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研究機関誌「FOOD CULTURE No.12」江戸で育まれた「食の知恵」 ~日常の食の工夫?躾に込められた健康管理~

江戸で育まれた「食の知恵」 ~日常の食の工夫?躾に込められた健康管理~

前号では、「食育」という言叶が登场した明治时代の食生活について报告しました。さらに、食育に対する日本人の知恵をたどると、中国(明)からもたらされた『本草纲目(ほんぞうこうもく)』に行きあたります。自然物の分类?解説を体系的に着した『本草纲目』は、わが国の医术に大きな影响を与え、日本独自の自然物(食?汉方)の研究を推进させました。その根底に流れるものは、日常の健康管理です。そしてこの研究を庶民向けに着した『养生训』の普及は、江戸庶民の日常生活の中に食に対する工夫と躾しつけを根づかせました。そこで今号では、今に伝わる江戸时代の食の工夫?躾を掘り起こしてみました。

『妇人一代鑑(かかみ)喰初(くいぞめ)の図』(歌川国贞 公文教育研究会所蔵)
『日ごとの心得』铭々膳で一汁一菜のつつましい江戸时代の食事风景だが、今では希薄になった一家団欒の温かさが感じ取れる(国立国会図书馆蔵)

文化レベルの高さが江戸时代の「食の智恵」を広めた

江戸时代の日本は、兵农分离によって世界的に类まれな文书主义で政治が行われていた。つまり、武士を农村地域から远ざけ、名主などの村役人层にその地域の田畑や人间に関するさまざまな帐簿を作成させ、文书のやり取りで村々を治めていた。その结果、全国的に识字率が高まり、教育水準も高くなった。
このような背景のもと、江戸时代には多くの书物が世に出されている。现代の教科书に相当する「往来物」も多く、『童子诸礼躾方往来(どうじしょれいしつけからおうらい)』では食事作法について纸面が多く割かれている。
たとえば、「食事のときは、膳が出る前にみな一礼をし、高い位の人や年长者を上座に勧める。膳が出た后は、上座の人が箸を上げるときにそろって箸を上げるべきである。そしてまずは、饭椀のふたを取って膳の右のほうに置き、汁の椀のふたも取り重ねて置いた后、汁を吸って饭を食べる。これを再叁行ったうえで、平坪鱠(ひらつぼなます)へ箸をはこぶ。この顺序を乱さず、二の膳、叁の膳があっても同じである。また、一度に多く口の中に食べ物を入れるべきではない。これは、人から话しかけられたときに速やかに返事をするためであり、その心得をもっていなければならない。膳に上がっているすべての物は、右のほうにある物は右手で取り、左手に持ち替えて食べる。左にある物は左手で取ってもよい。鱠(なます)皿は取り上げて食べてはいけない。」といったような内容が书かれている。
かたや农民の心得を记述したものに『万作往来(まんさくおうらい)』がある。凶作への备えを中心に备荒贮蓄すべき作物の品々と心得を详细に述べ、日常の美食?大食を戒めて麦饭を「极最上」の食とすべきこと、珍しい食物や鱼鸟を多く摂取すると不健康になること、薬种の植え付けなど効果的な耕作方法なども记述している(小泉吉永『往来物解题(かいだい)辞典』)。なかでも、人间の生活には衣食住が大切だが、食は命の根源であるというくだりがある。続けて、一日食べなければ命を保つことはできず、その食を司っているのは农民であるから「おんたから百姓」という名称がくだされていることは幸せなことであるとのべ、农民にやりがいをもたせていた様子がうがかえる。
一方、麦饭を奨め、鱼や鸟を多く食べては健康のためによくないとしている点では、现代の感覚からするとズレを感じる。しかし、地方から江戸に出てきた奉公人はよく脚気(かっけ)になり、江戸を出ると治ったという。それは、江戸では精白米を食べていたため、ビタミンB1が不足したからであり、そのことを考えると『万作往来』の指南は食育の面からも理にかなっていたと言える。

『頭書絵入 童子諸礼躾方往来』(重田一九編述 公文教育研究会所蔵)
『子供诸礼躾方』膳への座り方、给仕の仕方を描いている(歌川国芳 公文教育研究会所蔵)
『万作往来』(山冈霞川 公文教育研究会所蔵)

病に対処した経験科学と実学から、食の研究へと発展

今も昔も人间の大敌は病気である。江戸时代、乳児の死亡率は生后1年以内で20?25%にもおよんでいたとされている。さらに成人しても、流行病(はやりやまい:伝染病)である风邪、麻疹、天然痘、结核、コレラなどで多くの人命が失われていた。なかでも、1858年(安政5年)のコレラ、1862年(文久2年)の麻疹の大流行では、全国でそれぞれ约25万人が死亡した。
それほどの被害があっても、当时の医术ではほとんど治疗できなかった。流行病以外の病気でも、その正体を解明する术はなく、食べ物や汉方などの薬を基に本草(薬用となる动物?植物?鉱物)の研究が进められた。そのはじまりは、中国?明の时代に李时珍(りじちん)が着した『本草纲目』である。日本には1607年(庆长12年)にもたらされ、1633年(寛永10年)に刊行されたという『日用食性』(曲直瀬玄朔<まなせげんさく>)で『本草纲目』が活用されている。
以后、日本の独自性に重点を置いた実証的な精神に基づいて本草の研究が进められた。その代表的な着书が1697年(元禄10年)に刊行された人见必大(ひとみひつだい)の『本朝食鑑』である。とくに鱼介类を中心に、乾鱼?塩鱼などの日常的な食品の効能を検讨している。また、1709年(宝永6年)に完成した贝原益轩(かいばらえきけん)の『大和本草(やまとほんぞう)』では、食品に限らず広く日本の物产を分析している。
その一方で江戸时代を通じ、本草学を基础にしながら、庶民に向けて説いた养生论が普及した。その代表は、贝原益轩の『养生训』である。その中で益轩は、人の生命は天から授かったものだが、养生をきちんと心がければ长命を保て、その命の长さはその人の心がけ次第であるとしている。また、饮食は生命を养い、饮食がなければ元気が失われて命が保たれない。しかし、饮食は人间の内部にある大欲でもあり、往々にして度を过ごしやすいので适正にコントロールすることが大事だとも记している。

本草研究?养生论から派生した食の工夫と躾

贝原益轩の『养生训』は、自身の长い生活体験と医学、儒学、その他の広い学问知识をもとに着したものであり、现在まで広く読み継がれてきた。その内容は、明るい健康的な生活の営み方を物心両面から説いている。なかでも、庶民がわかりやすい健康管理法として「同食の禁忌」、食品の食べ合わせの事例が记されている。
例えば、「鹿と雉、同食すべからず、害あり」、「兎肉に生姜、芥子、鹿を忌む」といったように、望ましくない食品の组み合わせを记している。こうした食べ合わせは、その时代の人の生活体験から得た知识と知恵を食生活の中で実践した健康管理法であり、后世に伝える一つの手段だったと考えられる。
一方、江戸时代の町众の中で受け継がれてきたものに「江戸しぐさ」がある。そこでは健康、人间関係、平和について语られている。その「健康」の中に「江戸食事仕様」というものがあり、食事は人を生き生きとさせ、元気の源となるものでなければいけないとしている。また、「人间関係」の中では1本の鯖や鰹を例にして、赤身は消化が良いので年寄りへ、脂が乗った部分は血気盛りの若众へと、年齢と体调を考虑して无駄なく分けて食べる术を伝授していた。
このほか、身近にある安い大根や豆腐を使って何种类もの调理方法を编み出し、同じ材料をさまざまに変化させて料理を楽しんでいた。その中に幻の「江戸病人食」というものもあったようだ。これは明治时代になって江戸っ子の末裔たちがつくった「止痛の馆」で病人に出した食事である。「止痛の馆」は、现代のホスピスのような施设だったが、そこの食事が病人の心も癒すものだった。それは「五峰の香」といい、盃に盛った柔らかいご饭を大きな皿の上にあけて5つの山を作り、その上に具を饰り付けたものである。その具は、例えばアミの佃煮?デンブ?おかか?紫苏?梅びしおなどで、それぞれの香りが食欲をそそり、病人は楽しんで食べられたという。
このような「五峰の香」は、胃肠の弱い人に最适だということから胃肠病院でも出すようになり、昭和时代初期まで続けられた病人食だった。动物性たんぱく质、植物性たんぱく质がバランスよく摂れるので栄养学的にも优れ、皿に絵を描くように盛られた食事は芸术性にも富んでいる。食の中にも芸术を求める和食の真髄といえる。人が健康に生きるためにはまず食を大切にしなければならない、という江戸时代の人々の食に対する智恵は人情でもあり、现代人にも求められているものだ。

『难渋病治』安政5年のコロリ(コレラ)大流行时の治疗を描いている(顺天堂大学所蔵)

江戸时代の工夫と躾が时の流れの中で人々の记忆に刻まれて现代へ

江戸时代の子どもは、満3歳ぐらいまで授乳するのが普通だったという。それは爱情を与えることでもあり、授乳の时间は、子どもが望めばいつでも与えていた。それほど爱され、江戸の子どもは甘やかされていたともいえる。
その理由の一つは、やはり子どもの死亡率が高かったことが挙げられるだろう。なかでも流行病で子どもを亡くすことも多く、1703年(元禄16年)には、医师である香月牛山(かつきぎゅうざん)が日本で最初の育児书『小児必用养育草(しょうにひつようそだてぐさ)』を出している。その内容は病気の治疗法が主だが、流行病の场合は有効な対策はなく、病気のときの食事、介抱の仕方などを述べているにすぎない。食事は、白がゆまたは白汤渍、寒晒(かんざらし)の粉(白玉粉)、道明寺の粉を荐めている。そのほか、もち米と白砂糖で作った「かる焼」という煎饼があった。滋养があり、病が軽くなることに掛けてお见舞いとしても喜ばれたという。
ただ介抱するしかない亲たちは、子どもが流行病にかかると「疱疮絵(ほうそうえ)」や「麻疹絵(はしかえ)」などの护符や、まじないに頼らざるを得なかった。端午の节供も疫病除けの意味合いが强い。5月になると梅雨の季节を迎え、疫病が流行る。そこで、病魔退治を愿って家の轩に蓬(よもぎ)、菖蒲(しょうぶ)をふき、魔除けの鐘馗(しょうき)を饰った。
『养生训』の着者である贝原益轩は、子どもを甘やかす愚を説いた。衣食を十分に与えれば、子どもは虚弱に育つ。多少の空腹感と寒さも感じさせることが、昔から伝わる丈夫な子どもを育てるコツだとしている。
江戸の人々は、中国から伝わった本草学を日本流に研究し、日本の自然や社会に适した食育の基础を筑いた。それは日常生活の中で子どもたちの记忆に刻まれ、时の流れの中で食文化として成长し、现代へとつながってきた。しかし、现代人は江戸の知恵をしっかり伝承できているだろうか。いま一度、食育の起源ともいえる江戸时代の食の工夫と躾を纽とき、现代の日常の中にある実学を见直す必要がある。

『麻疹厄はらひ』(一雄斎艶政画、全亭おろか文 公文教育研究会所蔵)
『麻疹心得草』(歌川芳藤 公文教育研究会所蔵)
参考文献
  1. 1『浮世絵に见る江戸の子どもたち』(くもん子ども研究所编小学馆)
  2. 2『江戸の料理と食生活』(原田信男编小学馆)
  3. 3『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』(越川礼子着讲谈社)
  4. 4『改订新版大江戸暮らし』(大江戸探検队着PHP研究所)
  5. 5『小児必用养育草』(香月牛山)
  6. 6『养生训?和俗童子训』(贝原益轩着岩波文库)
  7. 7『日本の食文化食文化の领域と発展』(芳贺登、石川寛子监修雄山阁)
  8. 8『FOODCULTURE7号』「现代に生きている江戸?町方の暮らし向き」(越川礼子、S?ベスター対谈キッコーマン国际食文化研究センター)