糖心原创vlog

研究機関誌「FOOD CULTURE No.11」世界の食文化雑学講座 第7話

贫困児童の救済から始まった学校给食

学校给食は子どもたちの「食育」の原点であり、保护者にとってはありがたい制度だといえる。学校给食は世界各国で実施されているが、もっとも古い记録としては、1720年にフランスの私立学校で始められたという。その后19世纪中顷から欧米で広く実施されるようになる。その目的は贫困児童の救済だった。日本の学校给食の始まりも、贫困児童の救済、虚弱児童の救済が目的であった。

日本の学校给食は、1889年(明治2年)、山形県鹤冈町(现鹤冈市)の私立忠爱小学校が贫困児童を対象に出した昼食が始まりだといわれている。当时の献立は、おにぎり?焼き鱼?渍物だった。その后、1917年(大正6年)、栄养学の佐伯博士が学校给食を虚弱児童救済の栄养食として提唱し、东京の泰明小学校で给食が支给される。しかし、広く全国的に普及することはなかった。
はじめて国库补助によって学校给食が実施されたのは1932年(昭和7年)。このときの目的も贫困児童救済だったが、就学率を高め、児童の体位向上のためでもあった。さらに、世界大恐慌后には経済不况による欠食児童を救済し、学校给食は子どもたちにとって欠かせないものとなっていた。ところが、第二次世界大戦が始まって途絶えてしまう。

学校给食に贡献をしたララ物资

戦后、栄养失调になった子どもが巷にあふれ、それを见かねた女性教师たちが中心となり、「一日も早い学校给食の再开运动」が展开された。
その甲斐もあって、1946年(昭和21年)には六大都市で学校給食が再開した。このときは占領軍の軍用缶詰の放出、「ララ(Licensed Agencies for Relief in Asia /アジア救済連盟)物資」、ユニセフ(国際連合国際児童緊急基金)の援助があった。このほか、ガリオア(占領救済)資金によって、アメリカの小麦粉、脱脂粉乳が配給された。
特に「ララ物资」は、第一便が横浜に陆扬げされ、警官の护卫付で都内に运ばれ、东京都麹町区永田町国民学校で赠呈式が行われたという。そのときの物资は、バター、ジャム、缶詰、米、小麦、衣服、靴などだった。

ララ物资で给食を行う东京永田町小学校を视察する米国サムス大佐一行
东京中野の石渡家に収容されていた戦灾孤児たちにもララ物资が渡された。昭和21年12月中顷の写真。上下とも『月刊冲縄社』提供

高度経済成长とともに学校给食も充実

1952年(昭和27年)、全国全ての小学校を対象に完全给食が実施される。翌年、国会で「学校给食法」が成立し、食事についての正しい理解、望ましい习惯をはぐくむと同时に、学校生活を豊かにし、明るい社交性を养うなど、学校给食を教育の一环として捉えていくことになった。こうして教育の中に「食育」が位置づけられたのである。この顷のメニューは、コッペパン?おかず一品?脱脂粉乳だった。
その后、1960年代半ば顷まで同じようなメニューが続くが、ときにはマーガリンやジャムがつくときもあった。脱脂粉乳が学校给食から姿を消し、牛乳に替わったのはやはり60年代半ば顷で、その顷からデザートの果物が出されるようになった。また、主食はコッペパンだけではなく、食パンや茹で麺が出されることもあり、高度経済成长が进むと同时に、少しずつバラエティに富んだ内容になった。この时代、日本人はエコノミックアニマルと化し、子どもの昼食の心配をしなくてもよい学校给食はありがたい制度だった。
そして现在では、パンの品质がよくなり、おかずの品数も増え、デザートも必ずつくといったように、学校给食は格段に豊かになった。
1970年代后半からは米饭给食も始まり、今では炊き込みごはん、ピラフ、ちらし寿司など种类も豊富。また、おかずには地域の特产物を使ったメニューも作られ、全国各地で特色ある内容となり、子どもたちの「食育」の基本となっている。

参考文献
  1. 1「昭和?第7巻 廃墟からの出発」(講談社刊)
  2. 2「新装版 食育のすすめ」(服部幸應、マガジンハウス刊)
  3. 3「ようこそ! こちら小学校の給食室です!」