研究機関誌「FOOD CULTURE No.13」江戸人のお膳をのぞく 日本の料理文化の基礎を築いた江戸をたどる(その二)
江戸人のお膳をのぞく 日本の料理文化の基礎を築いた江戸をたどる(その二)
前号のあらすじ
1657年の明暦の大火后、江戸は復兴のために全国各地からの男性の単身労働者の流入を余仪なくされて、膨大な人口を抱える巨大消费都市と化していった。
一方、支配阶级にあった将军をはじめとする武士団も、自分たちの食料を确保しなければならなかった。そのために食料を中心とする生活物资を供给するシステムが巨大化し复雑化する中で、饮食関係の仕事に携わる人口はかなりの数に膨れて上っていた。江戸の朝は明け六つの鐘とともに始まり、江戸の町を纳豆売りや浅蜊売り、青物売りの声が响き、里通りの长屋の路地からは灶の烟が立ち昇る。表通りの大店では、台所の奉公人が店の者すべての朝食作りで忙しく働いている。武家の大名クラスは、町人たちの食事とは比べものにならないほど赘沢なものだった反面、多くの下级武士の食事は汁と渍物类、豆腐、野菜の煮物程度のお粗末な献立であった。
だが、江戸城内では朝から赘沢な二つの膳が出されていた。食生活の面から江戸をみると、贫富の差が着しいことがわかるが、なかでも米は特别にその差が激しかった。大名たちの食膳には上质な米が选ばれ、炊きあがったご饭も釜の真ん中だけを食べるという具合だった。将军のお膳に出される米饭にいたっては、良质の米からさらに粒が大きいものを一粒一粒选んでは炊饭されていたという。
江戸人の胃袋をみたした食べ物屋
18世纪、江戸の人口は100万人を超え、そのうち男性の人口が女性の1.5倍にも上っていた。そのほとんどの男性が単身者であった。この人たちの腹を満たすためにも、简便な食べ物屋が江戸の市中に多かったことが推测される。
前号で述べたように、鲜鱼?豆腐?青物?醤油?塩などの食材や调味料を売り歩いていた人の中から、鰻蒲焼?蝗(いなご)蒲焼?蒸芋?蕎麦?汁粉など、加热调理したものを売る煮売りや屋台を営む人も出てきた。その屋台から一か所に落ち着くというスタイルで商売をする者、さらには小规模な见世「店」を构える者も出てきた。现実には、时代を経るにしたがって大小さまざまな规模の屋台、小屋掛け、见世が混在し、そこに振売りが町中を売り歩く、という光景が见られた。
幕末大坂の狂言作家である西沢一凤(にしざわいっぽう)は、3编からなる『皇都午睡(こうとのごすい)』を残している。その中巻の「叁都の商人」で江戸の饮食店について、「料理屋は格别、中より下の料理屋、煮売屋、居酒屋、蕎麦屋、芝居茶屋には女はつかはず、皆荒男の若ひ者が运ぶ事也」と、男にしてははなはだ丁寧な物言いをする旨を记している。
この时代には、さまざまな料理本も数多く出版されたが、なんといっても江戸の人々に料理文化を享受させたのは、小は振売りや屋台から大は高级料理屋に至る膨大な数の食べ物屋だった。
また『皇都午睡』にはこんな记述もある。江戸の高名な料理屋を并べ上げ、际限なし、としたうえで「蕎麦屋、居酒屋なんど始め、名代の鮓やてんぷら屋など数へたる时は、一町内に半分の余は喰物屋なり。予が叁都の见立に、食の第一に见立しが、中々食物是程に自在なる所は见ぬ。唐土にもあるまじく思はるゝ也」。江戸の市中に食べ物屋があふれていた様子がうかがえる。
庶民にまで広がった饮酒の习惯
江戸市中にあふれる食べ物屋には、酒を置く店も多かった。庶民の楽しみといえば、安い肴で仲间と酒を酌み交わすことだったろう。その酒は、江戸时代初期には冷やで饮まれていたが、清酒が普及するとしだいに温めて饮むようになった。
酒は鎌仓时代から盛んに生产されていたが、その醸造技术が着しい発展を遂げたのは室町时代末期のことである。気温の低い冬に仕込んで醗酵を调整する「寒造(かんづく)り」、原料を徐々に加えてアルコール度を高める「段掛(だんが)け」、低温で加热し腐败を防ぐ「火入れ」などの技术により、现代の清酒につながる近世の酒が诞生した。
特に、蒸し米と麹米の両方に、精白した米を使うという画期的な製法を确立し、その製法で造られた品质のよい高级酒を「诸白(もろはく)」と呼んだ。诸白は奈良や京都の寺院の「僧坊酒」造りから生まれたもので、なかでも兴福寺で造られた「南都诸白」がもっとも名高い。この南都诸白の技术を受け継いで量产化したのが、摂津の伊丹や池田などの酒造地だった。特に「伊丹诸白」は「丹醸」と呼ばれ、将军の御前酒となるほどの高い评価を得ていた。
この伊丹酒は江戸中期まで全盛を夸った。しかし、旱魃(かんばつ)や冷害などで米が不作となり、全国规模で大飢饉に见舞われることもあり、幕府は飢饉时の対策としてしばしば酒造制限令を出した。そのような政策がとられた中で、宝暦4年(1754)の酒造制限令を解除する「胜手造り令」以降、滩の酒が急速に台头した。幕府は、豊作で余剰米が出る年には酒造を奨励し、不作の年は厳しく制限した。そのため滩の酒も寛政の改革によって一时は势いを抑えられたが、文化3年(1806)に再び胜手造り令の発令によって大きく発展した。
ちなみに、下り酒の伊丹と滩の割合をみると、天明6年(1786)には约78万樽のうち滩の酒は约32万樽、伊丹の酒は约12万樽だった。江戸の入荷数が最高を记録した文政4年(1821)には、122万4千樽のうち滩の酒は68万樽と、6割近いシェアを占めている。
このように江戸に出回っていた酒のほとんどは下り酒であり、结果的に江戸の金银が上方へ流れた。そのことに危机感を抱いた幕府は、寛政2年(1790)、武蔵と下総の计11轩の酒屋に米を贷与し、上製、诸白酒3万樽の製造を命じた。酒屋たちには&濒诲辩耻辞;御免関东上酒贩売所&谤诲辩耻辞;を设けさせ、直接小売贩売を行わせる便宜もはかった。しかし、长い年月をかけて醸し出された下り酒の品质に、関东は太刀打ちできなかった。微妙な醗酵条件で品质が変化する酒造技术の向上は、一朝一夕に成し遂げられるものではなく、幕末期まで待たなければならなかった。
では、江戸の庶民はどのように酒を楽しんでいたのだろうか。日本を访れていたヨーロッパの宣教师たちが、本国へ报告するために数多くの记録を残している。その中に、东西の文化を比较したフロイスの『日欧文化比较』があり、日本の酒について次のように述べている。
われわれのワインは葡萄の実から造るが、「彼らのものはすべて米から造る」、またワインは冷やして饮むが、「日本では、(酒を)饮む时、ほとんど一年中いつもそれを温める」、さらに酒に酔うことは大きな耻辱であるが、「日本ではそれを夸り」とする。
江戸の人たちは酔うことを夸りとし、泥酔は日常茶饭事で、酔乱のあまり杀伤沙汰にまで至ることもよくあった。フロイスはヨーロッパと日本の风俗の违いを着しているが、日本人の酒に関する寛容な考え方は、すでに江戸时代からあったようだ。
年中行事のなかの宴
江戸は、江戸城を中心に武家屋敷が取り囲み、武家地が约半分を占めていた。さらに、农地や寺社地を除くと、町人が住む地域は全体の2割以下という超过密状态だった。その町人にも表店に住める阶层から里长屋住いまでおり、その多くがその日暮らしのような下层民だった。
そのような生活の中でも、江戸にはさまざまな游兴の场所があり、盛り场、各地の名所、寺社の门前のような非日常的な「ハレ」の空间があった。例えば、武家地の周辺にあった寺社、なかでも上野寛永寺、芝増上寺、浅草浅草寺、神田明神、山王権现などは幕府の手厚い保护もあり、神田明神と山王権现の祭りは「天下祭り」と呼ばれて賑わった。
ほかにも季节ごとに、浅草寺叁社祭(3月)、目黒不动(5月)、赤坂氷川社(6月)、深川富冈八幡(8月)、浅草鷲神社の酉の市(11月)などがあった。このようなハレの场所には必ず小屋掛け程度の茶店や煮売りの屋台があり、庶民はそこでささやかな宴を楽しんでいた。
一方、大店でも祭りの日には店をあげて準备し、得意客も招待して昼から夜まで宴が催された。そのときの料理は、6月の山王祭では寿司や肴、冷や素麺、赤饭など、普段はお目にかかれないような豪华な料理が并び、酒も饮み放题だったという。このほか、商家では商売繁盛を愿う恵比须讲が重要な年中行事であった。
恵比寿讲は、1月と10月もしくは12月に行われ、七福神の恵比须を祭る行事であり、商人たちは得意客を招いて祝宴をもった。
このような年中行事は、もともと中国で完成した太阴太阳暦、24节気や72候のように高度な暦法が基本にある。この暦法を基準として、季节の节目节目を絶えず确认しつつ、そのときどきに育った食物で豊饶を祝う风习が形成された。なかでも正月に関しては、中国の太阴暦の考え方が普及した。
では、江戸の正月はどうだったのだろうか。贝原益轩が养子である甥の好古にまとめさせ、贞享4年(1687)の序文をもつ『日本歳时记』をみるとその様子がうかがえる。元日には身を清浄にしたうえで、天神地祇に礼し父母や祖先の霊を拝した后に、定まった饗膳が用意されたようだ。
その饗膳は蓬莱といい、盘上に松竹鹤亀などを作り据え、「栗、榧(かや)、海草、海鰕(いせえび)、みかん、かうじ、たちばな、米、柿」などを积み重ね、これを味わい、年贺の客にも勧める。现代にも受け継がれている雑煮については、前年に捣(つ)いた饼に、「こんぶ、打あはび、煎海参(いりこ)、牛蒡(ごぼう)、薯蕷(やまのいも)、菘(すずな)、栗、するめ、萝卜(すずしろ)、芋茎(いもし)」などを加えて、煮て羹(あつもの)として食すると记している。
年の初めの元日に健康を祝う行為としては、歯固めや屠苏(とそ)酒の风习があった。歯固めは、正月3箇日に饼、かち栗、大根など固いものを食べる行事で、坚いものを食べて歯を固めることは、そのまま长寿を祈ることにつながった。この风习は平安期の贵族社会にもあったが、近世に入ると民间でも饼のほか捣栗(かちぐり)や豆さらに串柿などを用いて、歯固めが行われるようになった。
元日に祝仪として饮む薬酒である屠苏酒は、肉桂(にっけい)や山椒その他の生薬を配合した屠苏散を清酒などに浸したものだ。『日本歳时记』に、「元日より今日(3日)に至るまで雑煮を食し、屠苏酒をのむ。奴婢も又しかり」とあるように、近世には正月3箇日に雑煮と酒というパターンが定着していたことがうかがわれる。
さらに无病息灾を招くという正月七日の七草粥、邪気を除くという15日の小豆粥を食べる风习も平安期から残っていた。このほか、武家の间では11日に&濒诲辩耻辞;鎧饼&谤诲辩耻辞;、20日には&濒诲辩耻辞;女人の镜台の祝&谤诲辩耻辞;と称して、ともに镜饼を煮て食べる风习があった。
文人?武家の饗宴
江戸の町には各种の食べ物屋が建ち并び、文化4年(1807)に刊行された大田南亩の『一话一言』には、「五歩に一楼、十歩に一阁」は饮食の店と记されているほどだった。これらの店の中には、会席料理が売り物の社交场的性格をもつ高级料理店もあった。なかでも突出した存在だったのが八百善(やおぜん)である。主人の栗山善四郎(くりやまぜんしろう)は料理人として江戸で一番の评判を得ながらも、多彩な趣味人でもあった。そのため文人との交流も広く、そのネットワークによって八百善の名をさらに高めた。
八百善のほかにも多くの高级料理屋が江戸の町に登场し、文政5年(1822)序の青山白峰の『明和誌』では、着名な料理屋の名前が挙げられ、どこも高级で値段もきわめて高いと述べられている。こうした高级料理屋では、酒の肴として味噌吸物、口取肴、二ツ物(甘煮と切焼肴)、刺身、吸物か茶碗物が続き、最后に一汁一菜の饭を出したという。これを会席料理と称し、デザートに高级な煎茶と菓子がつき、1人前が银10匁もした。
価格が高かった要因の一つに、高名な料理人をもてはやすという风潮があったようだ。札差(ふださし)?伊势屋宗叁郎が天保の末年顷に书いた『贵贱(きせん)上下考』に、文化?文政の顷からの风潮として、名高い料理人がいるからその料理屋へ行くことを意味する、「谁々を食べにいく」という言叶があったことを记している。そこで料理屋も腕のある料理人を高给で雇い、客寄せの目玉とした。このような风潮を助长したのは、通人や文人であり、一定の教养をもった大名であった。
しかし、基本的には武士に対しても、幕府や各藩における财政の状况に応じて、华美な饗応を制限していった。こうして近世を通じて、武家の饗宴は缩小する方向に进まざるを得なかった。なかでも下级武士の场合には、『石城日记』を记した尾崎準之助贞干(さだみき)のように、他家で驰走にあずかることが多く、来客があったときには、しばしば小袖や帯などを质入れして酒代や食料品代を捻出していたようである。
その『石城日记』に、2月11日から14日まで酒宴が続いた记録がある。そのうち12日の献立には、「鱈昆布、吸物、さしみ、にしめ、そは、菜したし」などで盃を倾けたと记している。普段の食事はいたって质素で、汁と渍物类や茶渍などですます场合が多かった尾崎にとって、このときの他家での酒宴は特笔すべきことだったに违いない。
また、日记中の絵を见ると、普段の食事には膳が用いられているが、酒宴では必ず大皿盛りになっている点が目を引く。膳の质素な食事と酒宴の大皿盛りの料理では、あまりにも対照的だ。しかし、十人扶持という苦しい経済状态の中では、酒宴と日常の落差もしかたのないことだったろう。
幕府の威光を知らしめる御成と饗宴
将军を顶点として、その威光を天下に知らしめる仪式が「御成」である。将军が臣下の家を访问し、盛大な饗宴が催される伝统的な武家仪礼であり、近世の御成は江戸初期に集中して行われた。その际の饗宴では、17献から21献にもおよぶ献立が并び、食事场所における将军との距离や、食事内容の差を强调することで身分秩序の再确认がなされた。さらには、最下级の家臣に至るまで参加者全员が献立の一部を共有することにより、将军との集団的连帯感を确认するという仕掛けも施されていた。
寛永元年(1624)正月23日から28日にかけて、纪伊中纳言南龙公(なんりゅうこう)が受けて催した叁代将军の御成に関する史料が、『南纪徳川史』巻一二五典礼部に収められている。この御成は、家康の10男である纪伊藩主徳川頼宣(とくがわよりのぶ)が、兄の大御所?秀忠と甥の将军?家光をもてなしたものである。そのうち23日に江戸?竹桥にあった纪州藩邸を访れた大御所?秀忠への饗宴は次のような内容だった。
まず御数奇屋で饗宴がもたれ、本膳は酒渍の鹤ほか、鲍、鯛、栗生、はじかみ、鰹、蜜柑、昆布と椎茸煮染の七菜に、鹤の汁と饭がつく。二の膳がうるか(=鮎の肠)の和え物、鳧(けり:チドリ科の鸟)の焼き物、平贝、切蒲鉾、香の物、塩山椒の五菜と鱈、昆布の汁、これに肴として京焼の皿に盛られた海鼠肠(このわた)が添えられ、金飩(きんとん)、水栗、御杨枝、豆の子、黒胡麻、砂糖、山芋煮染といった七种の菓子が供されている。
その后、书院で御祝いが始まる。初献は、亀足(きそく)の鸟と雑煮に、饼、荒布、鯣(するめ)、菜、鰹の五种を亀甲に盛り、芋一重と饼五切に小串鲍と平鰹。このほかに、塩引き、鰭(ひれ)の物など五种の二献と、鯔子(からすみ)、鯣など叁种の叁献といった内容である。
この时に大御所からの拝领があり、书院で纪伊家に太刀や银子、衣装が、大広间で家臣に银子と衣装が下されている。次に大御所への返礼として、大広间で太刀、金子、衣装等、さらには马の进上がなされて赠答の仪礼が终わる。
続いて祝贺の舞が披露される。式叁番をはじめとして、能七番に狂言一番が催され、これがすむと鸟目(銭)と小袖が役者たちに下赐され、能の见物人には馒头に鯣(するめ)と酒が振る舞われる。大御所たちは再び书院に移り、ここで本格的な七五叁の膳(七菜の本膳、五菜の二の膳、叁菜の叁の膳)に入る。
このような饗宴を伴う御成は、纪伊家の例では元和?寛永期(1615?44年)に集中しているが、基本的に家臣の経済负担が大きく、御叁家などでもしだいに敬远されたようである。この将军御成に準ずる饗宴は、正月などに有力大名の间でも行われていた。
江戸城内の元旦の様子はといえば、午前7时に老中と若年寄が江戸城に出仕すると、まず彼らに年贺の取肴(とりざかな)である御喰摘(おくいつみ)が振る舞われる。その内容は、熨斗鲍(しあわび)、捣栗(かちぐり)、昆布の3种で、熨斗鲍は鞭に似ることから&濒诲辩耻辞;打つ&谤诲辩耻辞;、捣栗は音から&濒诲辩耻辞;胜つ&谤诲辩耻辞;、昆布は&濒诲辩耻辞;喜ぶ&谤诲辩耻辞;のコブに通ずるという理由で、古くから武家にふさわしい食品の组み合わせとされていた。
年头の祝仪を终えた后、老中と若年寄には兎の吸物と御酒が下される。兎の吸物は、『徳川制度史料』によれば、家康が叁河在住时代に、献上された兎を吸物として振る舞った、ということに因む恒例行事であった。これは纲吉の生类怜れみの令によって、一时中断したこともあるが、たしかに『徳川実纪』元和元年(1615)正月元日条には、兎の吸物を列座の家臣に下赐した记事がある。御喰摘の下赐は叁箇日続くが、正月3日には御謡(おうたい)初めの仪式が行われる。ここでは诸大名を従えた饗宴が催され、料理の内容は不明だが、天保5年(1834)の例では実に17献に及んでいる。
このほか12月23日には御煤払(おすすばらい)、28日には歳暮の御祝仪が行われる。この时には、式正(しきせい)料理がそれぞれ身分に応じて、中间や小人さらには驾笼の者や扫除の者まで振る舞われた。こうした年中行事のほか、当人や家族などの人生仪礼の际にも饗応が行われた。そのうちもっとも盛大なのは将军の息子や娘たちの婚礼だった。
江戸幕府の饗宴には、室町幕府から系谱を引くものが多いが、江戸时代には将军を中心として一堂に会し、延々と続けられる仪式が少なくなっている。御成でも、将军を取り囲む饗宴が短缩され小规模化し、代わりに御叁家もしくは老中や若年寄など、それぞれ身分ごとに场所や内容を変えた宴席を几重にも设ける、という形になっていった。
江戸幕府が长期政権を维持できたのは、それぞれの身分を确认せしめ、その秩序维持をはかる复雑な机构をもっていたためである。その中で御成や年中行事などにおける共食仪礼も、秩序维持をはかるシステムの一环を担ったといえる。
- 1『江戸の料理史』(中公新书)
- 2『江戸の食生活』(岩波书店)
- 3『和食と日本文化』(小学馆)
- 4『江戸の料理と食生活』(小学馆)
※いずれも原田信男编?着

1949年生まれ。明治大学文学部卒业后、同大学大学院文学研究科博士课程退学。博士(史学?明治大学)。札幌大学女子短期大学部文化学科専任讲师を経て、现在、国士舘大学21世纪アジア学部教授、放送大学客员教授。
『江戸の料理史』(中公新书、1989年)でサントリー学芸赏受赏。『歴史の中の米と肉』(平凡社选书、1993年)で小泉八云赏受赏。その他、『木の実とハンバーガー』(NHK出版、1994年)、『中世村落の景観と生活』(思文阁史学丛书、1999年)、『いくつもの日本』全7巻(共编着?岩波书店、2002-03年)、『食と大地』(编着?ドメス出版、2003年)、『江戸の食生活』(岩波书店、2003年)などがある。









