10年ほど遅れて始まったとみて间违いないと思う。
かつてイギリスはアメリカと并び、「料理のまずい国」の笔头に挙げられていた。ところが、まずアメリカが「美食の国」に脱皮すると、やがて大西洋をへだてて向かい合うイギリスにその影响が及び、ついにイギリスにも「モダン?ブリティッシュ」とよばれる美食料理が诞生するに至った。
この诞生の过程をみていくと、ニューヨークが大いに関わっていることに気がつく。
ニューヨークのセレブシェフ、ジャン?ジョルジュ?ヴォングリヒテンの「ヴォング」が、ハイドパークに面したナイツブリッジにオープンしたのは1995年であった。ヴォングリヒテンがフレンチとタイ料理のフュージョンを标榜してニューヨークに本店を开いたのは92年のことで、开店するや直ちに『ニューヨークタイムズ』纸が最高の4つ星を付けて大评判になったのだが、その3年后にはもうロンドンに进出したのである。
こうしたニューヨークからのファッショナブルなエスニック料理店の进出がロンドンの料理界に火をつけたのだが、「ブリティッシュ?ジャパニーズ」の影响も大なるものがある。(経営阵にも调理场にも全く日本人がいない日本レストランをこうよんでいる)。95年の创业の「ワガママ」という店は、ロンドンを中心にダブリンにまで支店を広げ、01年には7店を拥するまでになっている。日本食と言ってもメインはラーメンやヤキソバで、他にもギョーザ、ヤキトリ、カツ、カレーなども出しているが、味はイギリス人好みにアレンジされている。例えば、辛いチリソースのスープにステーキやコリアンダーをのせた「ビーフラーメン」とか、ココナッツミルクの入った「カレーヤキソバ」など。
回転ずしもこのブリティシュ?ジャパニーズの一环とされている。ロンドンの回転ずしの草分けは、リヴァプール?ストリート駅构内に94年に开店した「モシ?モシ?スシ」だが、回転ずしを一跃有名にしたのは97年にソーホーに开店した「ヨー!スシ」だろう。何しろベルトコンベアーの长さが65メートル、客席数が125席という超大型店で、コンベアーの上にプラスチックでカバーされたすしの皿が二段重ねになって回ってくるのであるから惊く。自走式の箱型ロボットがドリンクを配って回り、ダンスミュージックが大音量で流れている。
パリッ子が回転ずしの存在を知ったのは、オペラ座近くのイタリア大通りに98年に开店した「能登」からである。人通りの激しい通りからガラス张りの店内がよく见えるので、道行く人々が立ち止まって兴味深げにのぞきこむ。店名通り、この店はロンドンにある「能登」を経営するシャイ社が、アサヒビールと共同出资でパリに进出したものである。
この能登以来、フォアグラのすしとかシャンペンを供するフランス人経営の高级回転ずしの店も出来たが、こと回転ずしに関する限り、パリはロンドンには远く及ばない。それはパリは日本人観光客が多く、早くから本格的すし店が数多く出来ていてハイテクやエンターテイメントよりも料理の実质性を重んじるフランス人が、こちらの店の方に足しげく通うからだろうと思われる。
これはニューヨークにしても同じで、500店とも言われるすし店の中でも、回転ずしは5本の指で数えられるくらいしかない。
欧州唯一の星付き日本レストラン
アムステルダムのスキポール空港には何カ所ものシーフードスタンドがあって、スモークサーモンや生ニシンのサンドイッチなどと共にパック詰めのすしも売られている。値段はかなり高いのだが、日本行きに乗り継ぐ団体客が喜んで买っている。
ところが最近になって、すしだけを専门とする「白鷺」という店が出来た。こちらもパック詰めなのだが、店で握った出来たてを売っている。常时2、3人が握っているが全员日本人だ。
「一体谁が経営しているのだろう?」と気にしながらも、乗り継ぎ时间が无いためいつも横目で见ながら通り过ぎていた。ある时、出発までに余裕があったのでついに立ち寄ることが出来た。応対してくれたのは、それこそ白サギのように美しい色白の若い女性だった。宇佐美织江さんである。
で、织江さんは、长野の调理师学校にいた时に、学校に白鷺から求人募集があったのだそうだ。织江さんは早速これに応じ、卒业するとハーグの本店にやってきた。やがて同じ店で働いていた宇佐美叁雄さんと结婚し、叁雄さんが空港店の责任者に任命されたので、夫妇揃ってここで働くようになったという次第である。ここでふと思った。この空港店は「白鷺」ではなく「おしどり」とすればいいのに。
ホテルオークラがアムステルダムに开业したのは1971年だった。ホテル内の懐石料理店「山里」も同时にオープンした。
私が初めて、この山里を访れたのは85年のことだったが、この时料理长の大岛晃さんがこんな话をしてくれた。「この开业した71年というのは、ちょうど昭和天皇?皇后のご访欧の年で、わたしどもでもお食事を用意して召し上がって顶きました。」
なお、2000年、今上天皇?皇后の访欧时にも、大岛さんが阵头指挥をして和食ビュッフェを担当したということも、ずっと后になって知った。
02年、17年ぶりに山里を访ねてみた。大岛さんはもう恐らく交代で、とっくに日本に帰ってしまっているだろうと思った。ところが、何と、前回とほとんど変わらぬ、若々しい姿で现れたので惊いてしまった。「私は海外にしっかりとした日本料理を普及させたいという希望を前々から持っていたんですよ。それでオークラがアムステルダムに进出すると闻いてすぐに志愿したのですが、行くからには现地に骨を埋めようと覚悟を决めていました。
结局30年が过ぎてしまいましたが、お荫様でうちのお客様も以前は7割が日本人で3割がオランダ人だったのですが、今は逆転してオランダ人が7割になりました。ようやくオランダで和食が认められるようになったのですね」
実は02年、ここ山里は、『ミシュラン』から1つ星を取得した。これはヨーロッパの和食レストランのカテゴリーでは初めての快挙である。(以降毎年连続してこの1つ星を守っているが、今なお山里以外の日本レストランで星を得ている店はない)
东欧、ベルリンの壁が崩壊して
ブリュッセルからワルシャワまで、18时间かけて列车で行った。飞行机ならたった数时间なのになぜこんな酔兴なことをしたかと言うと、一度シベリア鉄道を経験してみたかったからだ。それに今やブリュッセル駅でワルシャワ行きの切符が即座に买えるのだ。本当はすしブームに沸いているモスクワにまで行けば、「シベリア鉄道に乗った」と胸を张って言えるのだが。ロシアはビザやら面倒だし、鉄道ではちょっと时间がかかりすぎるので、今回はワルシャワまでで我慢しておく。
ワルシャワの中央駅を出ると、駅前には近代的高层ビルが立ち并んでいた。ホリデイ?インの看板も见える。目の前はポーランド航空のビルで、ここにはマリオットホテルが入っている。このマリオット近くに新しく出来たビルの1阶に、回転ずしの「日本馆」がある。
「ワルシャワにも回転ずしが出来た」と闻いて、はるばるとやって来たのだが、幸い経営者の福永俊厚(としひろ)さんに会えて、开业のいきさつを详しく闻くことが出来た。そもそも福永さんは饮食业界の人ではなかった。かつては东京でファッションモデルのプロダクションを経営していた。このプロダクションから资生堂のキャンペーンガールやミスワールドの日本代表などを送り出したという。80年代半ば顷からは南米に常驻するようになった。チリやブラジルで美人をスカウトし、日本に送り出すのだ。やがて89年、东欧の自由化时代が始まった。
东欧と言えば、チェコ、ポーランド、ルーマニアなど、これまた美人の宝库である。そこで福永さんはこちらに乗り换えようと89年、今度はワルシャワにやって来た。初め仕事は顺调で、何人もの东欧美人が日本に渡った。ところが间もなく日本でバブルがはじけてしまった。
さあ困った。しかしワルシャワが大层気に入った福永さんはもう日本に戻る気はないと、昔から料理をするのが好きだったので、日本レストランをやることに决めた。板前は雇わずに自分が调理する「东京」レストランをオープンしたのは92年だった。ワルシャワには当时90年にオープンした「燕」という日本レストランが1轩あった。しかしその顷日本人驻在员が300人はいたので、両者は共存することが出来た。
ワルシャワからの帰りは、まずベルリンで途中下车した。ヨーロッパセンターの中にある観光案内所に行くと、同じビルに「大都会」があると言う。日本人のマネージャーがいて、「ベルリンには今70轩の日本レストランがあって、すしも大人気ですよ」と教えてくれた。回転ずしだけでも5、6轩はあるとも言う。
ポツダム広场に近い大きなショッピングモールの中に、「スシ?サークル」という回転ずしの店があった。経営者はドイツ人で、フランクフルトに1号店を开くとたちまち3店に増やし、やがてミュンヘン、ハンブルグ、デュッセルドルフ、そしてこのベルリンへと快进撃を続けてきたという。
ベルリンからデュッセルドルフに回った。まだデュッセルドルフに日本レストランが无かった时代、ここを访れた当时の岸信介首相が、「ドイツ人を招待できるような立派な日本料理店があったらなあ」と言ったのがきっかけで、1964年にレストラン「日本馆」が诞生した。パリの「たから」と并ぶヨーロッパ最古の日本レストランである。
デュッセルドルフに「?かく」あり、との评判を闻いていた。この店の経営者ですし职人伊藤文男さんが、日本馆から招かれてやって来たのは1964年で、17年间勤めた后、81年に独立して「?かく」を开いた。
伊藤さんはデュッセルドルフ以前にも海外に出ている。1959年、22歳の时に、それまで働いていた、日本桥の料亭「きかく」が香港へ进出したために出向したのだ。それで「海外に出た最初のすし职人」と言われている。今はもうカウンターに立ってすしを握ってはいないが、毎日キッチンの中で目を光らせているという。
デュッセルドルフで2番目に古いのが、73年にオープンした「大都会」だ。东京?高田马场のレストラン「大都会」がキッコーマンと共同で进出した。キッコーマンはヨーロッパに醤油を宣伝するチャンスだと、この诱いに乗った。ハンブルグ、ミュンヘン、そしてベルリンに支店を持つ。メインは鉄板焼きなのだが、最近すしコーナーを设けた。日本の大都会から直接派遣されたと言う、これまた美人の深津絵里さんが、一生悬命すしを握っていた。
石油と砂漠の国にも
UAE(アラブ首長国連邦)は、1971年にドバイ、アブダビなど7つの首長国が連合して、1つの独立国となった。首都はアブダビである。 日本の原油輸入相手国の第1位はこのUAEで、全輸入総量の3分の1を占めている。ドバイ空港に到着したが、ドバイ市内は後まわしにして、すぐにアブダビに向かう。ドバイとアブダビの間は、乗り合いのシャトルバスが間断なく走っている。砂漠の中を片側4車線という広い道路が続くが、車はほとんどいないし、もちろん信号など無いので2時間足らずで着いてしまった。
アブダビのヒルトンホテルには、「庆」という日本レストランが入っている。庆レストラングループのひとつで、ここは81年のオープンだが、最初の店を80年にクエートのメリディアンホテルの中に开くや、続いてバーレーンのヒルトンの中に开いた。すなわちたつた1年でペルシァ湾岸に沿って3店を作ってしまったわけだ。経営者は日本人で、かつてクエート王室に大きなコネクションを持つていて、石油関连のフィクサーとして活跃した人だそうだ。
この店でちょうどランチを食べに来た「サミット」の樋口春徳社长に出会った。こちらから访ねていくところだったので好都合だった。サミットはコスモ石油の子会社で、アブダビ石油会社の、海上にある油田基地などに日本食品を供给している。ここは大势の日本人が働いているからだ。
ドバイに戻って、ハイアットホテルの日本人レストラン「京(みやこ)」を访ねた。この店はホテルの直営である。総料理长の古川信治さんは最近着任したばかりだが、この古川さんの海外歴が凄い。かつて东京プリンスにいたのだが、バンクーバーを皮切りに海外に出た。以后バーレーン、デュッセルドルフ、ジャカルタ、シンガポール、マニラ、クアラルンプール、オーストラリアなど、长い所で4年、平均すると2年ごとに店を替わってきたという。
今は毎朝鱼市场に寄って、鱼の买い付けを済ませてからホテルに出勤しているそうだ。もっともホテルから鱼市场までは歩いて5分位なのだが。私もその鱼市场を见てきた。
荷台に大きな水槽を积んだトラックが何台も止まっていて、活きた鱼を売っているが、大半は屋根もない直射日光の当たるコンクリートにシートを敷き、その上に鱼を无造作に并べている。
古川さんは、「冬はともかく、真夏は50度にもなりますから、とてもすしや刺身には使えませんよ。だから夏は日本からの冷冻物が主体になります」と语った。すしカウンターは小さく、5、6人も座ればいっぱいだ。握るのはフィリピン人とネパール人だ。それぞれ15年と5年の経験があるという。
地元产のハムールという鱼は実に美味だった。ハタ科の白身鱼で日本でいうと、クエに近い鱼だそうだが、コリコリと歯応えもしっかりしている。地元产は他にタイやアジがある。
マグロは隣のオマーンから、また时々地中海マグロが入る。あとはタコ、帆立、赤贝、北寄贝、ハマチ、サバ、イクラなど全部日本からの冷冻物である。コメはカリフォルニア米を使っている。
キャビアのすしもあった。キャビアはペルシァ湾の向こう侧のイランが本场なので、他よりは安く手に入るようだ。古川さん特製の「キャビア茶渍け」を御驰走になった。白いご饭の上にキャビアが山盛りにのっている。その量がハンパではないから、茶渍け1杯が92米ドルもする。キャビアを十分に堪能したが、后にも先にもこんなに高い茶渍けは食べたことがない。
ドバイにも回転ずしが出来ている。超豪华ホテルの「エミレーツ?タワー」の中の、250席を有する日本レストラン「トーキョー?アット?ザ?タワー」が、00年に46席の回転ずし用特别室を设けたのだ。この店もホテルの直営なのだが、さすが金持ちの泊まるホテルだ。回転ずしのせせこましさはなくゆったりとした客席配置で、コンベアーがなければ高级レストランの趣きである。
マグロ船基地のすし屋さん
喜望峰にやって来た。
食文化史上、この喜望峰発见は一大エポックと言ってよい。喜望峰回りの航路が拓かれたために、それまで高価で手の出なかったアジアの香辛料がヨーロッパに大量に出回り、それによって西洋料理が発达したからである。
ケープタウンの日本レストラン「寿」は1991年の创业である。古い建物を改装しているので天井が高い。暖炉もそのまま残しているし、すしカウンターの上にシャンデリアが下がっているという、和洋折衷の内装である。経営者の洼川(くぼかわ)智士(さとし)さんから、ケープタウンのすし事情、マグロ事情を闻くことが出来た。
ケープタウンは日本のマグロ渔船の基地である。それで、昔はこのマグロ船の日本人船员が大挙してこの店にやって来て、饮めや歌えの大騒ぎをくり広げたそうだ。ケープタウンに上陆して、长かった船上の苦労を一気に発散させたのであろう。
だがやがてマグロ船が减船になった上、给料の高い日本人の代わりにベトナム人やインドネシア人を雇うようになったので、以前なら1隻に30人はいた日本人船员がわずか6、7人になってしまった。だから彼らが店に来ても以前のような盛り上がりはなく、おとなしく饮んで食べて帰るだけになってしまった。で、店は今大分不景気になってしまったと言う。
ところで、私はケープタウンのマグロ船はインド洋の南からオーストラリアにかけて出渔してミナミマグロを获ってくるのだとばかり思っていた。ところが洼川さんによると、ミナミマグロの时期は4?9月の期间だけで、それ以外の时期は遥かカナダ冲からアイルランド冲まで出かけ、本マグロを追っかけているのだという。そして获れたマグロを日本に运ばず、ケープタウンまで积んで戻ってくるのだそうだ。それはここから日本に向けてマイナス60度の冷冻船が定期的に出航しているからで、船が満杯になるような大渔の时は日本に向かうが、そんなことは灭多にないので、一度ケープタウンに戻って获れた分だけ定期运搬船に託し、すぐまた出渔する。この方が経済的に効率がよいのだ。なお运搬船が日本からの帰りに日本食品を积んでくるので、マグロ船はこれを仕入れて出航する。
また船の定期修理も、いちいち日本に戻らずにこのケープタウンで行う。船がドッグに入っている间、日本人船员は飞行机で日本に里帰りするのだそうだ。
「ジャパニーズ?スシ」の看板を掲げた「港」は、村冈初代(はつしろ)?千恵子夫妻が2人だけでキッチンを切り盛りしている。すしカウンターはなく、村冈さんはキッチンの中ですしを握る。千恵子夫人は天ぷらや扬げ出し豆腐などを担当している。夫人が扬げた热々の海老天2本にアボカドとマヨネーズを加えて里巻きにしたダイナマイト?ロールが人気だそうだ。
「最初はカラオケバーの店にしたんです。しかし日本人の船员がだんだん少なくなって売り上げが上がらなくなったので、ちょうど流行りだしたすしブームに便乗してすしの店に変えたんですよ。お荫様で今は毎日忙しくて大変です」とは言うものの、昼は店も开けずに営业は夜の7时からのみで、土?日は完全に休み。
さらに忙しくて鱼がなくなってしまうと、9时には店のドアを闭めてしまうことも度々ある。つまり1日にたった2时间の営业だ。
「ええ、そこそこに储かればいいんです。もうけよりもお客さんの喜ぶ颜を见るのが一番うれしいですよ。それから私共がケープタウンに魅かれているのは、ここだと毎日ゴルフが出来るからなんです」
土?日は言うまでもなく。平日もゴルフ场に行く。だから営业は夜だけなのだが、「ワンラウンド终えてから近くの渔港に行くと、ちょうど船が帰ってくる顷で、船から直接鱼を仕入れて、それから店にくるんです」
さて村冈さんにはオーナーシェフの他にもうひとつの颜がある。テレビコマーシャルのスターなのである。お荫で地方の人には、この店は「スターの店」として有名で、それが店の繁盛にかなり贡献している。
前号のコラムでは、世界に広がりを见せているすし文化が、それぞれの民族食に同化し変容をはじめている様子を绍介した。同様にすしには欠かせない醤油についても、高级店はキッコーマンであったり、薄利多売の大众店では中国や东南アジア产の醤油を置いているなど、日本にいては想像もつかない各国各店それぞれの事情を报告することができた。
これもすしには欠かせないワサビのことだが、日本の特产物である本ワサビは国际间の植物防疫法があり简単には输出入できないことになっている。それで本ワサビを使えるのは最高级店に限られる。现地の店のほとんどが粉ワサビを溶いて使うが、少し高级店になると、日本のスーパーでも见かけるチューブに入った练りワサビを使っている店もある。
ガリは日本製や台湾製が输出されているが、最近アメリカでは、メキシコでとれたショウガをロサンゼルスでガリに加工したものが出回っている。それでも、中南米のあるすし店では、输入品のガリは価格に跳ね返るということで、「并ずし」にはガリは添えられていなかった。

1942年东京生まれ。东京大学农学部卒业。サッポロビール入社。1969年に退社后、ニューヨークへ渡る。レストラン「日本」の仕入れ係の仕事がきっかけで、鱼卸商に従事。1975年、ニューヨークで最初の寿司専门店「竹寿司」を开店。现在、「ベルギー竹寿司」経営のかたわら食文化研究家として世界各地を取材。着书に『お寿司、地球を廻る』(光文社)、『おいしいアメリカ见つけた』(筑摩书房)、『ニューヨーク竹寿司物语』(朝日新闻社)、『サムライ使节団 欧罗巴を食す』(现代书馆)、『ニューヨーク変わりゆく街の食文化』(明石书店)などがある

























