研究機関誌「FOOD CULTURE No.14」魚食文化四世紀の歴史発掘 日本橋魚河岸の来歴 第1回 魚河岸ができるまで
日本橋魚河岸の来歴 第1回 魚河岸ができるまで
近年、日本食がすぐれた长寿食?健康食として世界各国から注目されています。しかし、その一方でわれわれ日本人が、食に対する感性を希薄化させているのもまた否めません。豊かな风土に恵まれた日本ですが、先祖はさらなる豊かさを求めて工夫を重ねてきました。その最たるものが鱼食です。痛みやすく运びにくい海川の幸を、知恵を駆使して食べてきたのが、この国の鱼食文化であったように思います。米と鱼の民といわれるように、鱼食は日本人の食の中心です。
そこで、现在の筑地市场の前身ともいえる日本桥鱼河岸の来歴をみることは、日本人と鱼のむすびつきを知る手がかりになると考えました。鱼河岸がどのように生まれたのか。その创始者といわれる森孙右卫门を追いながら、鱼河岸诞生の数奇な运命をみていきます。
江戸っ子の见本のようだ
鱼河岸とはかつてお江戸は日本桥のたもとにあった鱼市场のことをいいます。天正18年(1590)摂州西成郡佃村の名主森孙右卫门(もりまごえもん)を笔头とする渔师34名が家康に従って江戸入りしました。かれらは江戸の前海の渔业を许されるかわりに捕った鱼を御城に纳める役目を负います。そして、その残余の鱼を市中に贩売したのが鱼河岸のはじまりとされます。
元禄の顷(1700年顷)江戸は人口百万を数える世界一の大都市であったといわれます。その商业の中心地日本桥にあって鱼河岸はとりわけ繁栄をみました。「朝千両」といわれ、江戸では日に3千両という金が流れるが、そのうちの千両は朝、鱼河岸で动いたといいます。昼は芝居町で千両、夜は吉原で千両の都合3千両。江戸市民のたんぱく源である鱼介类を一手に引き受ける鱼河岸の繁昌ぶりがうかがえます。
しかし単に売れ口の良い市場というばかりでなく、そこに生まれた鼻っ柱の強い独特の気風もまた際立っていました。現在、日本橋北詰に建つ旧魚河岸の碑「乙姫像」。そこに添えられた久保田万太郎氏による碑文には「江戸任侠精神発祥の地」とあります。任侠精神とは強きをくじき弱きを助けること。御用魚を運搬するときには大名さえも道をゆずったという逸話にみられるように、小田原町の連中はたいそう侠気に富んでいました。また鮮魚を扱うから何事も手早く行動も言葉づかいも小気味良い。さっぱりとして男らしいことを「いなせ」というのは、魚河岸の若い衆の髷まげが魚のイナ(ボラの幼魚)の背に似た鯔背(いなせ)銀杏(いちょう)だったことからきているといいます。人びとはその威勢の良さに江戸っ子の见本のようだと喝采を送りました。
大消费都市江戸において、鱼好きの江戸市民のお腹を満たすとともに、かれらの心象的シンボルとして信望を集めた鱼河岸の果たした役割は少なからぬものがあったでしょう。
伝承の世界にはじまる
明治22年(1889)鱼河岸会所に勤める川井新之助によって书かれた『日本桥鱼市场沿革纪要』は、市场に残る史书を年代记にまとめたもので、鱼河岸を知る上で欠かせない基础资料となっています。そこに収められた「鱼问屋ノ起原」が森孙右卫门の物语として巷间に伝わりました。ここでその要约を掲げてみます。
『天正年中(1573?1592)、家康公が上洛の折、住吉神社に参拝されたときに川を渡る舟がなく难仪したが、安藤対马守が佃村名主の见一孙右卫门に命じて、かれの支配の渔船で无事に川を渡ることができた。その际に孙右卫门の家に立ち寄りご休息なされたので、古来より所持していた「开运石」を御覧に入れたところ、家康公は「この神石を所有することは开运の吉祥なり」と喜んで赏美し、差し上げた白汤を召し上がった。そして屋敷内の大木の松叁本を御覧になって「木を叁本合わせれば森となる。今后は森孙右卫门と名乗るがよかろう」と仰せになり、孙右卫门はありがたく赐った&丑别濒濒颈辫;&丑别濒濒颈辫;』
渡し舟、开运石、松の木と、伝説めく道具立てによって语られる家康との邂逅は、鱼河岸诞生のエピソードとしてつねに引合いに出される有名なものです。ところがこれと似た话が他にも残っていて、たとえば芝市场には「天正18年、家康公が芝浦を通航の际に浅瀬に乗り上げて难仪したのを救助」する由縁が伝えられています。さらに同音异曲のものは各地にひろがっており、家康の危急を救うパターンは家康伝説ともいうべきもので、江戸时代に特権を得た者の由来によく登场してきます。
ともあれ奇縁を得た孙右卫门たちがその后どうなったか。続きを読んでみましょう。
『&丑别濒濒颈辫;&丑别濒濒颈辫;庆长4年(1599)に家康公が伏见在城の际には御膳鱼の调达につとめ、徳川军が瀬戸内海や西国の海路を隠密に通行するときは、孙右卫门の渔船でとどこおりなく通行させるなどの手助けをしたが、とくに庆长19年(1614)の大坂冬の阵、及び翌元和元年の夏の阵では、渔船を军船に仕立てて、付近の海上を侦察し毎日、本阵へと报告をした。この褒美として佃村、大和田村の渔民に大坂城の焼け米を大量に下され、大坂表町屋敷地一万坪余を拝领される。しかしこの土地には持主があったため、両村の渔民らは困り、その旨を申し上げると「それはもっともなこと」となり、「何でも良いから他のことを愿い出よ」とおっしゃるので、孙右卫门并びに渔民らは「江戸に出て末永く家康公にお仕えしとうございます」と申し出た。』
どうやら孙右卫门たちは御膳鱼を届けるほかに海上での谍报活动などの军事行动をおこなっていたことが判かります。
そもそも天正18年(1590)の家康江戸入りとは、秀吉の小田原攻めの际に家康军の一支队が江戸城を夺取したことによります。孙右卫门たちが家康に従って江戸に入ったのなら、まさにそれは江戸攻撃军としての进驻を意味するのではないでしょうか。
戦时に功をあげるほどのかれらは、単なる渔师団ではなく、実力を备えた水军のような存在だったことは想像に难くありません。论功行赏として、広く江戸湾の渔业権を得て、のちに佃岛という居住地まで赐るのですから、よほど大きな働きもし、时に命がけの场面すらあったとも考えられます。
冒头の住吉神社参诣は天正年间の家康上洛记録からみて天正10年(1582)とほぼ推定されますが、この参诣の直后、伏见滞在中に勃発したのが「本能寺の変」でした。家康は敌地の険しい山中をわずかの味方を伴って冈崎城までたどりつく生涯最大の危机「伊贺越えの难」にみまわれます。一説にはこのとき伊势から叁河までの舟行を手助けしたのが孙右卫门といわれます。その隠密的な行动をして「忍びの者」との説まで出てくるのですが、ありえない话ではないかもしれません。
孙右卫门の足跡をたどると戦国时代末期の物騒な社会状况に行きあたるようです。しかしすべて伝承によるもので、実体はつかみどころがありません。徳川政権成立时を详らかにするのをはばかれる歴史と共に、鱼河岸诞生の记録も埋もれてしまった感があります。
二人いた孙右卫门
鱼河岸の研究では『日本桥鱼市场の歴史』冈本信男氏、『鱼河岸百年』叁浦暁雄氏、『东京都中央卸売市场史上巻』木村荘五氏が、それぞれ精华を残されました。先人の労作に感谢しながら、ぼやけた鱼河岸诞生のイメージを结んでみようと思います。
伝承の世界からきた孙右卫门は多くの谜をはらんでいて、生没年にしても不可解な点があります。筑地本愿寺にある供养塔には寛文2年(1662)に94歳で死没とありますから、逆算すると永禄12年(1569)生まれ。家康との出会いである天正10年にはわずか14歳です。あまりに若すぎるため、この謁见をかりに30歳前后であったとすると寛文2年には110歳にもなってしまいます。
また、最初に日本桥本小田原町に鱼店を开くのは孙右卫门の子九左卫门といわれますが、史料には「长男九右卫门」、「孙右卫门二男」、「総领孙右卫门」とさまざまに表记され混乱しています。长男か二男か、九左卫门か九右卫门か、総领孙右卫门とはどういうことなのか。
冈本氏はこの不整合を、孙右卫门が长男に名主の家督を世袭させたことで孙右卫门が2人存在していたと推测しました。家康に謁见したのは父孙右卫门、寛文2年に死去したのは子孙右卫门、そして鱼河岸に店を开くのは二男九左卫门。これで説明がつきます。初めて江戸へ下った天正18年に长男は22歳。この顷に家督相続があったとすると、そこに孙右卫门の一族繁栄への深虑远望をみることができます。
孙右卫门の出身地、西成郡佃村は大坂湾北部に位置し、天正10年以降秀吉の居城となる大坂城のお膝元ともいえる土地です。天下人の时世に大坂は年を重ねるごとに繁栄をみたことでしょう。いかに家康との知遇があったにしろ、孙右卫门が故郷を离れて一族郎党とともに江戸に移住するなどは大変な冒険であったはずです。
そこで孙右卫门は长男に名主の职を継がせて故郷を守らせるいっぽう、自らは二男とともに江戸の渔业権确保と移住に向けてのアプローチをはかりました。すなわち父子二代の孙右卫门は徳川と豊臣それぞれにヘッジしたとも考えられます。状况をみれば、そのような用心は当然のことかもしれません。
天正から文禄年间(1592?1596)にかけて二男九左卫门を含む7人の渔师が数度にわたり江戸に下っています。海上の谍报活动のためともいわれますが、主な目的は渔业でした。将来の移住を见すえての试験操业と思われます。この7という人数には兴味深いものがあって、かれらの白鱼渔は「六人网」という3人ずつ2艘の舟で行なう巻き网式渔法であり、予备も含め7人単位で操业したことに一致します。かれらは毎年11月から翌3月までの白鱼の渔期に东下しては网を引いたのでしょう。
孙右卫门たちの江戸进出を援助していたのが「鱼问屋ノ起原」にその名が出てくる安藤対马守重信です。叁河に生まれ生涯を徳川家に仕えた安藤氏は庆长18年(1613)に老中职についています。この徳川重镇の肝入りで江戸での活动が可能となりました。これ以后も安藤対马守の庇护のもとで孙右卫门たちは自らの地歩を固めていくのです。
庆长3年(1598)伏见城で秀吉が死去します。そして2年后の同5年には天下分け目の関が原の戦い。ここでも孙右卫门たちが参加したことはあきらかです。いよいよ天下の趋势(すうせい)は徳川と决しました。その空気は大坂にも満ちていたことでしょう。しかし孙右卫门の行动はなかなか慎重です。本家佃村の渔民たちを大挙江戸に向かわせるのは时期早尚とみたのか、まずは先の7人の江戸移住がおこなわれました。
庆长9年(1604)家光诞生のお七夜祝いに7人がお鱼御用を勤めた记述が『沿革纪要』にありますから、移住は関が原以降2、3年で进められ、庆长9年までには鱼店が开かれていたことになります。7人がそれぞれ出店したのではなく、九左卫门が最初の鱼问屋をつくり、その集荷には全员であたっていたのでしょう。问屋といっても捕ったものを売るというきわめて质素なかたちですが、ここに记念すべき鱼河岸の一号店が生まれたことになります。ただしこの店が开かれた场所は日本桥ではありません。
鱼河岸起立は庆长11年か12年
九左卫门の鱼店は道叁堀の河岸に出されたと考えられます。道叁堀は家康江戸入り后まもなくつくられたもので、旧平川河口、现在の和田仓壕辺から一石桥まで开削されたものです。そこから江戸桥を过ぎて霊岸岛の原地形にそって东进し、隅田川をはさんだ小名木川に接続すると、まっすぐに行徳をめざします。それは豊富な製塩地行徳と江戸を结ぶ重要な塩の运河でした。この道叁堀筋が庆长の顷には新兴商业地として商家が轩を并べる賑わいをみたのです。
ところで旧平川河口あたりは四日市といわれ、古くから4日ごとに市が立つ四斎市であったことが知られています。そこには鱼市场があって塩干物が并び、ときに鲜鱼までひさいでいたといいます。そうした繁昌地であれば九左卫门たちはぜひとも进出したかったのかもしれません。しかしそれは事情がゆるさなかったのでしょう。そこで四日市からほど近い道叁堀に出店したものと思われます。
庆长8年(1603)征夷大将军となった家康は、翌9年には各大名に天下普请の号令を発します。ここまで江戸工事は徳川の家臣が惯れない土木作业に泣かされながら进めてきたのですが、これからは苦労も费用も他人持ちです。江戸の开発は急ピッチで进められました。日比谷の入り江が埋め立てられ、あらたに地割がおこなわれると、道叁堀は江戸城外壕に组み入られ、周辺の商人らは日本桥际への移転が决まりました。日本桥の架设は庆长8年が定説で、江戸城本丸と外郭の本工事がはじまる庆长11年(1606)には日本桥界隈の町割りができていたものと思われます。したがって商人の移転がこの年から翌年にかけておこなわれたとすれば、日本桥本小田原町に鱼河岸が开かれたのは庆长11年ないし12年と定めることができます。
道叁堀から日本桥へと転进する时点で九左卫门の1店舗は7店舗に分かれます。ここで最初に江戸に下った7人を记してみましょう。カッコ内は市场での商号です。
森九左卫门(佃九左卫门)
森与市右卫门(佃九郎兵卫)
森作治兵卫(佃作兵卫)
井上与市兵卫(大和田与市兵卫)
井上作兵卫(伏见屋佐兵卫)
矢田叁十郎(野田屋叁十郎)
佃屋忠左卫门(佃忠左卫门)
店舗拡大にともなって大坂佃村からの渔民の江戸移住がいよいよはじまります。それまで7人で渔获?贩売を行っていたのが、それぞれ鱼问屋を経営することで渔业者が必要となるからです。ここに鱼问屋を开く者と渔业者とに职分がおこなわれました。また、渔获部门が切り离され集荷?贩売に问屋の机能が固定されます。
川崎房五郎氏『佃岛と白鱼渔业』所载の「佃岛旧记」によれば、渔民は庆长17年(1612)7月に江戸に向かったとされています。17年というと日本桥开市后5年あまり経过しているので少し遅いように思いますが、あるいはこの间に移住が顺次进められたということでしょうか。江戸に渡った渔民は佃村から27人、大和田村から6人の都合33人、ここに宫司1人が加わり合计34人とされます。宫司が入っているのは故郷のご神体を江戸に勧进するためですが、しかしかれらはまだ屋敷を持っていません。そこで登场するのが一族の庇护者安藤対马守です。江戸に出てきた渔师たちが対马守の屋敷などに分宿したことは『江戸名所図会』にもあります。
当初かれらの江戸渔业は口约束で许可されたのでしょうが、在地渔民との间で渔场争いが生じるなどのトラブルがきっかけとなり、公に渔业の免许状が下附されます。それは「江戸近辺の海川ならどこでも网を引いてもよい」というもので拡大解釈をすればどこまでも渔场を拡げられました。ふつう渔业権は渔获対象ごとに细かく设定されるのに、乱暴ともいえるこの「お墨付き」は孙右卫门一族に対する特别の配虑でした。さて、庆长14年(1609)に日本に漂着したスペイン人ビベーロが书いた见闻録に当时の鱼市场の记载があります。
『鱼市场という所がある。珍しいので见物すると、鲜(あた)らしいものと干したものと塩したものを売っていて(中略)多种で大量なのと清洁に并んでいるさまは买う者の嗜好を増加する』
かなり立派な鱼市场であったことがうかがえますが、どうもこれは鱼河岸ではないようです。庆长14、5年の风景としては鱼河岸がこれほど発展したとは思われないからです。芝区史によれば徳川以前からの在地渔业者の开いた芝金杉の市场ということですが、冈本氏は塩干物を扱っていることを论拠に四日市が日本桥南詰に移転したのちの描写だとしています。いずれにしろ日本桥鱼河岸はこの顷まだ目立つほどの规模ではなかったとみるべきで、むしろ周辺市场の賑わいがうかがえる状况でした。
しかし、これからわずか30年ほどの间に鱼河岸の规模は格段に拡がります。鱼问屋の数は急速に増加、目をみはるほどの成长をとげてしまいます。そこには何があったのでしょうか。
関西渔业の関东进出
大坂湾から纪伊水道にかけた摂津?和泉?纪伊辺の渔村では、古くより奈良?京都?大坂など消费地へ向けての渔业が活発におこなわれてきました。多数の渔业者がいて、高度な渔业技术を有することから、近世にいたると近畿各渔场の生产性は饱和状态に达していました。そこで机会さえあれば他国への进出をうかがうという状况にあったのです。
その契机となったのが摂津の森孙右卫门らの江戸进出、および鱼河岸の创设でした。あらたな巨大城下町の诞生と生鲜市场の出现によって関西渔业は堰を切ったように江戸を中心とする関东地方に流入します。
当时、関东の渔业はいまだに原始渔法の域を出ない素朴なもので、先进的な関西渔法とは格段の差があったといいます。叁浦浄心の着した『庆长见闻集』には、「天地开闢(かいびゃく)より関东にて闻きも及ばぬ海底の大鱼、砂底の贝を取りあぐる(中略)この地狱网にて取り尽くしぬれば、いまは十の一つもなし」と関西势の大量渔获に対し资源枯渇の危惧すら记されています。(ルビ引用者)いささか夸张した表现ですが、浄心は北条氏に仕えた古来よりの関东人。渔业の急激な変化に対する地元民の惊きを率直に伝えるものでしょう。
孙右卫门たちが特権を得たのは论功行赏であったにしろ、幕府は城内の鲜鱼需要を満たすために生产性の高い関西渔民を积极的に江戸に诱致します。たとえば摂津あたりの出身とされる深川八郎右卫门が一族とともに江戸に来て渔师町をつくり、これが深川のはじまりとなります。かれらは孙右卫门とは别の系统ですが、やはり「家康入国以来」という伝统を夸り渔业権を得ています。このように関西から移住し渔业を営む者もいれば、资本をもとに江戸に鱼问屋を开く者も数多く现れます。それら鱼商人の参画によって鱼河岸は急速に规模を拡大したのです。
関西渔业东进のもうひとつの理由として棉作の隆兴がありました。戦国时代末期に渡来して庆长年间に畿内一円にひろがった棉作は、大量の干鰯(ほしか)を必要としました。そこで棉作农村を后背地に関西の渔民はイワシを求めて东海、関东、さらには东北、北海道まで渔场を拡げます。イワシ渔は大きな网、数多くの船を必要とし、渔业の大型化を进めた面があります。それはまた船主、网元らが商业资本によって大きくなり、渔民との格差ができるなど渔労の分化をもうながしました。
関西渔业に席巻された関东の渔业は短期间に再编成されます。その中心は一大生鲜市场鱼河岸でした。产地では鱼河岸からの距离により输送の难易と鱼価が左右されました。生鲜品を届けられる流通圏にあると、鱼の鲜度処理や输送手段である船の改良が进みます。近世では纯粋な渔村はほとんどみられず半农半渔という形态をとりますが、これらの圏内では専业渔村も生まれました。とくに本芝浦、金杉浦、品川浦、大井御林浦、羽田浦、および神奈川県の生麦浦、新宿浦、神奈川浦を「御菜八カ浦」といって幕府御用を司る重要な渔场でした。これらは芝?金杉市场が集荷にあたりますが、事実上多くの荷は鱼河岸に送られてから御膳鱼として上纳されました。
いっぽう生鲜品の出荷可能圏内からはずれると渔村として成立せず、海浜农村の形をとり、远距离出荷が可能で低廉な五十集(いさば)もの(干物、塩物、燻製など)の生产をおこないます。これらの地域では干鰯の需要も多く、外房の村では生と乾物のイワシをめぐって旅人(たびにん:鱼を集めて送る产地仲买人)らが荷を争うようなこともあったといわれます。
孙右卫门一族にライバル出现
魚河岸の急激な発展には関西渔业の関东进出がありました。魚問屋の起立人がほとんど関西の魚商人であったこともそれを如実にしめしています。当然のことながら当初の問屋参入は孫右衛門ゆかりの者であったろうし、過当競争をさけるため一定数以上の問屋の増加を抑制もしたでしょう。しかしすべてが孫右衛門の思惑どおりとは進みませんでした。
元和2年(1616)活鯛纳人(いけだいおさめにん)大和屋助五郎の登场は孙右卫门一族による寡占を揺さぶるものでした。大和桜井からきて本小田原町に居住したこの鱼商人は孙右卫门とは所縁のないまったくの新参者。しかしかれは豊富な财力とアイデアによって画期的な鲜鱼流通システムをつくりあげます。
大和屋助五郎は「活鯛船」と呼ばれる生簀を备えた运搬船を开発。活鯛の远隔地への输送を可能にさせ、骏河、远州を敷浦として江戸の需要をほぼ独占してしまいます。そこで培われた输送や畜养の技术は后世に残されました。また、产地に多额の仕入金を渡しておき、渔具から赁金にいたるすべてを手当したうえで、広くその地方の鱼を引き受けるということをしました。これは特定の产地仲买と结んで鱼を集める孙右卫门ら従来の问屋のやり方からずっと进んだもので、これ以后は助五郎式にならって鱼问屋が仕入金で产地を支配する図式が顕着になっていきます。
强力なライバルの出现に孙右卫门たちは警戒を强めたことでしょう。のちに组合を设立し、営业规则が定められたりするのは、新兴势力に対する牵制の意味合いもありました。また、これから百年の时を経て孙右卫门と大和屋助五郎の子孙が鱼河岸の覇権をかけて争う事件も勃発しています。
しかし他势力の参入は自然な流れでした。多くの登场人物によって鱼河岸はその规模も机能も整えられなければならなかったのでしょう。それでも拡大を続ける巨大都市の需要は业者の思惑をはるかに超えて生产?贩売?输送それぞれの场面にたえず変化を与え続けていきました。鱼河岸をつくり、他にない特権を得た孙右卫门一族でさえも、変化の波にのまれることはさけられなかったのです。
鱼河岸、4百年の孤独
寛永7年(1630)孙右卫门たちは鉄砲洲冲の干潟百间四方を拝领します。それから15年かけて自分らで工事を行い、正保元年(1644)、造成完了した拝领地を故郷になぞらえて佃岛と名づけます。孙右卫门父子二代、50年余にわたった江戸渔业と鱼河岸创设という二大事业はここに完成しました。天正18年(1590)家康江戸入りとともに鱼河岸は诞生した――それは史実のうえでは正しくなくても、孙右卫门の伟业の记録として、永く语り継がれるべきであると思います。
こうしてつくられた鱼河岸はおよそ元禄期に最盛期を迎え、先述のように江戸を代表するほどの景気をみます。しかし、いつの时代も他の商工业者とは一线を画す存在でした。自然の产物を扱うことから好不渔による流通量と価格の変动につねにさらされ、同业者が限られた市场地域のなかでしのぎを削ることを余仪なくされました。大きく储けもするが、他を出し抜く迅速さも要求され、売场は喧騒と竞争に明け暮れていきます。抗争や騒动も絶えまなく、社会情势の変化とともに大多数の业者は姿を消していきました。
それは鱼河岸の宿命的な性质なのでしょうか。世间とは隔絶された一种闭锁的な商売のなかで清浊併せ呑みつつ流転してきたのが鱼河岸です。その状况は现代においてもさして変わらないものがあります。平成の市场业者の苦悩も、あるいは4百年前に孙右卫门が感じたものであったかもしれません。
森火山(本名森薫叁郎)は明治13年(1880)、日本桥鱼河岸で鱼问屋を営む森源兵卫(五世)の叁男として东京?日本桥区本船町に生まれる。火山も同业の西长(本小田原町)で働くかたわら、独学で絵画を学ぶ。その后毎夕新闻、时事新闻に籍を置き、大正5年结成の东京漫画会に所属する。父亲の薫陶を受け、本人自ら「日本桥鱼河岸研究画家」を名乗り、多年の歳月を费やして江戸初期から大正时代に及ぶ「日本桥鱼河岸の人と暮らしと商い」を絵笔により活写、克明かつ史料的価値が高い膨大な労作を今日に残している。昭和19年(1944)10月、东京?港区白金にて没。
| 天正10年 | 1582 | 父孙右卫门、家康住吉神社参诣の折に初の謁见か。本能寺の変起こる |
| 天正18年 | 1590 | 家康江戸入府。このとき孙右卫门一族はじめて江戸にわたる。长男名主职を継ぎ孙右卫门を袭名 |
| ※この顷より二男九左卫门ら七人、たびたび江戸にわたる | ||
| 庆长3年 | 1598 | 豊臣秀吉死す |
| 庆长4年 | 1599 | 父孙右卫门、伏见城中の家康の御膳鱼御用をつとめる |
| 庆长5年 | 1600 | 関が原の戦い |
| 庆长6年(?) | 1601 | 九左卫门が道叁堀に鱼河岸第一号店を开く |
| 庆长8年 | 1603 | 家康征夷大将军となる。天下普请はじまる。日本桥架设 |
| 庆长9年 | 1604 | 家光诞生祝の御用をつとめ褒美を赐る |
| ※この顷までに孙右卫门一族の最初の移住が完了 | ||
| 庆长11~12年 | 1606~07 | 日本桥本小田原町が市场区域となる。九左卫门ら移転 |
| 庆长15年 | 1610 | 日本に漂着したスペイン人ビベーロ鱼市场を见る |
| 庆长17年 | 1612 | この顷、佃?大和田村より渔民ら34名の移住がはじまる |
| 庆长18年 | 1613 | 佃渔民らに渔业特権の免许状が下される。安藤対马守老中职に就く |
| 庆长19年 | 1614 | 大坂冬の阵で孙右卫门一族に军功 |
| 元和元年 | 1615 | 大坂夏の阵でも功を重ね、焼米を拝领。大坂での土地拝领は固辞 |
| 元和2年 | 1616 | 大和屋助五郎、本小田原町に居住し鱼店を开く |
| ※元和年間(1615?24)に魚河岸は順次拡大し、本船町、同横店 安針町なども市場地域となる。 | ||
| ※この顷、町奉行岛田弾正忠利正の改めがあり、鱼河岸が正式认可される | ||
| 寛永3年 | 1626/td> | 本芝、金杉の鱼市场が认可される |
| 寛永5年 | 1628 | 大和屋助五郎が活鯛事业を本格化 |
| 寛永7年 | 1630 | 佃の渔民に鉄砲洲干潟が下赐される |
| 正保元年 | 1644 | 佃岛が完成 |
| 明暦3年 | 1657 | 明暦の大火 |
| 寛文2年 | 1662 | 二代孙右卫门、摂津佃村にて94歳で死去 |
- 1冈本信男?木戸宪成着『日本桥鱼市场の歴史』(水产社?1985年)/濒颈&驳迟;
- 2鱼河岸百年编纂委员会『鱼河岸百年』(1968年)
- 3铃木理生着『江戸はこうして造られた』(筑摩书房?2000年)
- 4荒居英次着『近世の渔村』(吉川弘文馆?1970年)
- 5川崎房五郎着『都史纪要26佃岛と白鱼渔业』(公文书馆?1977年)

1962年东京生まれ。(株)国际鱼食研究所主任研究员。博物馆やイベント企画等の仕事を経て筑地市场に勤务。
日本桥时代から连绵と続く&濒诲辩耻辞;河岸の気风&谤诲辩耻辞;を身をもって知り、十年前から市场の古老から闻き取りを开始。その后、HP『鱼河岸野郎』『筑地の鱼河岸野郎』の制作に携わり、幅広い史実调査に基づいた&濒诲辩耻辞;鱼河岸叁部作&谤诲辩耻辞;(「鱼河岸四百年」「讲谈鱼河岸年代记」「再现日本桥鱼河岸地図」)を発表、高い评価を受ける。以降も执笔、ブログ等を通じて、重厚な歴史记述から奇想天外な読み物まで、消え行く鱼河岸を&濒诲辩耻辞;河岸の表现者&谤诲辩耻辞;の视点から描き続けている。










