糖心原创vlog

开国を机に外来食を受容した和食が、いま世界の味覚へと変容する

研究機関誌「FOOD CULTURE No.10」国際的注目を集める「日本型食生活」の成立と展開 「日本型食生活の変遷」

讲师:渡辺善次郎

国際的注目を集める「日本型食生活」の成立と展開 「日本型食生活の変遷」

第9号「异国食の受容と変容」のあらすじ

古代の日本では天皇もさかんに狩をし、肉ばかりか内臓まで食べていた。ところが、6世纪半ばに仏教が伝来すると、生きとし生けるものすべてに慈爱の心を持ち、杀生をつつしむべしという思想が広まった。天武天皇は期间をもうけて诸国に杀生?肉食の禁断を発令している。
仏教的杀生禁断、肉の秽れという観念が広まり、次第に肉食は少なくなっていった。フランシスコ?ザビエルと宣教师たちが来日しキリスト教の布教をはじめると、改宗する大名もいて肉食禁忌を积极的にやぶるものが続出した。そのキリシタン大名たちは宣教师がもたらした牛肉、豚肉、ワイン、バンなどを好んだ。
江戸时代には再び肉食がタブーとされたが、山村では贵重な食料として鸟獣肉が食べられていた。
そして明治5年、明治天皇が肉食の禁を解いて牛肉を食し、伝统的な肉食禁忌の惯习に一大転机をもたらした。しかし肉食反対运动が各地で起こったが、政府や各県は旧惯を打破して肉食の奨励に努めた。その効果もあって肉食文化が広がりをみせ、食生活における文明开化がはじまったのである。

「日本型食生活」の原型

世界保健机関(奥贬翱)が発表した2003年版『世界保健报告」による世界の平均寿命は2002年(平成14年)に65.2才となり、50年前の46.5才から大きく伸びた。なかでも日本は81.9才(女85.3才、男78.4才)で依然として世界最长を夸り、さらに健康で何才まで暮らせるかを表す「健康寿命」も75才を保っている。
このような日本人の健康と长寿から、その要因の一つとして「日本型食生活」が国际的注目を集め、日本食ブームをまき起こしている。だが「日本型食生活」といっても、それは江戸时代に成立した伝统的な和食そのものではない。「伝统」とは昔から代々伝えられたものをいうが、英国では少なくとも50年以上以前から行われてきたものだけに罢谤补诲颈迟颈辞苍补濒(伝统的)の表示が认められている。
伝统食とは化学调味料、インスタント、冷冻ものなど工业製品ではない自然の食材を用いて、各地域や家庭で亲の世代から伝えられた手作りの食事をいう。いま日本で「伝统食」とか「おふくろの味」とか呼んでいるのはだいたい大正末から昭和の戦前にかけての食事である。
その顷の日本食を柳田国男は「世界无类の多様な食」と呼んだ。それは伝统的な和食に文明开化以来、西洋や中国の料理がとり入れられた和洋华混合の食事である。これが现代の日本食の原型で、それが成立したのは日本が近代化を开始してからおよそ半世纪后である。
和洋华混合といっても当时の食事はやはり大きく米食に片寄ったものであった。米はたくさん食べればそれだけでも大部分の栄养はとれるし、味が淡白で洋食とも中华食ともよく合う特徴をもっている。それに和风化された西洋、中华の料理が副食として加わったのである。
この食形态は戦后の1950年代まで続けられた。それが大きく変化し始めたのは60年代からの高度経済成长期である。明治以来徐々に浸透してきた洋食化の波がこの顷から一挙にもり上ってきた。とくに肉や油の摂取量が剧的に増大した。そのため米中心の炭水化物、糖质に偏重していた日本の食事にたんぱく质と脂肪が増え、叁大栄养素のバランスがきわめて理想的な食状况が実现した。これが世界的に健康食のモデルといわれる「日本型食生活」の実态である。これが成立したのは文明开化から约1世纪を経た1970年代であった。

戦后食生活の回復

戦争直后の1946年(昭和22年)、日本人の栄养状况は一人1日当り1400キロカロリーで、やっと、成人の安静时の所要量にすぎなかった。日本人は飢えていた。
そんな食生活が戦争、戦后の混乱期を脱して戦前の水準まで回復したのは1955年(昭和30年)の米大豊作の顷からである。国民経済も崩壊から立ち直り、翌1956年の『経済白书」は「もはや戦后ではない」と宣言した。
この顷国民一人1日当りの栄养摂取量は2100キロカロリーを超えて戦前水準を抜き、动物性たんぱく质も15驳と戦前より倍増した。だがこの时代の日本の食は栄养量で欧米の3000キロカロリーにははるかにおよばず、畜产物もわずかで、基本的には米偏重の戦前型を継続していた。
1960年(昭和35年)の一人一日当り供给食料を国际的に比较してみると、穀类ではアメリカ183驳、フランス273驳、英国235驳、西独234驳に対して日本は2倍の410驳であったが、肉类では米235驳、仏190驳、英187驳、西独164驳に対して日本はわずか18驳、牛乳?乳製品では米776驳、仏828驳、英904驳、西独762驳に対し日本は61驳とほとんど10分の1にも満たないレベルで、到底洋风の食事とは远い状态であった。
またこの当时のささやかな洋风化の中味は脱脂粉乳からの还元乳や粗悪な肉类を原料としたプレスハム、鱼肉ソーセージなどといった安価な家畜加工品であった。
一応飢饿状态からは脱し、多少洋风化の进展は见られたとはいえ、この顷までの日本の食は量质とも戦前とはあまり変らないものであった。それが急激に変り始めるのは次の経済成长时代である。

経済成长と生活革命

戦后の日本経済は1956年(昭和31年)の神武景気にはじまり、岩戸景気、オリンピック景気、いざなぎ景気と、1960年代から1980年代にかけて、途中1970年代の円高、石油ショックを乗り越えて未曽有の高度成长を遂げた。その结果1980年代末には一人当り骋狈笔(国内総生产)がついにアメリカを抜き、スイスに次いで世界第2位に跃进、対外纯资产も世界一で、日本は世界の経済大国にのしあがった。
経済成长に伴って国民の所得も上昇、生活も豊かになった。狈贬碍の世论调査によると「国民の生活水準を戦前と较べてどう思うか」という质问に対して、1956年には「戦前以下」と答えたものが56%と过半数を占めていたが、1960年には「戦前以上」が58%に达した。
この頃から庶民の生活も「生活革命」 「消費革命」「電化革命」などと称されるほど大きく変わり始めた。1950年代中頃には電気洗濯機や電気釜が登場、家事労働を大幅に軽減した。 1960年頃には普及率でわずかに5%にすぎなかった家庭用冷蔵庫も氷式から電気冷蔵庫になり、1965年には50%、1978年には99%にまで普及した。この他、換気扇、ミキサー、トースター、オーブン、電子レンジなど次々と家庭電化が進み、家中が電化製品で溢れるようになった。燃料も大きく変った。電気やガスは明治時代から入っていたが戦前も戦後もまだ薪炭が大きな役割を果していた。

その顷の様子を本间千枝子『父のいる食卓」は次のように描いている。
「ガス、炭、练炭、薪と多种类あり、料理の素材や种类によってそれらを使いわけた。米を炊くのはへっついで木屑や薪を使い、焼鱼のためには七轮に炭火をおこし、煮豆には练炭火鉢を用い、一定の强い火力が必要な扬げもの蒸しものにはガスを活用した。お茶のためには火鉢の白い灰の中に深々と活けた炭火の上にいつも重たい鉄瓶がのっており、丁度よい热さのまろやかな汤を与えてくれた。そしてこのような多种类な火の使いわけは、ついこの间まで家庭を守る日本の女の常识でもあった」と。

しかし1960年代に入るとプロパンガスが急速に普及し始め、1963年にはプロパンガスが都市ガスを上まわるようになった。とくに农村部を中心に薪炭からプロパンへの移行が进み山村の伝统的な薪炭生产も次第に姿を消していった。
また、都市化が进み、団地やマンションでは鱼を焼くこともはばかれるようになり、昔のように庭先でイワシやサンマを焼く光景などすっかりなくなってしまった。
1963年には「流通革命の旗手」としてスーパーマーケットが出现、たちまち全国に进出して食品流通の形を大きく変化させた。それまで八百屋、鱼屋、肉屋と小売店をまわって食材を买い整えていたものが、スーパーで一度にすませられるようになり、マイカー时代の到来もあって人々の买物スタイルも一変した。こうした、この时代の日常生活の変化はまさに「革命」と呼ぶにふさわしい激しさである。

国产初のワンドアー电気冷蔵库と氷の冷気で冷やす方式の木製冷蔵库(昭和のくらし博物馆所蔵)

食生活の洋风化

食生活も大きく変った。その第一は洋风化である。世界的に国民の所得水準が上るにつれて栄养、とくにたんぱく质の摂取量が増える倾向にあるが、日本でも経済成长とともにそうした现象がはっきりと现れた。
まず栄养消费カロリーが1960年代から大きく増加した。戦前から戦后にかけて、大体一人一日当り2300キロカロリーであったものが1965年顷からは2500キロカロリーのレベルを上下するようになった。だがその后は所得が増えても摂取カロリーはほとんど変らず、このレベルで安定している。所得水準では欧米を上まわるようになっても、栄养摂取量は欧米の3000キロカロリーまでにはいたっていない。2500キロカロリー程度が日本人の充分満腹する适正量とみられる。日本人はすでに饱食状态に达したといってよい。このような食の量的な増加よりも顕着なのはその质的な変化である。何よりも食の洋风化、欧米化が进んだ。明治以来徐々に浸透してきた洋风化の波がここにきて爆発的に盛り上った。
その动きを促进した要因の一つは食生活の近代化を挙げて展开されたさまざまな栄养改善运动である。例えば「油いため运动」、牛乳や动物性たんぱく质の奨励、パン食を増やすキャンペーンなどがさかんに行われた。とにかく欧米の食を基準として、それより摂取量の少ないものを欧米并みに増やそうとしたのである。その结果は図1のとおり、戦后の叁大栄养素(炭水化物、たんぱく质、脂质)の动向にはっきりと现れている。
まずこれまで日本の食の炭水化物の主体であった米の消费が年々减少の一途を辿り、ほとんど半减状态にまで落ちこんでいる。かつて宫沢贤治は有名な「雨ニモマケズ」という诗のなかで「一日二玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」と咏ったが、玄米4合は600驳にあたる。戦前1939年(昭和14年)に公布された「米穀配给统制令」では一般成人への米の配给量は一人一日当り330驳であった。それに対し今日の米消费量はわずか165驳にすぎない。「一升めし」などといわれた时代はもはや远く昔话になってしまった。
それにひきかえ动物性たんぱく质と脂质は激増している。1960年(昭和35年)から2000年(平成12年)までに肉类の消费は约4倍に増えた。鱼食の民といわれてきた日本人も1980年代中顷には家庭での鱼と肉の消费量が逆転するようになった。脂质の消费も急増している。もともと日本の食は世界的にも珍しいほど脂质の少ないものであった。「脂っぽい」ということは日本ではマイナスイメージで、少し油の浓い料理を食べると下痢を起す人も少なくなかった。大正顷の中华料理も日本人向けに油分をおさえて普及してきた。
戦后栄养改善で、もっと油をとろうという运动が行われたが、一般の家庭で油を使った料理をするためにはいくつもの条件が整わなければならなかった。まずフライパンや中华なべ类、それに化学洗剤や换気扇などの普及である。1960年代中期に换気扇が登场してから、家庭での炒めものが増え出したといわれている。
戦后の日本人はそれまであまり口にしなかった肉や脂をどんどん食べるようになった。日本人の食生活は急速に欧米型に接近してきている。明治以来「洋食」としてとり入れられてきた西洋食も、いまではすっかり日本食として定着している。
日本における料理学校の草分けであった赤堀峰吉は1919年(大正8年)に出版した『家庭実用西洋料理法」の序文で次のように述べている。
「近き将来に於いて、今日西洋料理と名付けられるものも、日本料理と交合して我国人の常食となり、恰も炼瓦建筑を见て西洋馆と呼ぶ者の减少せる如く、特に西洋料理と呼ぶ者の减少するに难からず。」
その予言どおり明治大正の人々が、西洋からの新奇な料理として恐るおそる试食していたものも、いまでは别に外国料理などとは思わなくなっている。明治末の新闻记事で、ライスカレーは一皿の中に西洋の文明と日本の文明が融合した文明の香りだと记されていたが、いまでは日本の国民食の一つである。
1987年(昭和62年)日本航空は、帰国便の机内食にビーフカレーを提供した。カレーライスにラッキョウ、福神渍、醤油ドレッシングのサラダ、野菜の煮物をつけている。帰国便で少しでも早く「日本」を味わってもらおうというのである。
海外に进出している多くの日本レストランでも、すき焼、天ぷらからカレーライス、トンカツ、カキフライ、焼鸟、ラーメンまですべて日本食として提供している。思えばすき焼は文明开化の牛锅、天ぷらは长崎に伝えられた西洋料理の第一号、トンカツはポークカツレツ、ラーメンは「支那そば」と、みな外来食を日本化したものである。いま日本の食は外来食をさまざまな形でとり入れ、洋风化、欧米化にむけてますます変りつつある。

図1 栄養素等摂取量の推移(昭和21年=100)
注)动物性脂质については昭和27年=100、鉄については昭和30年=100としている。平成12年『国民栄养の现状』(国民栄养调査结果)

食の外部化

戦后食生活のもう一つの大きな変化は食の外部化である。都市化の进展、女性の社会进出、労働条件の変化など生活の多様化に伴って食生活のあり方も変ってきた。これまでのように自宅で料理し、家族そろって食卓を囲むといった光景は次第に见られなくなってきた。新たな食は个别化と简便化を押し进めている。そしてそんなニーズに応える形で外食产业や调理済食品が発展してきた。
1960年代中顷から1970年代にかけて各种の饮食店が急増した。1965年(昭和35年)に立食そばが出现、1967年には「まわる回転ずし」、1968年には「安い、速い、うまい」のキャッチフレーズで牛丼の吉野屋、1970年にはドライブイン?スカイラーク、ケンタッキー?フライドチキン、小僧ずし、ダンキン?ドーナツ、1971年にはマクドナルド?ハンバーガー、1974年にはピザレストラン?シェーキーズ、1976年には持ち帰り弁当ほっかほっか亭、1977年には24时间営业のデニーズが営业を始めている。
こうした饮食店の数は60年の23万店から1970年の43万店、1992年には47万店と増加、年间贩売额も同年次で4100亿円、2兆4000亿円、13兆円と激増している。
英国の民间市场调査会社ユーロモニターが発表した1995年(平成7年)の世界各国の饮食店の动向调査によると、一人当り外食费は日本が世界一でアメリカの2倍、ヨーロッパの3倍から5倍となっている。
加工食品の伸长も着しい。1958年(昭和33年)の「日清チキンラーメン」の登场がインスタント时代の开幕を告げたという。1960年にはインスタントコーヒーが出现、1965年にはレトルト食品が売り出され、1968年レトルトカレー「ボンカレー」、1971年には食器であり调理器具でもある简便なカップめんが现れた。
また冷冻食品や「中食」と呼ばれる调理食品、レトルト食品など多种多様な加工食品が次々と登场、その生产量は轩并み増加を続けている。冷冻食品では1960年の5000トンから1990年の100万トン、1999年の150万トンへ、调理食品も同じ年次で3000トン、80万トン、125万トンと増大、レトルト食品も1965年の1000トンから1990年15万トン、1999年25万トンと急増している。
1960年代中顷から急速に普及し始めた家庭用冷冻冷蔵库や电子レンジなどの电化製品がこうした加工食品の利用を支え、促进してきた。
いまや一般家计の食料费の半分以上は外食と加工食品类の购入で占められている。今后も核家族化や単身世帯の増加によって、こうした食の外部化、简便化への指向はますます强まっていくであろう。

70年代に入り外食产业が急増した(週刊朝日百科120『世界の食べもの/日本编』)

「日本型食生活」の成立

戦后食生活が豊かになったのは日本だけではない。欧米诸国ではそれより早く、それ以上に豊かな食を謳歌していた。
各国とも所得水準の上昇とともに栄养摂取量が増大した。1960年顷一人一日当り3000キロカロリー程度だったものが1980年顷には3200キロカロリーを超えるようになった。栄养を増やすとともに、その比重を炭水化物から脂肪へとシフトさせてきた。その结果として栄养バランスの崩れを拡大し(図2)、人々の健康に深刻な影响をおよぼし始めた。
とくにアメリカでは栄养过多から多くの肥満者を生み、心臓病、糖尿病、脳卒中、高脂血症などいわゆる生活习惯病が多発し、医疗费も急増してきたことから危机感をつのらせ食生活の根本的な见直しを开始した。
まず上院に特别委员会を设置、彻底的な调査研究を行って、1977年(昭和52年)『米国の食事目标」という报告书を発表した。报告书は委员长マクガバンの名をとって通称「マクガバン?リポート」と呼ばれている。
これはアメリカ人の食事改善の方向を示しているが、一口でいえば食べすぎを抑え、脂肪から炭水化物へ栄养の比重を移して栄养のバランスを适正化するというものである。似たような动きをみせはじめた日本でも食生活を见直す机运は高まってきた。
1979年(昭和54年)の厚生省『国民栄养调査报告」は次のように记している。
「昭和30年以降における経済の高度成长とともに、国民の食生活はいちじるしい改善をみることとなったが、いっぽう肥満、贫血、高血圧、心臓病などのいわゆる成人病が増加しはじめ、疾病と食生活との関係が指摘されるようになった。」
そして、これまで西欧先进国に追いつき追いこせと食の欧风化をすすめてきたが、植物性食品の减少、动物性食品の増加など欧米の短所まで洋风化がすすみすぎてきたと指摘している。
「日本型食生活」という言叶がはじめて使われたのは翌1980年の农水省农政审议会答申「1980年代の农政の基本方向」においてである。答申は当时の日本の食生活が欧米诸国より优れているとして「日本型食生活」を评価した。
その第一は、当时の2500キロカロリーという日本人の栄养摂取量は适正水準で、3200キロカロリーという欧米は栄养过剰だということである。
第二は、戦後食生活の洋风化がすすみ、従来過剰であった炭水化物の比率が低下、不足気味であった脂質が増加して、炭水化物、たんぱく質、脂質の比率が適正化し、栄養のバランスがちょうど良い状態にあるということ。
第叁には、日本人のたんぱく质のとり方が、动物性たんぱく质に片寄った欧米に対して、鱼や植物性たんぱく质によって理想的なバランスになっているということである。
明治以来、食の近代化としてひたすら欧米型をめざしてきた日本の食生活は、ここにきてはじめてその流れに歯止めをかけようとしている。「日本型食生活」という言叶はまさにその歴史的方向転换の象徴である。

図2 各国の栄養バランス(農林水産省資料)

日本食の海外进出

1970年代になると、トランジスターからカメラ、テレビ、オートバイ、自动车などさまざまな日本の工业製品が続々と海外に进出。日本の技术力、経済力や文化が世界の注目を浴びるようになった。同时に日本の食文化も优れた健康?长寿食として各国で受け入れられ始めた。
その先鞭をつけたのは醤油である。日本の醤油はすでに江戸时代からヨーロッパに输出され、フランス宫廷のかくし味などとして用いられたことが、フランス18世纪の『百科全书」にも记载されている。その评価はきわめて高く、1875年(明治8年)にはドイツで日本醤油の偽物まで现われている。
しかしアメリカではほとんど知られていなかった。アメリカでは贫しい日本の移民たちが使う得体の知れない调味料として「バグ?ジュース」と呼ばれていたという。バグ(叠耻驳)とは虫のこと、つまり虫のジュースである。そんなイメージが一大転换をとげたのは戦后のことである。
1950年代后半、キッコーマンがアメリカへの进出を计画、さかんな宣伝活动を行って醤油の普及に努めた。その结果アメリカ人の间でも醤油の美味さが认められ、その需要が急増しはじめた。1973年(昭和48年)にはウィスコンシン州にアメリカで最初の现地生产工场を建设、本格的な供给体制を确立した。今日ではアメリカの家庭の40%が酱油を常备するまでになったという。

海外工场はその后シンガポール、オランダ、カリフォルニアと次々に建设され、2000年(平成12年)にはキッコーマンの全生产量の叁分の一は海外での生产で占められている。それが営业利益の半分にも达しているという。醤油は「ソイソース」としていま世界の100か国以上で贩売され、どこへ行っても醤油のないところはないといってもよいほど普及してきた。日本人などはほとんどいない、南太平洋のタヒチ岛の小さな村のスーパーにも「テリヤキ用」「トンカツ用」「ステーキ用」などと铭うったキッコーマンの小ビンがずらりと并んでいた。醤油はいまや世界の调味料になりつつある。
日本食店の进出も目覚しい。吉野屋の牛丼が「ビーフボール」としてアメリカのデンバーに出店したのは1975年、いまではカリフォルニア州だけで80店にも达している。坂本九の「上をむいて歩こう」が「スキヤキソング」として大流行したのはその顷であった。
フランス料理でも日本料理の影响を受けた新しいフランス料理「ヌーベル?キュイジーヌ」が料理界に革命をもたらした。これまでのようなオーバー?クッキングをやめて出来るだけ素材の味を生かし、盛りつけも美しく、量を少なめにして多くの品数をそろえるなど懐石料理の手法を手本にしたといわれる。
1980年(昭和55年)にはロスアンゼルスに回転ずしが出店してアメリカに寿司ブームをまき起した。1984年にはパリにヨーロッパ初の回転ずし「まつりずし」が开店、1988年にはアムステルダムに寿司の仕出し工场がつくられ一日一万食の寿司パックをスーパーに出荷し出した。1990年代に入るとロンドンにもスシ?ロボットが现われ、「ハロッズマダム」で有名な最高级デパート、ハロッズに「スシ?バー」が开店、「ハイテク日本の象徴」として上流人种が贔屓にしている。かつて日本食といえばスキヤキ、天ぷらが代表とされていたが、1980年代からは寿司、刺身の时代に入った。とかく生鱼を嫌った欧米人が喜んでこの「ヘルシー?フード」を食べ、それが格好のよい一种のステータスにもなってきた。

いま世界を歩けば、こんなところにまでと思われる场所にも日本食店が进出している。
たとえば南太平洋のフィジー?サモア、トンガ、タヒチ、バヌアッなどにも回転ずしをはじめ日本食がある。ホーチミン市にもスシ?バーがあり、バリ岛には「禅」「影武者」「さくら」「はな」、カトマンズにも「菊」「ふる里」「桃太郎」、ウランバートルに「石庭」、ウラジオストックに「七人の侍」など、中东でもクウェートに「庆」という寿司屋があり、ドバイには「京(みやこ)」がある。
さらにアフリカでもタンザニアには「东」、ナイロビには「赤坂」「御园」「将军」といった日本料理店がある。
「将军」という屋号はアメリカをはじめニューカレドニア、ストックホルム、オスローなどにも见られる。これは徳川家康に外交顾问として仕えたウィリアム?アダムス=叁浦按针を主人公にしたアメリカの小説『将军」が1980年に岛田阳子も出演したテレビ映画として放映され、全米に「ショーグン?ブーム」を捲き起した影响である。
とくにアメリカでは日本食ブームが続き、日本食店はこの10年で2.5倍以上増加、いまでは8000店を超えている。ニューヨーク?タイムズの社员食堂には寿司はもちろん、红しょうが付きの焼きそばや冷し中华まである。また手打ちそば屋も人気を呼び、タキシード姿のアメリカ人たちは冷酒の枡の端に塩をのせて饮むのは「クール」だともいう。
最近ではトウフ、ミソスープからトンカツ、ラーメン、スッポン、ふぐ料理と、日本食ならたいていのものが受け入れられるようになってきた。
昨2004年(平成16年)には「料理本のアカデミー赏」といわれるグルマン世界料理本大赏に、栗原はるみの「はるみのジャパニーズ?クッキング」という英语のレシピ本が选ばれた。これまで日本食は普及しても、それは外で食べるもの、外で买うものであった。だがこの本は、そうした日本食を家庭でも気軽に楽しめるようにしたとして高い评価を得たという。

日本食はいまや「ヘルシーな外食」から家庭料理の世界に入ろうとしている。

17世纪顷、醤油はこのような容器でヨーロッパに输出されていた
【左】寿司职人はアメリカで修行をしたという。法被の合わせもアメリカ流?!(笔者撮影)
【右】タヒチ岛の流水式回転寿司。模型のカヌーで寿司が运ばれてくる(笔者撮影)
ロンドン?ソーホー街にあるSUSHI BAR。回転寿司には透明カバーが掛けられている©Alamy images/PPS

食生活の见直し

戦后マッカーサーが连合军総司令官として来日した时、开口一番にこういったという。
「私は米と野菜と鱼と味噌の日本人の食生活を、パンとバターと牛乳とハムの生活に変えるために来た。」
だが戦后半世纪、いまでは欧米人が「米と鱼」の食生活を评価し始めてきた。しかし、日本人は依然として「パンとバター」の道を歩み続けている。健康食を夸る「日本型食生活」は欧米型への倾斜を强めるにつれて生活习惯病の急増など、欧米との同様の悩みを深めつつある。
2003年(平成15年)、冲縄県民に大きな衝撃が走った。「二六ショック」という。冲縄県が日本一の长寿県から転落したのである。最新2000年度の「国势调査」の结果が明らかになると、これまで长寿を夸ってきた冲縄県で男性の平均寿命が5年前の全国4位から26位に急落、肥満率でも男女ともに全国一となっていた。65才以上の男性の平均寿命は依然全国一だが60才未満では全国平均を下まわり、女性でも50才未満ではやはり短命化がすすんだ。とくに若年层では男女ともに、肥満、糖尿、心臓、脳血管などのいわゆる生活习惯病が急増している。戦后暂く米军の统治下に置かれていた冲縄は、日本でもっとも早くアメリカ化がすすんだところである。コーラの消费量など全国トップで全国の平均の4~5倍にも达している。食生活が急激に洋风化し、伝统食离れが进んだことが、冲縄短命化の大きな要因の一つとされている。このような「冲縄ショック」は日本人の食生活のあり方に重大な警鐘を鸣らしているのではないだろうか。

参考文献
  1. 1唯是康彦「日本の食粮経済」狈贬碍ブックス
  2. 2安达厳「日本型食生活の歴史」农文协
  3. 3「食べ物」东大出版会
  4. 4小菅桂子「近代日本食文化年表」雄山阁
  5. 5秋谷重雄?吉田忠「食生活変态のベクトル」农文协
  6. 6大塚滋「しょうゆ世界への旅』东洋経済新报社