研究機関誌「FOOD CULTURE No.14」世界の食文化雑学講座 第12話
和风洋食「ライスカレー」と海军カレーの诞生
カレーは日本の国民食といっても过言ではない。平成11年(1999)度の农水省统计によると、子供から老人まで国民1人が年间およそ64回カレーを食べている。週に换算すると1回以上は食べていることになる。そんな身近なカレーは、いつどのようにして伝えられ、日本人好みの和风洋食「ライスカレー」となったのか。
和风洋食「ライスカレー」の诞生
日本に初めてカレーの製法が绍介されたのは、明治5年(1872)に仮名垣鲁文が着した『西洋料理通』である。これは当时横浜に居留していた英国人が料理を依頼した际、贿いの日本人が西洋の料理方法を细かく记録していたメモ帐を种本としたものだが、その记述にはカレー粉を用いる一种の肉料理で、皿の真中にカレーを入れそのまわりを轮のように米饭で囲むものであった。
カレー料理が日本で大众化していくのは即席カレーが普及してからである。まず明治39年(1906)、东京?神田の一贯堂が固形の「カレーのたね」を発売した。これは热汤でとけばすぐ食べられるようにカレー粉と肉を调合、乾燥させたものである。ついで大正3年(1914)には日本桥の冈本商店が「ロンドン土产即席カレー」を売り出し、『主妇之友』が全国的に取次贩売を行った。
この和製即席カレーが出现したことでカレーが普及しはじめた。この顷には肉やジャガイモ、ニンジン、タマネギ入りのとろりとした栄养豊富な和风洋食「ライスカレー」の原形が出来上がっていたのである。
兵士を悩ました「江戸患い」
江戸时代、白米にこだわった食生活から脚気になる江戸人が多かったといわれている。14代将军家茂もその例にもれず、长州征伐のときに大坂城でこの脚気により亡くなっている。后になって判明することだが、この患いこそビタミン欠乏症の病で、当时「江戸患い」と呼ばれていたものである。
明治27年(1871)に勃発した日清戦争でもこの「江戸患い」が灾いしていた。日本军の戦死者千人に対して、病死した兵士が4千人を超えていた记録がある。海军でもこの病で戦意丧失する兵员が后をたたず、戦闘遂行に支障を来たすことがあった。
海军カレーのルーツ
明治13年(1880)、英国での医学留学を终え帰国した海军军医监の高木兼寛らの研究により、その原因が、白米食にみられがちな栄养素の欠落(ビタミン不足)から発症することが判明した。高木の指导により兵食には栄养に富む食材を採用することで、脚気による兵士の死亡率を激减させた。
その后、帝国海军?横须贺镇守府は、调理が手軽で肉と野菜の双方からビタミンを豊富に摂れるカレー料理を兵食に推奨。明治41年(1908)『海军割烹术参考书』にも掲载し普及に努めた。高木はその后、海军大医监に昇进。华族に列せられ男爵の称号を授与し、日本医学界最初の医学博士となる。
洋食化した最初の海軍食はパン食だったが兵員には人気がなく、パンから麦飯、そして再び米飯に替え、英国海軍が常食しているカレー味のシチューをメニューに採用。米飯に合うようにと、とろ味をつけたこの和風洋食「ライスカレー」が、海军カレーのルーツとなり後に民間でも広く食べられるようになった。
カレーの友「福神渍」の登场
ライスカレーの付けあわせとして欠かせない福神渍けが登场したのは明治19年(1886)。考案者は上野池の端の「酒悦」主人野田清卫门で、なす、大根、かぶなど7种の材料を醤油と味醂で渍けたものを、七福神にちなんで「福神渍」と名づけた。これはたちまち人気を呼び、新しい东京名物としてもてはやされた。
- 1辻原康夫着『世界地図から食の歴史を読む』(河出书房新社)
- 2
- 3宫崎県高冈町教育委员会パンフレット『穆园先生ー高木兼寛』
- 4渡辺善次郎着『キッコーマン国际食文化研究ライブラリー(痴辞濒.1)』




