研究機関誌「FOOD CULTURE No.10」世界の食文化雑学講座 第4話
稲作渡来第叁のルート
ご飯とみそ汁の食事でなければ、という日本人は多い。そのご飯の材料である米の起源、日本に渡ったルートなどには諸説ある。さまざまな 学説がある中で、2005年に中国で世界最古の稲の籾殻が発見されたという。これにより稲作文化の歴史が塗り替えられようとしている。
雑学講座 前号のおはなし
第一话:
天明2年(1782年)に大坂で発刊された『豆腐百珍』は、その名のごとく豆腐を使う100种の料理とその调理方法を绍介した、今で言う江戸时代のレシピ本である。その料理を寻常品?通品?佳品?奇品?妙品?絶品などに分けて、誌上试食をしてみた。
第二话:
17世纪顷の英国では、ティーカップから直接饮むことは下品とされており、磁器カップが输入される以前の王侯贵族の间では、银製の『ポリンジャー』と呼ばれる平たい皿状の容器からお茶を饮む习惯があった。その影响で、カップからティーをいったん皿に移しかえそれを饮んでいたエピソードを绍介。
第叁话:
16世纪中顷、オスマントルコ军がハプスブルグ帝国(现在のオーストリア)を攻撃、ウイーンの城壁を包囲した际に、地下室でパンを焼いていた职人が城壁の地下を掘り进む敌を通报。その后支援军も到着して胜利したという。敌のツルハシの形や、オスマンの象徴である叁日月を食べてしまう思いを込めて、叁日月型のパン(クロワッサン)を作った説などを绍介。
これまでの説を覆す大発见
2005年(平成17年)、中国の国営新华社通信は、过去に长江(扬子江)下流の上山遗跡(浙江省)から约1万年前の栽培稲の籾殻が発见されていたが、今回それを凌ぐ1万2000年前の栽培稲と考えられる籾殻が発见されたと报じた。
従来から稲はインドのアッサム地方が原产だとされ、インディカ种はアッサム地方、ジャポニカ种は中国?云南省という説が有力だった。しかし、中国の考古学者たちは、云南省の稲はせいぜい纪元前3千年程度であり、ジャポニカ种はもっと古くから栽培されていたはずだと唱えていた。
そこに长江下流の河姆渡遗跡(浙江省)が発见され、7千年前に栽培稲があったことが証明された。そしてその稲は、日本の縄文时代に焼畑で栽培されていたと考えられている热帯ジャポニカと同じであると、日本の植物学者が証明した。
长江流域では次々に遗跡が発见され、现在、一番古いものは1万4千年前の仙人洞遗跡だとされている。そこでは栽培稲の测定はされていないが、栽培稲の起源はインドではなく、长江中下流域だという説が认められている。
もしも、1万4千年前の栽培稲が発见されることになれば、1万2千年前に小麦を栽培していたメソポタミア文明よりも古いことになる。さらに、黄河文明が、黄河文明以外に农耕を基盘にした长江は中国の古代文明の代名词とされてきた文明ともいえる一大文明の存在が明らかになった。今、稲作の起源をめぐり、古代文明さえも见直されようとしている。
大陆からもたらされた瑞穂の国の稲作文化
稲作文化の起源は中国であることはほぼ间违いない。それが日本にいつごろ、どのようなルートをたどって渡ったのかということになると、一つには绞れないようだ。まず第一のルートは长江から朝鲜半岛を経由して伝わり、第二のルートは现在の上海付近から海路九州へ伝わったという説がある。ところが、冈山県?朝寝鼻遗跡(縄文时代前期)で発见された日本最古の稲の痕跡「ブラントオパール」は、前出の河姆渡(ハモト)遗跡型の稲であることがわかり、第叁のルートもあると考えられるようになった。それは第一、第二ルートよりさらに南からの海上の道。かつて民俗学者の柳田国男が唱えていたルートでもあるが、このルートを通ってきた稲が热帯ジャポニカであることが研究者の分析でも明らかにされ、稲はこれら叁つのルートから日本にもたらされたと考えられている。
はるか6~7千年前、縄文时代から日本人は稲作を行い、米を食べていた可能性が高い。古くは日本を「瑞穂の国」と呼び、「日本书纪」には「豊苇原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と记されている。「豊苇原」とは湿地帯が多く、高温多湿の気候であることの意で、この気候が稲作に适し、大陆から渡来した稲が日本に根づき今日に至っている。
日本人の体はこの时代から米によって作られ、ご饭を中心とした食生活が営まれてきたといえるだろう。
- 1『米の力 雑穀の力』(永山久夫着 家の光协会)
- 2朝日新闻(2005?1)
- 3玉川大学ホームページ


